2303、そがひ4

2303、そがひ4
吉井氏より2年後。紀要に載った程度のもので、ほとんど知られていないと思うが、西宮氏は国語学関係で知られた人だから、語意を見るのに参考になろう。

上代語コトムケ・ソガヒニ攷、西宮一民、皇学館大学紀要・第三十輯、1992.1.1
まず最新の研究として吉井論文を上げる(その中で小野説にも言及)

私は次のやうに考へる。…。次に、ソガヒニはソ=ムカヒニであって、セ=ムカヒニではないといふことである。ソは…、「正面から外れた方向」をさす。…。要するに「正面から外れる方向」であるから、左右斜前方からずつと首を廻らして振返つて見る範囲のことと思へばよいのである。つまり、「真正面と真後ろとを除いた視野」のことだと私は考へる。さて次はムカヒニである。これは、「向うに、離れて」の意である。ムカフ〔右○〕ニではなくて、ムカヒ〔右○〕ニのウ音便がムカウニとなるのであるが、今日の常用語「向うに」の奈良時代語が、ムカヒニである。従って、「向うに」と訳せばよいのであって、これは「向うに、離れてある」状態をいふのである。
 かくして、ソ=ムカヒニ>ソガヒニは、「正面から外れる方向の、向うに離れて」の意となる。
 B ソガヒニ見ゆる((1)(5)(7)(9)(11))……斜前方の、向うに離れて存在する~が見える。(自らは固定した場所から見える。しかし、直視すれば斜に見なくてよいのにと思ふのが間違ひのもとで、人間が立って遠望する時、視野の中央を以て真正面としてゐるのであって、それを軸に斜前方とか、右寄り・左寄りにある沖つ島とか言ってゐるにすぎないのである)
 C ソガヒニ寝しく((6)(8))……相手とは正面に向かないで、、向うに離れて寝たこと。(これでは後悔の残る寝方である。吉井氏説では、「向つたり背にしたり」がちぐはぐな一夜といふが、理解を越える説だと思はれる)
となり、すべてに妥当する理解ではないかと考へる。

短い論文なのに、長々と引用したが、さすがに過去の論文の欠陥を踏まえているだけに参考になる。最後のCの吉井批判は痛烈だ。私もそう思ったぐらいだから、当然だろう。全体に、語原から考えた妥当な説のようだが、やはりBが引っ掛かる。沖つ島、玉つ島、春日野、立山、葦穂山、などを名指ししながら、なぜそれを右寄り・左寄りに見えるという必要があるのか。それを視野の中心部に置けばよいではないか。「背」は漢語としては、離れるの意味があるとしたが(前回、小野氏の結論と同じであるのを言い忘れた)、「ソ」と読んでも、離れる、隔たるの意味があるのは、山崎氏の言われる通りだろう。「向」を「向うに離れて」とされたのは卓見であろう。それでかなり筋が通る。だから、「正面から外れる方向の、向うに離れて」ではなく、「遠く離れた向こうに」で良いと思う。名指ししたものを、遠く向こうに見ながら、あるいは、~から遠く向こうに見えるものが(ものは名指しされる)、でいいだろう。遠く向こうに寝るでは大げさだが、いつも同衾して接して寝ていたものが、畳一枚以上も離れたら、遠く離れた感じだ。ただし西宮氏の言われる「外れた方向で」というのは理解しにくい。同衾しないのに、正面も外れた方向もないだろう。足先であろうが、頭の先であろうが、或いは正面であろうが、手が届かず、顔が見られず(背中を向けている)、体温が感じられないことでは同じだ。

 

2302、そがひ3

2302、そがひ3
次に移る前に、小野氏のまとめられた年代順配列を引用しておきたい。
  文武朝     五〇九 背に見つつ  (丹比笠麻呂)
 
          三五八 背に見つつ  (山部赤人
  元正~聖武朝  三五七 背向に見ゆる 〈山部赤人
 
  神亀元年    九一七 背匕に見ゆる (山部赤人
  天平七年    四六〇 背向に見つつ (大伴坂上郎女
    
          一四一二 背向に寝しく (巻七作者未詳歌)
  ?年代不明   三五七七 曽我比に寝しく(東歌)
          三三九一 曽我比に見ゆる(東歌)
        四〇〇三 曽我比に見ゆる(大伴池主)
 天平十九年  四〇一一 曽我比に見つつ(大伴家持
 天平勝宝二年 四二〇七 曽我比に見ゆる(大伴家持
 同八年    四四七二 曽我比に見つつ(安宿奈杼麻呂〉

年代不明のもあるが、文武朝以降の万葉後期であることは間違いなく、赤人や、家持及び家持周辺の人が目立つ。一字一音式はいいとして、訓字の場合、「背」と「背向」はどう違うのかはっきりしない。小野氏も言われたが、「向」を「がひ」と読むことは無理なようだから、「背向」の二字の熟語的な意味が「そがひ」なのだろう。とすると「背」だけで「向」の意味も表せるとなるが、それは通説のように、「後の方を向いた」「後ろの方向」と言った意味に取るのが一番素直だが、それだと、山崎、小野説のいうように、歌の解釈に困る。表記と歌意が一致しない。難問である。
そこで、漢籍調査では定評のある、吉井論文を読む。

吉井巌「萬葉集への視覚」和泉書院、1990.10.25、所収、
萬葉集「そがひに」試見(1981.2初出、小野氏より2年後のもの)
まず通説への批判については小野氏に譲るとし、「背」は「背く」だというのは新説だという。なぜか山崎説には触れない(最後まで出てこない)。そして「そむく」が「背向(そがひ)」になる過程への説明がないことを批判する。その他用例のいくつかについて説明不十分とし、通説の水準以上のものではないとする。そして、
私は、試見として、ソガヒの表記は「背向」が本来のものであり、それは漢籍の「背向」の翻訳語として生まれたのではないか、という案を提出してみたい。
とする。そして、
例示した二例はいずれも後・前(前後)の意に用いられている。「そがひ」は、この「背向」を翻訳した「前後」の意、或いは「向つたり背にしたりする」意の語として用いられたのではなかろうか。
とする。
この二例というのは、
「『淮南子』兵略訓、明王之兵」と「『漢書』芸文志」であるが、どちらも用兵のありかたを説いたもので、やや特殊な用例と言えるし、「青雲攷」で示された厖大な漢籍の引用からすれば物足りない。このわずか二例のやや偏った用語を万葉歌人が翻訳して用いたかどうか心もとない。されに、ある時は動詞のような意味で使い、ある時は名詞で使うというのもやや恣意的であり、また、小野氏への批判と同じだが、「背」ではなく「背向」だとしても、その漢語を翻訳するとなぜ「そがひ」になるのか、それがわからないし、説明もない。山崎氏の「そがひ」は「退(そ)く」から転じたものだとする方が分かりやすい。もちろん、「退く」が「背」或いは「背向」と表記される理由は分からない。しかし、小野氏、吉井氏の説よりはましだと思うのである。
 吉井氏は、各用例の点検で、「そがひに見つつ」(五例ある)は、「向つたり背にしたりする」の意味だとする。こういう風に構文上から各用例の意味を区分されたのは新見であった。それはともかく、この用例は視点が動きつつあるというのは分かりやすく、だから、見る対象に「向ったり」、それを「背にしたりする」意となるというのもわかるが、細かく言えば、前半は向かっており、後半は背にする、という動きなので、正反対の動きを繰り返すのではない。そういうのを「そがひ(向かったり背いたり)」という状態で「見つつ」と言うのは意味的におかしいとも言える。つづら折りの道なら有り得るが。用例は直線またはそれに近い道であり、海路だ。
 次は「そがひに見ゆる」でこれまた五例有る。これは視点が固定しており、対象が前後して見えるという意味だと言う。うち縄の浦と玉津島の二例は、
島々が前後に見渡される、その見えかたを表現したものであろう。
という。前にあるものが向かっているもので、後の方に見えるのが背きつつあるという意味の「前後に見える」だろうか。そんなことは言えないだろうから、ただ位置関係としての前後と言うことなのだろうか。それなら、「背向」という動詞的な意味でなく「遠近」という名詞的な意味の語で言うべきだろう。
立山の例については、
この前後に重なつてみえる見え方を「そがひに見ゆる」と表現したものと考えるのである。
とする。重なって見えるの「そがひに見ゆる」と言えるかどうか疑わしい。歌では、立山がそがひに見える、というので、立山とその他の前に連なる山々とをふくめて「そがひに見える」というのではない。立山と大日岳などとは、別の山であり(少なくとも歌では別の山と見なしている)、それらを含めて前後に見えるというのは無理である。それに、普通は、どこでも山は尾根などが重なって見えるものだが、前後一列に並んで見えるなどというのはかなり特殊である(見る角度によって、横に一列なら、前後ではなく左右に並ぶであり、ばらばらなら、前後左右ではなく、ちらばるである)。立山の場合、高岡から見ると、相当に離れており、大日岳などが前後一直線に並んで見えるかどうか疑わしい。剣、立山、薬師などの稜線に呑み込まれるだろう。広縄の居宅については、吉井氏も明言されていないように、私も保留する。もう一つの、葦穂山については、
あしほ山の姿が、足尾山を前に、その北後方に約八〇メートル高い加波山が重なり、やゝ右寄りに仏頂山としてみえる、その前後に重畳してみえる見えかたを、「そがひに見ゆる葦穂山」として捉えた表現と考えることができる。
とする。筑波山から見た光景ということだが、そこから足尾山まで、だいたい八キロあり、相当に離れている。そういえば、縄の浦の沖つ島も一〇キロ離れていた。私は茨城県は一度も行ったことが無く全く山も何も知らないのだが、足尾山から北方の加波山などの一帯の山を「そがひに見ゆる(前後して見える)」などと言えるだろうか。歌では足尾山そのものが「そがひ」に見えるというのであり、全く別の加波山なども含めて「そがひ」に見えるとはいっていない。立山の場合と同じである。前後して見えるというのには無理がある。一帯の山々を当時は「葦穂山」と言ったのだとしても同じである。それなら、葦穂山が「そがひ」に見えるのではなく、葦穂山の峰々が、重なって見えるのである。
最後の「そがひに寝しく」の2例については、
「そがひ」も「向つたり背にしたりする」意をもつことはすでに述べた。「そがひに寝しく」は、相手と一つになつて抱擁せず、相手に向いたり背にしたりしてちぐはぐな一夜を明したことを意味していると思う。
という。これなどは、山崎、小野両氏の説よりも劣る。不和になったら、とことん背をむけたり離れたりするのであって、相手に向かうなどということはあり得ない。それに、山や島などが前後に並ぶ(重なる)のところでもそうだが、前に行ったり後ろに行ったりとか、向いたり背にしたり、というのは、動きを(あるいは動きを示す状態を)示す副詞の用法であって、それは「そがひに」のように「に」を必要とする。「そがひ」だけで、「向つたり背にしたりする」という動詞や副詞の意味になるのも納得しにくい。だいたい「そがひ」の翻訳語としての語構成も説明がない。
ということで、吉井氏の説も、全用例を的確に説明してはいない。山崎、小野氏の説よりも適用しうる例が少ないと言ってもいい。後発論文としては物足りない。漢籍の前後左右の前後の意味での用例が二つあるだけの一説と言うことである。

吉井氏はわずかに2例を出しただけと言ったが、「中国哲学書電子化計画」で検索してもなかなか見つからない。吉井氏の出された「淮南子」と「漢書」の例はあった。よく見付けられたものだと思う。しかも「背郷」の表記になっているのだからなおさらだ。「史記」にはなかった。「藝文類聚」で、「背」を検索すると204例あり、すべて確認したが、「背向(郷)」は一例もなかった。「漢典」を見ると、
「背」
(5) 离開 [leave]
生孩六月,慈父見背。(見背离開了我,指死去。)——李密《陳情表》
背井离郷,卧雪眠霜。——馬致遠《漢宮秋》
という項目があり、英語でも分かるように、離れる、離れ去る、といった意味だ。
ただしこれが「背向」となると、背くことと従うこと、といった意味になる。万葉の例でも、背、一字のもあるが、背向、となったのもあり、しかも「そがひ」の語構成がはっきりしない。歌の意味からすると、山崎氏などの言われる「離れる」の意味が一番ふさわしい。「向」は、漢字本来の意味ではなく、「そがひ」の「がひ」にあてた借字ではないだろうか。「そ」は「退(そ)く」の「退」を「背」であらわしたものだろう。「そがひに」は「離れる(離れ去る)状態で」の意味だろう。「後ろ」といった意味はなさそうである。

2301、そがひ2

2301、そがひ2
小野寛『大伴家持研究』笠間叢書145、1980,3,31、「そがひに」考(初出『論集上代文学』第九冊1979,4)
この方のも印象に残る。しかも山崎氏の9年後だ。
池主の「そがひ」をまず考察している。そこに、
土屋私注は、
 ソカヒは正面でないことであるが、ここなど遥かの意がある如くである。
といい、口訳は「遙かに見える」としている。越中国府あたりから立山連峰は、およそ五十五キロのはるか空の彼方にある。
と引用している(私注は確かにそう言っている、そしてそれだけしか言っていない)。私注は山崎より遥か以前だが、すでに「遥か」と言っている。しかし山崎氏は紹介していなかった。当然見ているだろうが、私注では根拠を示さず、他の「そがひ」を遥かとはしていないので略したか。
小野氏は各用例について、丁寧に注釈類を検討し、批判したあと、ようやくり第5節で、山崎氏の説を長く引用し、
 古い「背向」の表記で示された、山崎氏の言われるところの「語源意識」が失われて、万葉時代には新しく「そく(退)」にかかわる意味で用いられていたとすれば、万葉の表記の通例によれば「背向」の表記も失われるはずである。しかるに集中、漢字表記例はすべて「背」が用いられている。
とされる。やはり、「遥か遠く」の意味とすると、「背」の字が違和感があるのである。
そこで、小野氏は、
さて、「そがひ」の意味は「背」一字で表記されうるものに間違いない。「背」は集中、次のように用いられていた。
  地名「山背」(→ウシロ) 一  
  動詞「ソムク」      三  
  「背トモ」の「ソ」    一
 「背」はそむくの意である。
  飛ぷ鳥の明日香の河の…ながかひし よろしき君が 朝宮を忘れ給ふや 夕宮を背き給ふや(巻二・一九六)
と歌われているように、「そむく」は離反し、離れ去る意である。
とするのである。これは全くその通りなのだが、「ソムク」がなぜ「ソガヒ」になるのか、以下最後まで読んでも、一言の説明もない。ただ、離反し、離れ去るという意味に解釈すればすっきりすると言うだけである。しかも大方、動詞の意味ではなく、遠く離れたところといった名詞、離れた状態でと言った副詞の意味で解釈している。「ソムク」がなぜ「ソガヒ」になるのかを説明しないと、「離反し、離れ去る意」にはならないだろう。「背」という漢字で書かれているからそう言う意味になるので、読みは関係ないでは説得力がない。「さき竹のそがひに寝しく」で山崎氏の説に賛同されたが、「やますげの」の方は認められなかった。私はそちらも山崎氏の説でよいと思う。「遠く離れたところ」でも、「遥かかなた」でも、ほとんど同じで、しかも「背」の難点を解消させることも出来なかった。それなら、山崎氏の説の方がましと言えよう。ただ、後ろとか斜め後ろ、横とかいう通説を山崎氏よりもさらに詳しく批判したところが取り柄と言えよう。しかし、「背」あるいは「向」も、ひっかかるのか、この、山崎、小野説は、今のところ、ほとんど問題にされていないようなのだが。もう少し、他の説を見てみよう。

2300、「そがひ」考

2300、
さしあたって、すぐに調べたいものはない。取り敢えず、古く何度か調べたものの中で、なにか新しく考えが出そうなものから一つふり返ってみたい。もういちど徹底的に調べる気もないし、なにもでないかも知れない。その時は消してしまう。

【原文】  山部宿祢赤人歌六
三五七 縄浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下
三五八 武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
三五九 阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念
三六〇 塩干去者 玉藻苅蔵 家妹之 濱※[果/衣]乞者 何矣示
三六一 秋風乃 寒朝開平 佐農能岡 将超公尓 衣借益矣
三六二 美沙居 石轉尓生 名乗藻乃 名者告志弖余 親者知友
     或本歌曰
三六三 美沙居 荒磯尓生 名乗藻乃 吉名者告世 父母者知友
阿蘇全歌講義による。
357 縄《なは》の浦《うら》ゆ そがひに見《み》ゆる 沖《おき》つ島《しま》 漕《こ》ぎ廻《み》る舟《ふね》は 釣《つり》しすらしも
358 武庫《むこ》の浦《うら》を 漕《こ》ぎ廻《み》る小舟《をぶね》 粟島《あはしま》を そがひに見《み》つつ ともしき小舟《をぶね》
以下略
ここにある「そがひ」は一つの万葉集の謎で、数多くの論文が書かれてきた。私も早くに興味を持ち、ほぼすべての論文を読んで、まとめたことがある(原稿は残してある)。こういうのは、先行論文に首を突っ込むと、その論点しか見えなくなって、新しく考え直すのがむつかしく、一部分にちょっと目先を変えた論点を示して、論文をしあげてしまうことになりやすい。だから半分以上が先行論文の紹介になってしまう。
今改めて読んでみると、なぜこの巻三の赤人の歌に初めて出るのかといったことを思う。巻一、二に出ないで、巻三以降に出る語も多いだろうが、なぜここで赤人の作なのか、というのが、奇妙な語だけにちょっと引っ掛かるのである。
阿蘇の訳。
三五七 縄の浦から背後に見える沖の島を漕ぎ巡って行く舟は、釣をしているらしいなあ。
三五八 武庫の浦を漕ぎ巡る小舟よ。妻に逢うというアハの名を持つ粟島を背後に見ながら、漕いでゆく羨ましい小舟よ。
「背後に見える」とか「背後に見ながら」とかでは、何を言ってるのか分からない。まさか背中に目があるわけでもないだろうに。だから色々と辻褄をあわそうとする説が出るわけだ。六首のうち残り四首が素直な詠みぶりだけに余計に引っ掛かる。
阿蘇は、語注で、「そがひ 背後。ソは、背。カヒは、方向。」とするだけで、普通なら五月蝿い程にいろいろある説を紹介するのに、一切何も触れず、また背後に見るの補足説明もない。た六首の構成への言及もない。そっけないものだ。

ついでに、多田全解。
357、縄の浦から対向に見える沖の島、そこを漕ぎめぐっている舟は釣りをしているらしいことだ。
ここは、「沖つ島」が、縄の浦に対して背中合わせに向き合う位置にあることを示すのだろう。

358、武庫の浦を漕ぎめぐっていく小舟。妻に逢うという粟島を背に見ながら、羨《うらや》ましくも漕いでいく小舟よ。

島が浦に対向するとか、背中合わせに向きあうとか、背に身ながら、とか、ほとんど説明になっていない。無機物が背中合わせというのは、譬喩でない限り無意味だし、背に見るというのも、阿蘇の所で言ったように、物理的に無理な感じだ。大量の注釈書類を見てもよく分かる説明は期待できないので、これでやめる。それに、赤人はなぜこういう意味不明の言い方をするのかが問題なのに、それを解決する注釈書類も無いようだ。

山崎良幸『万葉歌人の研究―文芸の創造とその表現―』風間書房、1972.7、所収「「そがひに見ゆる」考」が便利なので、そこから全用例を引用しよう。

 1 縄の浦ゆそがひに見ゆる(背向尓見)沖つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも(三・三五七)
 2 武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ(背尓見乍)羨しき小舟(三・三五八)
 3 春日野をそがひに見つつ(背向尓見乍) あしひきの 山辺を指して(三・四六○)
 4 天さがる 夷の国辺に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ(背尓見管)…波の上を い行きさぐくみ 岩の間を い行き廻り 稲日都麻 浦廻を過ぎて(四・五〇九)
 5 雑費野ゆ そがひに見ゆる(背ヒ尓所見) 沖つ島(六・九一七)
 6 わが背子を何処行かめとさき竹のそがひに寝しく(背向尓宿之久)今し悔しも(七・一四一二)
 7 筑波嶺にそがひに見ゆる(曽我比尓美由流)葦穂山悪しかる咎もさね見えなくに(十四・三三九一)
 8 愛し妹を何処行かめと山菅のそがひに寝しく(曽我比尓宿思久)今し悔しも(十四・三五七七)
 9 朝日さし そがひに見ゆる(曽我比尓見由流) 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山(十七・四〇〇三)
 10 三島野を そがひに見つつ(曽我比尓見都追) 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと(十七・四〇一一)
 11 此間にして そがひに見ゆる(曽我比尓所見) わが背子が 垣内の谿に(十九・四二〇七)
 12 大君の命畏み於保の浦をそがひに見つつ(曽我比尓美都〃)都へ上る(二十・四四七二)        
一応、山崎論文を読んでみた。すでに何度か読んだものだが、まったく記憶になく、あらためて新鮮な感じで読めた。そして、私が予想した解釈とぴったり一致したので驚いた。いろんな説を前提にしないで虚心坦懐に考えた結果が、寸分違わず一致したのだから、以前詠んだ時にはやはり有力な学者の説にとらわれていたと言わざるを得ない。

 以上集中のすべての用例にわたって」「そがひ」の語において「うしろ」または「背後」の意を表わすものと解しなけれはならない必然性は、遂に見出しがたいと云わざるを得ないのである。それどころか、そう解したのでは、歌意がかえって不自然にすらなるはずである。「そがひ」の「そ」は、むしろ「そく」や「そき」「そきへ」等における「そ」と意味的関連をもつものと解して、これを「遥か彼方」の意を表わすものとするならば、すべての用例にわたって合理的な説明が可能になるのではないかと思うのである。

これが結論であった。引用しなかったが、「そがひに寝る」の解釈も目からうろこであった。同じ蒲団で背中合わせに寝るなどという生やさしいものではない。蒲団そのものを別にして寝るのだ。これでこそ、心理的には「遥か彼方」で寝るというものだ。
あっさり結論が出て、なんとなくあとを続ける気がしなくなったが、山崎論文が1972年に出てから、すでにほぼ50年もたっているが、阿蘇、多田で見たように、山崎説は全く無視されて、相変わらず後ろの方向などといっている。

山崎説では、「背向」「背」という「そがひ」の表記を、
「退き」、四段、《ソ(背)・ソムキのソと同根》遠ざかる。
         名詞、はて。辺境。
退き方、《へは辺境》遠く離れたところ。そくへ。(以上、岩波古語辞典)
と関連づけている。ついでに、岩波古語で「そがひ」を見ると、通説と同じ。時代別も同じ。ただし「背中合わせ」の意味は載せない。「退く」「そきへ(そくへ)」も同じ。

即ち「そがひ」と「そむかひ」との間の語源意識による結びつきが失われると、「そ・がひ」という分析意識を生じ、そこに「そがひ」の「そ」と、「そく」や「そき」「そきへ」における「そ」との間に意義的類推が成立するわけなのである。かくて「そがひ」の語は、「うしろ」または「うしろの方」の意よりも、むしろ「そき」や「そきへ」の語に引かれて、「遥か彼方」とでもいうような、いわば遙か遠くに望み見る場合に用いられることとなったのではなかろうか。しかして「そき」「そきへ」の語が、一般に視界外の場所をいうのに用いられたのに対して、「そがひ」は視界内の場所、即ち遠望できる場所を表わすのに用いられたのであろう。

と、山崎氏は言われる。意味の混淆の結果「そき」や「そきへ」の語に引かれたて意味が変わったということだが(「そがひ」が死語になり「そきへ」の意味が混じってきたということか)、我田引水の感がなきにしもあらずで、これが支持されない理由だろうか(複合した時清音になって濁音にならないのが弱点とも、山崎氏は言う)。「背向」の「背」という表意の漢字で、遠くにとか遠ざかるとかいう意味にはならないだろうと言うのも根拠だろう。「そき」「そきへ」の万葉の用例が「曽伎」「曽伎敝」しかなく、「背」の字を使わないのも引っ掛かるが。しかし、「退き」の「そ」は、ソ(背)と同根とあるのだから(岩波古語)、無関係とは言えないだろう。歌の解釈という点では「遥か遠く」の方が合理的だから、山崎説でいいと思うのだ。

 

東京、長野、近畿の人口

2021年9月
東京都、1403,7872人、5367人減、世帯数2403減。
長野県、202,1212人、887人減、世帯数58増。
大阪府、881,5376人、3310人減、世帯数9減
京都府、256,5128人、1513人減、世帯数298減。
兵庫県、543,9721人、1554人減、世帯数8減
滋賀県、140,9465人、17人増、世帯数84減
奈良県、131,4445人、562人減。世帯数172増。増えたのは、生駒68、葛城28、三郷2、斑鳩16、田原本5、王寺6、広陵18、上北山1、川上2、東吉野1の10。
和歌山県、91,4632人、536人減。世帯数72減。増えたのは、岩出22、日高13、上富田9の2つ。
和歌山市(35,5013)-奈良市(35,1659)=3354
滋賀県だけが人口増加というのは変わっている。しかし世帯数は減。近畿で世帯数が増えているのは奈良県だけ。それも大きく。一世帯の家族数が少ないのだろう。

2299、耳我嶺考(終了)

2299、
追加。三皇本紀。地皇…興於熊耳、龍門等山。
唐詩で検索すると、李白のが一つあるだけ。
        送外甥鄭灌從軍三首
六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。
丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猨啼。
破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。 赤眉軍が兵甲を積み上げたら熊耳山と等しかったという故事を詠んでいる。水経注以来知られた話だ。

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。
斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

文学方面では人気がなかったようだ。

維基文庫で検索するといくらでも出て来る。
史記、巻二、夏本紀、「熊耳、外方、桐柏」「道雒自熊耳」。要するに「尚書」と同じ。
史記正義、夏本紀の注で、熊耳山を出す。
史記史記集解の注として、「登熊山」。
史記、巻三二、「望熊山」。史記集解がそれを「熊耳山」とする。
史記以外で。
佛學大辭典、達磨を葬り、定林寺を建てた。
隋唐演義、熊耳山で李密の死骸を見付けて取った。
元好問の詩の題に、「望盧氏西南熊耳嶺」。金の時代の人だから天武とは関係ないが、熊を取れば「耳嶺」となる。
熊峰集、明代の詩集。熊耳峰として詠まれている。
太平御覽にもいろんな文献が出ているが、新しい情報はない。
文選、巻三、東京賦。巻八、羽獵賦。巻五七、陶徵士誄并序、顏延之。
藝文類聚、巻七、巻八、巻一一、遁甲云々といっているので、確認する、巻六六、巻七八。
以前藝文類聚の山部にはないといったが、やはり全文検索の威力はたいしたもので、もう一度読み直す。また文選も索引なしで捜すのは大変だが、ネットの全文検索なら簡単に出る。これらは、万葉人も読んでいるし、天武も読んでいた可能性が高いから確認する。尚書史記にあるぐらいなら、当然、文選、藝文類聚にもあるのは当然であった。
漢書、二五巻郊祀志、二八巻地理志、八七巻揚雄傳
後漢書、巻二九郡國一、巻四一列伝一。

文選、巻三、東京賦
大室作鎭掲以熊耳
尚書傳曰、熊耳山在宣陽之西也。
文選、巻八、羽獵賦。
泰華爲旒、熊耳爲綴。
善曰、綴、亦旒也。
泰華、熊耳といった名山を幢にしたことだが、どの熊耳か不明。河南省の盧氏県のだろう。
文選、巻五七、陶徵士誄并序、顏延之。
若乃巢高之抗行,夷皓之峻節,
皇甫謐逸士傳曰:巢父者,堯時隱人也。莊子曰:堯治天下,伯成子高立為諸侯。堯授舜,舜授禹,伯成子高棄為諸侯而耕。史記曰:伯夷、叔齊,孤竹君之子也,隱於首陽山。三輔三代舊事曰:四皓,秦時為博士,辟於上洛熊耳山西。禰衡書曰:訓夷、皓之風。
陶淵明のことだから、万葉人も読んでいただろう。四皓が熊耳山に避難したとあるが、普通は「商山四皓」といって「商山」に隠れたことにする。この文選李善注では、熊耳山西とする。どちらも、陝西省商州にあって、詳しくはわからないが、商山というのが現在の商洛市一帯の山地で、その中に、熊の耳の形をした熊耳山があるのであろう。これは水経注などにある河南省のとは違う、三つ目の陝西の熊耳山である。といっても、河南のは、山地一つを超えただけの背中合わせだ。長安と洛陽の間に三つも熊耳山があったのでは紛らわしい。しかも三つとも、熊の耳の形をしている。天武の場合、この陝西の熊耳山が最もふさわしい。四皓が秦の朝廷を逃れて隠れ住んだというのだから、境遇が似ている。しかもこちらは、長安西安)の南東方、天武がほぼ近江から見て真南の吉野へ行ったのと、やや方向はずれるが、南方である。

藝文類聚、
巻七、總載山、史記曰、黄帝…南至熊湘。 北邙山、…西睨熊耳…。
巻八、總載水、博物志曰、…洛出熊耳…。洛水、尚書曰、道洛自熊耳…。
巻一一、地皇氏、遁甲開山圖曰、地皇興於熊耳龍門山。
巻六一、總載居處、西京賦、…太室作鎮、掲以熊耳、厎柱輟流、鐔以大岯…。
巻六六、田獵、漢楊雄羽獵賦曰、泰華為旗、熊耳為綴…。
巻七八、靈異部、仙道、後漢黄香九宮賦曰、…蹈底柱而跨太行、肘熊耳而據桐柏、分嶓冢而持外方、使織女驂乘…。
既に出たものも多いが、遁甲、仙道関係のもあり、色々とよく知られた山であることは確かだ。

阪下圭八「初期万葉」平凡社選書、天武天皇伝一斑 四 遁甲および抱朴子
によると、隠遁したり仙道を求めて名山に入ったりする方を、天武は、「抱朴子」を読んで知っていただろうという。熊耳山は、遁甲における名山であった。天武は、吉野の大峰を熊耳山になぞらえて「耳が嶺」といったのではなかろうか。

 

2298、耳我嶺考(継続中)

2298、雨や雪の降る山道を辿るということで、中西氏、坂本氏など、漢籍の出典を指摘されたが、私は、そこまで考える必要がないと共に、「耳我嶺」に漢籍の面影があるのではないかと推測する。だいたいこんな地名(耳我の嶺と読む時)は吉野にありそうにないが、私のように「耳が嶺」と読めば、耳のような形をした山と解釈され、これなら、天武が大峰の弥山あたりを遠望して、造語したものとも思える。古代文献では、山を耳の形に見なしたのは、耳成山ぐらいしかないが(確実かどうかは分からない)、現代は、由布岳の頂上を「猫の耳」(実地で見るとその通りだ)というなど、各地にある。天武はそれほども、各地の山の名に詳しかったとは思えないから、漢籍に耳のつく山の名があるのではないかと思う。まずは、熊耳山が有名だが(といってもこれだけしかない、あとは現代の地名辞典に少しある程度)、どんな文献に出るだろうか。
誰もが見るであろう、「藝文類聚」第七、八巻の「山部」には、残念ながらない。「初学記」巻五「地部上」にもない。
そこでネット。名山だから、当然、百度百科にある。河南省にあり、長江と黄河分水嶺で、主峰の高度2103mとある。この程度は地図を見れば分かる。出典とかを見ると、水経注、尚書禹貢にあり、道教の聖地ともある。道教の聖地となれば、天武は道教に詳しかったことが想起されるが、道教の聖地などは、中国にたくさんある。水経注には双峰競秀とあるそうだが、これも命名の由来としてありふれている。あとは、自然科学や観光方面の記述が詳しい。歴史上は、隋末に、李密が没したところとして旧唐書にあるらしい。道教的には、唐宋以降に有名になったらしい。どちらも天武の時代としては新しすぎるか後の時代だ。ただし李密の情報は入っていたかも知れない。反乱を起こしたのは似ているが、熊耳山で誅殺されたのでは、天武にとって縁起でもないだろう。
平凡社、中国古典文学大系21、洛陽伽藍記・水経注(抄)
洛水。熊耳山は2箇所出る。尚書禹貢、博物志、を引用して洛水がその山の北を通り、洛水の源流となる、とする山。注によると、漢書地理志、太平御覧引図括地象、にある熊耳山と同じとある。もう一つは宣陽県の南を流れる洛水の北にあり、その並び立つ峰が熊の耳に似ているという。ただしこれはあまり有名でないようで、付載の地図にも記入されていない。
水経注全訳。山西人民出版社。巻十五、洛水…、にある。当然平凡社のと同じ内容。二つ目のほうは、「双峰※[競の半分]秀、形状好象熊的耳朶…」「与禹貢所説洛水発源的熊耳山不同。」とある。
水経注全訳。貴州人民出版社。巻十五、洛水…、前者とほぼ同じだが、こちらは原文もある。「双峰并起、様子像熊的耳朶…」「這与禹貢所説従熊耳山疎導洛水的那座山不同。」とある。此方のほうが訳が平易か。
水経注。維基文庫。
《禹貢》所謂導洛自熊耳。《博物志》曰:洛出熊耳,蓋開其源者是也。
又東北過宜陽縣南,
洛水之北有熊耳山,雙巒競舉,狀同熊耳,此自別山,不與《禹貢》導洛自熊耳同也。
原文はコピーの出来る維基文庫から取った。訳文も原文もたいして変わらない。
尚書。維基文庫。
西傾、朱圉、鳥鼠至于太華;熊耳、外方、桐柏至于陪尾。
導洛自熊耳,東北,會于澗、瀍;又東,會于伊,又東北,入于河。
尚書正義。維基文庫。
熊耳、外方、桐柏,至于陪尾。〈四山相連,東南在豫州界。洛經熊耳,伊經外方,淮出桐柏,經陪尾。…○正義曰:《地理志》云,熊耳山在弘農盧氏縣東,伊水所出。
導洛自熊耳,〈在宜陽之西。〉東北會于澗瀍,〈會于河南城南。〉又東會于伊,〈合於洛陽之南。〉又東北入于河。〈合於鞏之東。…
○正義曰:《地理志》云,伊水出弘農盧氏縣東熊耳山,東北入洛。…《志》與傳異者,熊耳山在陸渾縣西…。
さすがに、正義は詳しい。ただし地名が多く理解しにくい。結局、尚書でも水経注でも、分かることは、簡単な地理情報だけで、文学作品に出るかどうか分からないし、まして、日本に知られていたか、分かるはずもない。長安と洛陽の間にある、大きな山塊で、高度は吉野の大峰なみだから、知られていてもおかしくはないが。
〇舊唐書、新唐書。維基文庫。
手頃なところもないので抜き出さない。それにすらすら読める程の力もない。李密の列伝は、どちらもほぼ同じ内容で、ウィキに書かれているのとそう変わらない。要するに熊耳山あたりで、敗死したというだけで、山についての詳しい情報はない。
〇讀史方輿紀要、清・顧祖禹、上海書店出版社。影印縮小版で、非常に読みにくいが、歴史地理の名著と言われるだけのことはある。
巻四十八、河南三、宜陽縣、熊耳山。水経注の記事を土台にし、後漢赤眉の乱、唐初の李密のことなどが書かれている。
同盧氏縣、熊耳山。…有東西兩峯相競如熊耳。禹貢や史記黄帝、齊桓公のことを書き、熊耳という名の山は三つあるという。宜陽、盧氏、陝州である。盧氏縣のは、水経注では、熊の耳の形には触れなかったが、この方輿紀要では、それを言っている。要するに、どこの熊耳山であれ、二つの顕著な峰があり、熊の耳のようだということである。
尚書を始め古くからよく知られた漢籍にいろいろ出てくるから、当然日本でも知られていたであろう。大和や近畿あたりでは、耳の形をした山というのは、知られていない。二上山などは、左右不同で、耳らしくない。耳成山は名前に耳はあるが、丸い小山で、耳らしくない。天武が遠望したと思われる、大峰の弥山あたりは、動物の耳とも思えない(顕著な双耳峰ではない)が、郡山辺りまでは、山上が岳あたりも見えて、左右のかなり離れた双耳と見えないこともないが、やはり離れすぎるし、すぐに、山上が岳のほうは隠れるので無理だろう。天武が耳といったのも、双耳とか動物の耳とかでなく、耳のように高く秀でた山ということだろう。だから、耳が嶺という。そこに、漢籍でよく知られていたはずの、熊耳山がいくらか影響したであろうというのである。ついでに、
朝鮮王朝実録、地理志、全羅道
馬耳山在鎭安, 兩峯竦立, 東西相對, 形如削成, 高可千仞, 其頂樹木森蔚。諺傳東山之頂有小池, 然可望不可到。我太宗十三年癸巳, 次于山下, 遣官致祭。
太宗(テジョン)というのは、三代目で、韓国歴史ドラマでしばしば出る、バンウオン(芳遠)である。李氏朝鮮の事実上の建国者。全州(チョンジュ)の南東、太田(テジョン)と南原(ナモン)の中間、扶余(プヨ)からは南東にかなり離れているが、かつての百済の域内だ。天武が知っていた可能性はわずかにあるといった程度だが、マイサン(馬耳山)という有名な山もあるということ。こちらは標高が600メートル台で低く、一見、宇陀郡曽爾村の鎧岳、兜岳に似ている。熊の耳に見えたり、馬の耳に見えたり、鎧に見えたり、面白いものだ。大分県由布岳が猫の耳に見えるというのも日本らしい。ただ、耳というだけの山の峰も日本にはいくらかある。