2299、耳我嶺考(終了)

2299、
追加。三皇本紀。地皇…興於熊耳、龍門等山。
唐詩で検索すると、李白のが一つあるだけ。
        送外甥鄭灌從軍三首
六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。
丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猨啼。
破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。 赤眉軍が兵甲を積み上げたら熊耳山と等しかったという故事を詠んでいる。水経注以来知られた話だ。

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。
斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

文学方面では人気がなかったようだ。

維基文庫で検索するといくらでも出て来る。
史記、巻二、夏本紀、「熊耳、外方、桐柏」「道雒自熊耳」。要するに「尚書」と同じ。
史記正義、夏本紀の注で、熊耳山を出す。
史記史記集解の注として、「登熊山」。
史記、巻三二、「望熊山」。史記集解がそれを「熊耳山」とする。
史記以外で。
佛學大辭典、達磨を葬り、定林寺を建てた。
隋唐演義、熊耳山で李密の死骸を見付けて取った。
元好問の詩の題に、「望盧氏西南熊耳嶺」。金の時代の人だから天武とは関係ないが、熊を取れば「耳嶺」となる。
熊峰集、明代の詩集。熊耳峰として詠まれている。
太平御覽にもいろんな文献が出ているが、新しい情報はない。
文選、巻三、東京賦。巻八、羽獵賦。巻五七、陶徵士誄并序、顏延之。
藝文類聚、巻七、巻八、巻一一、遁甲云々といっているので、確認する、巻六六、巻七八。
以前藝文類聚の山部にはないといったが、やはり全文検索の威力はたいしたもので、もう一度読み直す。また文選も索引なしで捜すのは大変だが、ネットの全文検索なら簡単に出る。これらは、万葉人も読んでいるし、天武も読んでいた可能性が高いから確認する。尚書史記にあるぐらいなら、当然、文選、藝文類聚にもあるのは当然であった。
漢書、二五巻郊祀志、二八巻地理志、八七巻揚雄傳
後漢書、巻二九郡國一、巻四一列伝一。

文選、巻三、東京賦
大室作鎭掲以熊耳
尚書傳曰、熊耳山在宣陽之西也。
文選、巻八、羽獵賦。
泰華爲旒、熊耳爲綴。
善曰、綴、亦旒也。
泰華、熊耳といった名山を幢にしたことだが、どの熊耳か不明。河南省の盧氏県のだろう。
文選、巻五七、陶徵士誄并序、顏延之。
若乃巢高之抗行,夷皓之峻節,
皇甫謐逸士傳曰:巢父者,堯時隱人也。莊子曰:堯治天下,伯成子高立為諸侯。堯授舜,舜授禹,伯成子高棄為諸侯而耕。史記曰:伯夷、叔齊,孤竹君之子也,隱於首陽山。三輔三代舊事曰:四皓,秦時為博士,辟於上洛熊耳山西。禰衡書曰:訓夷、皓之風。
陶淵明のことだから、万葉人も読んでいただろう。四皓が熊耳山に避難したとあるが、普通は「商山四皓」といって「商山」に隠れたことにする。この文選李善注では、熊耳山西とする。どちらも、陝西省商州にあって、詳しくはわからないが、商山というのが現在の商洛市一帯の山地で、その中に、熊の耳の形をした熊耳山があるのであろう。これは水経注などにある河南省のとは違う、三つ目の陝西の熊耳山である。といっても、河南のは、山地一つを超えただけの背中合わせだ。長安と洛陽の間に三つも熊耳山があったのでは紛らわしい。しかも三つとも、熊の耳の形をしている。天武の場合、この陝西の熊耳山が最もふさわしい。四皓が秦の朝廷を逃れて隠れ住んだというのだから、境遇が似ている。しかもこちらは、長安西安)の南東方、天武がほぼ近江から見て真南の吉野へ行ったのと、やや方向はずれるが、南方である。

藝文類聚、
巻七、總載山、史記曰、黄帝…南至熊湘。 北邙山、…西睨熊耳…。
巻八、總載水、博物志曰、…洛出熊耳…。洛水、尚書曰、道洛自熊耳…。
巻一一、地皇氏、遁甲開山圖曰、地皇興於熊耳龍門山。
巻六一、總載居處、西京賦、…太室作鎮、掲以熊耳、厎柱輟流、鐔以大岯…。
巻六六、田獵、漢楊雄羽獵賦曰、泰華為旗、熊耳為綴…。
巻七八、靈異部、仙道、後漢黄香九宮賦曰、…蹈底柱而跨太行、肘熊耳而據桐柏、分嶓冢而持外方、使織女驂乘…。
既に出たものも多いが、遁甲、仙道関係のもあり、色々とよく知られた山であることは確かだ。

阪下圭八「初期万葉」平凡社選書、天武天皇伝一斑 四 遁甲および抱朴子
によると、隠遁したり仙道を求めて名山に入ったりする方を、天武は、「抱朴子」を読んで知っていただろうという。熊耳山は、遁甲における名山であった。天武は、吉野の大峰を熊耳山になぞらえて「耳が嶺」といったのではなかろうか。