1874~1880
○    挽歌
挂纒毛 … 藤原 王都志彌美爾 … 春避者 殖槻於之 … 朝裳吉 城於道從 … 角障經 石村乎見乍 … 懸而思名 雖恐有
かけまくも … 藤原の 都しみみに … 春されば 植槻が上の … あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ … 懸けて偲はな 畏くあれども
    反歌
角障經 石村山丹 白栲 懸有雲者 皇可聞
つのさはふ磐余の山に白栲にかかれる雲は大君にかも
    右二首
挽歌の最初。巻13はこれで最後にする。まだまだ地名は多いが知らないところや興味の湧かないもの。
これも巻13らしく、歌枕的に有名な地名もでるにかかわらず一向に要領を得ない。藤原の都→植槻が上→城上の道→磐余、磐余の山
特に中間の植槻、城上の道順が曖昧。

管見、槻の木ヲ殖たるほとりに、松も立ならひて有。
拾穂抄、うへ槻は植し槻の木也
代精・代初、初、殖槻は地の名也。神樂の、小前張に… 高市皇子の挽歌としているので、きのへ、を廣瀬郡とする。いはれ、との矛盾には触れず。
童蒙抄、殖槻は大和の地名也。神樂歌にも、小奈張にうゑづきや田中杜やと歌ふも此所也 城於道從 凡て墓所を、きと云也。地名にてもあるべけれど相兼てきのへとは云へるならん。 石村は、いはれと云所なるべし。但石むらと云所もあるか
万葉考、植槻於之、 今昔物語に、敷下郡植槻寺、と有、神遊に、田中の森、といふも同じ、 城於道從、 【城於道と云は、城といふ所のうへの道なり 石村乎見乍、 反歌に依に、石村は此葬まゐらする地故、其山を望みつゝ行なり、さて飛鳥よりは北、初瀬よりは南に、今もいはれといふ山有、…、此度は藤原(ノ)都より南東へ向て、其石村にをさめんとて送まゐれり、是をもて思ふに、城於道は城上郡の磯城てふ所をいふか、又其邊に城といふ地有か、右にいふ如くなれば、廣瀬郡の城缶《キノベ》とは甚異なり、
略解、殖槻、今昔物語に敷下郡殖槻寺と有り。神樂歌に殖槻や田中のもり… (真淵のキノヘ説を全文引用判し)されど此説穩かならず。城於は廣瀬郡の城缶なるべし、 皇子ノミコトと言へる例無ければ、高市皇子命の薨の時の歌にて、ここの城於も卷二の端詞の城上と同じく、廣瀬郡とすべし。キノヘノ道ユと言ふは、其きのへの方へ行く道よりと言ふ事なり。…。又石村山を言へるは、右にも言へる如く、必ずしも葬りませし山ならずとも、其わたりの雲を見ても御面影をしのぶ意とすべし。
古義、殖槻於は、今昔物語に、敷下(ノ)郡植槻寺とあり、(今郡山に、植槻八幡宮ありとぞ、其は此(ノ)植槻より勸請せる神社には非ぬにや、尋べし、)神樂歌小前張に、植槻や… きのへ、いはれ、についてほぼ略解説と同じ。
略解、古義が詳しい。

○新考、きのへ、は墓地ではなく通過地だから、契沖雅澄のいうような高市皇子薨去の時の歌ではない。殖槻は今の郡山附近の地名である。イハレノ山は葬處である。
口訳、特になし。
全釈、今、郡山町に植槻八幡宮があり、植槻といふ地名も殘つてゐる…。城於は…。北葛城郡馬見村大塚とも、六道山ともいふ。…。城上の道を通つて。石村は大和磯城郡、安倍村附近一帶の地。(反歌)石村山の白雲を火葬の煙と見たのである。
齋藤総釈、殖槻、全釈とおなじ。他も全釈とおなじ。ただし反歌を火葬とは見ず、雲を皇子の霊魂と見ている。
全註釈、藤原の京からは、城上は東方、石村は西方に當るので、この歌のままとすれば、皇子の御殿が城上方面にあつたことになる。 全体反歌も含めて全釈とおなじ。
古義否定の井上新考からはじまってややこしくなってきた。武田の新説も独特。

○窪田評釈、全釈、全註釈とおなじ。
佐佐木評釈、通説通りで地理の矛盾とかには触れない。反歌は全註釈とおなじ。
私注、殖槻は今の郡山の地名とされるが、今昔にあるように磯城下郡と見る方がよい。キノヘは墓側への道からとすれば地理の矛盾は避けられる。反歌は火葬の煙。

○大系、通説通りで地理の矛盾とかには触れない。反歌も特になし。直訳だけ。
注釈、詳しいが結局大系と同じ。
全集、大系と同じ。
集成、きのへを明日香村木部とし、反歌の煙を火葬とする以外に特になし。
全訳注、いはれを葬送の地とする以外特になし。

○曾倉全注、殖槻、諸説の紹介は非常に詳しいが結論を出していない。きのへ、広陵説が広く行われているというだけ。自分の判断を示さない。反歌は火葬の煙ではないとする。地理的な矛盾についてはちょっと指摘するだけ。全体に非常に長いが、諸説の陳列で終わることが多いのでは意味がない。
新全集、何もない。地理には触れない。殖槻が藤原からは遠すぎるというだけ。
釈注、きのへ、広陵説と飛鳥説を紹介するだけ。反歌は火葬の煙とする。
和歌大系、全注を簡単にしただけで、地理の矛盾には触れもしない。
新大系、通説通りというか何もなし。

阿蘇全歌講義、通説通りというか何もなし。
多田全解、広陵町きのへに皇子の宮殿があったかとする。他は特になし。