2297、耳我嶺考(継続中)

2297、
381    筑紫娘子贈行旅歌一首
思家登 情進莫 風候 好爲而伊麻世 荒其路
家思ふと心進むな風まもり好くしていませ荒しその道

西宮全注巻三。、訳「…。大和への道は荒いですよ。」注、「「都に帰る道」をさし、…」。
これも文脈指示だろうが、四句までに指示されるものがない。といって過去の体験に存在する観念上のものでもない(だから、「あの」とも訳せない。)了解済みの事項ということだろう。歌を贈った相手が大和への道をたどることを了解した上で詠んでいる。

392    大宰大監大伴宿禰百代梅歌一首
烏珠之 其夜乃梅乎 手忘而 不折來家里 思之物乎
ぬばたまのその夜の梅をた忘れて折らず來にけり思ひしものを(李長波氏の引用したもの)

新編全集の訳。(ぬばたまの) あの夜の梅を…。
西宮全注巻三の訳。あの晩に見た梅を…。注、「その夜」は、特定の夜、例えば「宴会のあった、あの日の夜の」という意を表わす。
訳はどちらも「あの」だが、「その」の文法上の説明はない。「特定の夜」といっても、共通の了解事項ではなく、先行文脈にあるのでもない。自分個人の過去の体験の時間を「あの」と言っているだけである。天武の25番歌に近い。

401    大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首
山守之 有家留不知爾 其山爾 標結立而 結之辱爲都
山守のありける知らにその山に標結ひ立てて結ひの恥しつ
西宮全注巻三の訳。山番がいたとは知らないで、その山に標縄…。
「あの」とは訳していない。もちろん譬喩だが、山守のいる山を、「その山」といったのだから、全注では何の説明もないが、ほぼ典型的な文脈指示。新編全集の訳。「あの山に」。

403    大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
朝爾食爾 欲見 其玉乎 如何爲鴨 從手不離有牟
朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ
西宮全注巻三の訳。「その玉を」。説明なし。新編全集の訳。「あの玉は」。説明なし。これは共通の了解事項とでも言ったものだろうか。題詞に「贈」とある。

408    大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
石竹之 其花爾毛我 朝旦 手取持而 不戀日將無
なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
西宮全注巻三。注、ソノは強く指示する用法。直接には訳されていない。
新編全集。説明なし。直接には訳されていない。 要するに文脈指示の一種だろう。

409    大伴宿禰駿河麻呂歌一首
一日爾波 千重浪敷爾 雖念 奈何其玉之 手二卷<難>寸
一日には千重波しきに思へどもなぞその玉の手に卷きかたき
西宮全注巻三の訳。「あの玉が」。新編全集の訳。「あの玉は」。403番と同じ「その玉」で、新編は相変わらず「あの」と訳すが、西宮は、「その」が「あの」になり、一貫性がない。

619    大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
…磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み…
木下全注巻四の訳。「心を解いてあなたに捧げたその日からというものは」説明なし。
新編全集の訳。「緩めてしまった あの日からというものは」。説明なし。これも文脈指示か。まだ全部見たわけではないが、新編は「その」を、全部「あの」と訳す方針のようだ。これでは25番歌で、「あの」と訳したのに25番歌だけの根拠があるように思ったのは、取り下げなければならない。時間があれば、新編の「その」の訳だけでも全部見てみよう。

702夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者
ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば
木下全注巻四の訳。「あの晩の月を」注、「その夜の月夜 このソノは遠称的用法。」
新編全集は、木下全注と全く同じ。遠称といっても、観念上の過去の体験のことだろう。時間だから、遠くを指さして「あの」と言ってるのでないことは言うまでもない。

948、千鳥鳴く その佐保川
吉井全注巻六の訳。「あの佐保川で」、説明なし。新編も同じ。了解事項の指示か。

1751、君が見む その日までには
金井全注巻九の訳。「ご主人様の帰りの日までは」、説明なし。新編全集の訳。「あなたがご覧になる その日までは」、説明なし。

新編全集の読み。
「あの」4、25、26、392、401、403、409、567、619、702、703、730、923、948、1467、1614、1756、1780、1792、2184、2348、2354、2485、2867、3269、3303、3386、3845、3978、4000、4014、4239、
32例
「その」25、26、159、217、319、320、337、372、709、1009、1093、1122、1326、1417、1478、1615、1738、1751、1754、1759、1809、2027、2089、2273、2516、2551、2569、3243、3272、3293、3586、3840、3385、4011、4054、4070、4106、4111、4122、4125、4126、4164、4248、4465、4467、4469
46例
文脈による訳(あるいは訳さない)、381、408、1357、2407、2849、2948、3411、3742、3814、3815、3953、4094、4113、
13例
「あの」、0~100、3例。101~1000、11例。1001~2000、5例。2001~3000、5例。3001~4000、6例。4001~最後、2例。
「その」、0~100、2例。101~1000、7例。1001~2000、12例。2001~3000、6例。3001~4000、6例。4001~最後、13例。
全部で、91例(25、26は一首内で「あの」「その」が出る。同じものが重複するのもあるが数えなかった)あったので、予想よりはるかに多かった。「その」の方が相当に多いのも予想外だった。当然ながら、ちゃんと歌の意味を考えて訳しているわけだ。表立って訳していないのが13例というのも予想より多い。「その」は、明らかに「その」としか訳せないものがかなりあった。単純な先行文脈指示といったもので、単調な、散文的な表現になりやすいようだ。「その」の4001以降の多さが語っているように思う。そこには家持の長歌が多かった。単調で平凡で説明的散文的といった評価が普通だ。「その」と訳したのでも「あの」と訳せるものがあり、「あの」と訳したのでも、「その」と訳せるものがある。歌の味わいは変わるが、必ずどちらかでなければならないという根拠もない。だから、新編が「あの」と訳したのを「その」と訳す注釈書類も多い。遠称的な「その」と解釈して「あの」と訳したのが散見するが、「あの」と訳せば、少し離れた間隔が生じるから、情感のこもった思い入れの深い歌になる。だから、過去のある時の体験を叙するようなこともある。「あの」と訳せるものでも、「その」と訳せば、散文的叙述的になり、淡泊な味わいになる。だから、どちらに訳すかは、解釈者の主観にまかされるということにもなる。耳我嶺の場合も、「その山道を」では、単純な先行文脈指示で、雨や雪の降っていた耳我嶺の山道を、で、叙述的散文的な味わいになる。「あの山道を」では、鮮やかな記憶と共に思い出される、過去に辿った山道で、情感のこもった追憶というふうに解される。しかしすでに言ったように、「あの」と訳しても、耳我嶺の山道と解される可能性はある。それでも、耳我嶺でない、別の山道(飛鳥吉野間の峠道)とする方が妥当だということもすでに言った。
以上で、長々と続いた、耳我嶺考の下調べははほぼ終わった。まだ参考的なものが少しある。

2296、耳我嶺考(継続中)

2296、
西郷が、序詞の部分を、本旨の部分の文脈指示を受ける部分とも見なして、序詞と本旨の混じり合った歌と見なしたのを批判したが、「その山道」の「その」は果たして文脈指示とみなしてよいのだろうか(私はそうではないとした)。そこで、集中の「その」の用例を見ると、30例近くあった。文脈指示云々のまえに、その用例の中に西郷の言うような序詞が二重の機能を持つような歌は見当たらないようだ。ところで、「その」を、時代別で見ると、
現場指示の用例はほとんど見当たらない。被修飾語が文脈中にすでに表現ずみ、もしくは了解ずみであることを示す。
とある。岩波古語も、現場指示云々を除いた部分と同じである。30例近くあるのも、巻が進むにつれ、時代が新しくなるにつれ、辞書の説明で疑問なく解けるものばかりになる。そこで天武の歌に似たものはないか、古いものを少し点検してみる。

補足、序詞について。上野・鉄野・村田編「万葉集の基礎知識」角川選書、2021.4.23
の大浦誠士の説明によると
歌の主想とは一見関わらない、概ね物象についての叙述が転換の契機を経て主想部へとつながってゆく表現形式における、前半の叙述に対して与えられた名である。
とある。今までもこういう説明を付されているが、最新のもので分かりやすい。また「「共感の様式」[大浦 二〇〇八]と呼び得る歌の形と見ることができる。」とも述べられていて、天武の歌の序詞的な部分(雨雪の降る耳我嶺の山路)を、個人的な体験の描写として理解することの不都合さを示す。

4玉尅春 内乃大野爾 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝蹈ますらむその草深野

さっそくこういうのがある。この「その」は何か。いうまでもないがこの歌に序詞及び序詞的な表現はない。
窪田評釈、金子評釈、全釈、茂吉万葉秀歌、釋注、全注、特に説明はない。「たまきはる内の大野」を「その」で受けたと言った程度。
講義、「その」は「内の大野」を指す。
新編全集、「あの草深野を」と訳すだけで説明は一切ない。この訳だと文脈ではなく、観念上の「内の大野」を指すように思えるが。25番歌でも「あの山道を」と訳していた。
新大系、一切説明なし。「その草深野よ。」と訳すだけ。
武田全註釈、「ソノは、上の朝踏マスラムを受けて、これを代理指示している。」一寸変わった説だが、全註釈そのものの訳「…朝お踏み遊ばしてでございましよう。その草の深い野を。」とも合わないようで、無理だろう。
新編全集の訳が「その」ではなく、「あの」となっているのがちょっと変わっているが、耳我嶺のときと同じで、その訳の根拠は言わない。ほかは特に言う程のものはない。

補足、耳我嶺の「その山道」の「その」について、辞典の説明だけでは分かりにくかったが、次の説明で納得できるように思う。
日本語指示体系の歴史、李長波、京都大学学術出版会、462頁、5200円、2002.5.30    

  二上の峰の上の繁に隠りにしその〔二字右・〕(彼)ほととぎす待てど来鳴かず(万葉集・四二三九)
 この「その」の指示対象は先行文脈にもなければ、「その〔二字右・〕(彼)ほととぎす」は「いま・ここ」の現場に現前するものではない。それは過去の経験に基づいてのみ了解可能なものであり、時間的には過去に属するものと考えられる。このことは時間性の名詞に付く「その」の場合いっそう顕著になるようである。
  ぬばたまのその〔二字右・〕(其)夜の梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを(万葉集・三九二)
〔中略〕
 このような「その」は、現代語なら「あの」を用いるところであるが、これによって、おそらく「カ」が分化するまでは、「ソ系」は後の時代の「カ(ア)」の領域まで広がっていたのではないかと推測される。
 現場指示の場合でも「その」が話し手からも聞き手からも遠くにあるものを指す用法を持つこともこれを裏付ける。

新編全集が「あの」(時間的に過去に属するもの)と訳したのは、これの影響だろうか。これだと、文脈指示として理解してはいけないと言うことになるが。この4番歌も25番歌も、文脈指示ではなく、過去の体験に存在する「あの草深い野」「あの山道」で共通する。かつて行ったことのある草深い内の大野を、今天皇達は馬を歩ませているだろうか、であり、あの近江からの吉野への隠遁で物思いに耽りながら歩いたあの山道、である。それは地理的風土的に耳我嶺の山道ではなかった。
補足、李長波氏は、「「その」の指示対象は先行文脈にもな」い、言われたが、状況依存の隠れた文脈(過去に属する)にあると考えると、これも一種の文脈指示と見なせる。つまり辞典の説でもいいわけだが、詳しく分析すればそうなるということである。
(続く)

2295、耳我嶺考(継続中)

2295、
高木の紹介した説は、結局どこにもない。高木が紹介したのと同じ説を私注が言っている(2272参照)。
「御製は、現に耳我の嶺を越えられつつの作で、御金嶽を遠望しての作と解すべきではない。」
御金嶽、つまり通説の耳我嶺を遠望してどこかを歩いたのではなく、細峠あたり(土屋の言う耳我嶺)を越える時の歌だと言う。耳我嶺を遠望しながら、どこかの山道を越えたというように紹介しているところは、高木よりやや詳しい。しかしその場合「その山道」の「その」はどういう意味になるのかといったことは一切紹介しない。それに、遠望しながら細峠辺りが越えられるものか疑わしい。
奥野健治・大和志考決(下)(2000.1.1)
「「その山道を」は今越え給ふ飛鳥・吉野路、即耳我嶺に通ずるものと思はれゐたりし飛鳥よりも吉野山に通ずる路、再び云はば三吉野之耳我額にて代表せらるる吉野山への路を表す句にして、…、此場合に於ても、「其の山道」は即耳我嶺に達し得らるるものと認められたる山越路と見て、右の如く吉野路を意味するものとせば、通説の如く耳我嶺と「その山道」とは分離して観察し得るにあらずやとも思はる。」ともいう。
ここに始めて、耳我嶺と「その山道」は分離しうるという説が出た。高木説、私注説で紹介されたものが、50年以上も後にでたわけだが、それを奥野が通説と言っているのは全く理解できない。通説どころか、奥野が始めていった新見である。ただし、遠望したのかどうか説明していないし、また「その山道」の「その」をどう理解するかということも触れないし、以前言ったように、芋峠あたりの道を「吉野路」を意味するものとは思えないということもあって、どうも煮え切らない説だが、とにかく、耳我嶺山中の道と天武が越えた芋峠道とは別だという見方を示したのは評価できる。
以下それを展開した私見は、2274~2277で述べて置いた。

補足
〇和歌大系、「「耳我の嶺」が吉野のどの山に相当するか不明。」「場(状況)に依存した表現で、歌詞にそれがあらわれていない。
2293で紹介した稲岡の「状況依存の歌」では、「その山道」について状況に依存した表現としたが、「耳我嶺」もまた、ここで稲岡自身が言っている通りである。

東京、大阪、京都、長野、奈良、和歌山の人口

2021年8月
東京都、1404,3239人、5907人減。
大阪府、881,8686人、2228人減、世帯数は277増加
京都府、256,6641人、1398人減、世帯数338減。
長野県、202,2099人、526人減、世帯数は227増加。
奈良県、131,5007人、598人減。世帯数は113増。増えたのは、高田18、生駒9、香芝12、葛城30、平群2、斑鳩5、田原本7、広陵46の8。高田、葛城が増え続けている。
和歌山県、91,5168人、552人減。世帯数23減。増えたのは、新宮(1)、広川(1)、由良(7)、白浜(7)、上富田(17)、太地(6)の6つ。だいたいいつも通り。
和歌山市(35,5158)-奈良市(35,1839)=3319
差が開きつづける。

2294、耳我嶺考(継続中)

2294
「その山道を」の「その」について。
●註釋、拾穂抄、代匠記、考、略解、攷證、井上新考、講義、全釈、武田全註釈、佐佐木評釈、説明なし。
●菊地精考、読者の判断に任せる(要するに説明できないと言うこと)
●檜嬬手、美夫君志、折口口訳、次田新講、窪田評釈、説明はないが、それとなく吉野の耳我嶺山中の道と取れるように書かれている。
伊藤左千夫新釈、武田総釈、金子評釈、吉野の山道。窪田と似ているが、具体的に、吉野山の最高点(青根が峰のことだが、金峯山と混同している)あたりの道とする。
●燈、古義、近藤註疏、耳我嶺の山道と明言。
●安藤新考、聞えたり。
管見、僻案抄、吉野山の山道(天武は宮瀧ではなく吉野山に入ったと見なしている)
高木以前と思われる注釈書を見ても、耳我嶺の山道とその山道を別とする説はない。また、天武がたどった道をいわゆる金峯山の山道とする説がいくらかあるが、それが完全に間違った説であることに気付いていない。主な注釈書類が未詳としているのがやむをえないところだろう。
ついでに、高木以後の説も見る。
●全解、全歌講義、新大系、和歌文学大系、全訳注、古典集成、古典全集、古典大系、説明なし。
●沢瀉注釈、耳我の峯の山道。ただしその耳我の峯は未詳。
●私注、耳我の山道。今の、細峠、龍在峠一帯。
●釋注、伊藤全注、説明なしだが、耳我の峰を芋峠一帯かとする。
●新編全集、飛鳥から芋峠を越えて上市、宮瀧までの道。地名の注釈では耳我嶺を未詳とする。ただし芋峠あたりを耳我嶺とするかしないかについては説明なし。本体の注釈と付録の地名説明とが矛盾している。本体の注釈を取るとしても、芋峠を耳我嶺と見なしているのかどうか全く不明。
相変わらず未詳とするするのが多いが、土屋説に影響されたらしい伊藤説などが、ようやく、天武の越えた山道を金峯山の山道とするのは地理的におかしいことに気付いたようだ。ただし、以前にも言ったように、私注、釋注、伊藤全注、新編全集の説は成り立たない。結局、耳我嶺の山道と、その山道とは別だとするしかないのだが、そう言う説はない。いったい高木は何を見たのだろうか。
ところで、「その雪」「その雨」「その山道」の「その」を殆どの注釈書は「その」と訳しており、所謂文脈指示とするのだが、新大系は最後の「その」を遠称として、「あの」と訳す。これだと、「その」が三つ連続するのを一種のリズムととらえ、「その山道」の「その」も文脈指示だとする通説とは違って、イメージの中の遠称となって(回想)、「その山道」の「その」は耳我嶺の山道ではない、別の山道だという理解に無理がなくなる。

2293、耳我嶺考(継続中)

2293、
〔追記、「ただか」について、容貌という意味かと言ったが、「童蒙抄」の「みかね」の注で、「容貌有樣の事に聞ゆ」とあった。〕
天武歌で、「耳我嶺に雨や雪がしょっちゅう降るように、しょっちゅう、どの曲がり角も落とさず、思いながらやってきた、あの山道を」とあるのは、類歌に従えば、雨や雪が降るのは、しょっちゅう、を出すための序であった。ところが、西郷論文は、その序を実体験にもダブらせて、「その山道」(あの山道)の「その」が指示する場所とし、天武は実際に耳我嶺の雨や雪の降る山道を物思いにふけりながら歩いたとする。そして、苦悩に満ちた思いは、雨や雪の山道を歩くことによって、より深く感じられるといったような解釈をし、今ではそれがほとんど定説になり、誰も疑わない。実際、類歌に関して17本の論文等を見てきてが、すべてそうなっている。しかし、序詞の部分が実体の部分の具体的な描写にもつながる、といった、焦点の定まらない、統一のない歌など、あまりにも拙で、万葉集にある歌とは思えない。これは西郷氏が、天武の人間像を英雄的にとらえようとしたことの勇み足ではないだろうか。西郷氏以降だれも疑問を呈さないのは不思議だ。ただし、西郷氏の場合、指示語の「その」を根拠にして、この「その」は文脈指示で、序詞の部分の耳我嶺のこととするのであって、それが本当らしいので、大きく支持されたということもあろう。
だいたいどの注釈書も、この「その」を雨や雪の降っていた耳我嶺とするのだが、そうではないとする異説もあったことを高木氏「吉野の鮎」は指摘している(それを高木氏は詭弁だと言ったが、逆に高木氏のこそ詭弁だとは以前に言った)。ただし具体的にどの注釈書かは示されなかった。異説に従えば、「その山道を」は、耳我嶺の山道ではなく、実際に天武が辿った、別の山道だということになる。「あああの山道を」と回想しているのだが、それがどの山道かは歌に詠まれていないというわけだ。
この「その」の異説について調べてみたいが、そのまえに、こういう、歌に詠まれていないものを想定しないと理解できない歌について、稲岡耕二氏のいう「声の歌」を検討したい。
和歌文学大系1、萬葉集(一)、1997.6.25、稲岡耕二、明治書院
萬葉集への案内、二、声のうたと文字の歌、
状況依存的な思考
イ(書紀歌謡)、ロ(初期万葉の天武の「紫草のにほへる妹…」の歌)の表現が右のような性格をもつのは、理由のあることです。イもロも集団の中で、ある時、ある場所で歌われた歌と考えられます。共通の諒解を前提としながら歌われていますから、その場に居合わせた人々には自明のことは、言語として表現されていません。…紫草の根を、花と誤解されないように緻密に表現することも、不要なのでしょう。その点に表現としての自立性や客観性の不足を指摘することもできます。茂吉が「没細部」で「暗示的」と言ったのは、それを肯定的に評価した言葉です。場に密着し、言語外の状況に依存している表現――。
この説明で十分であろう。耳我嶺の場合も、状況依存的な思考とその表現と考えればよい。
即位後の吉野行幸で、臣下を前にして、「昨日卿等と越えて来たあの芋峠の険しいつづら折りの道を、近江朝廷を追われるようにして、飛鳥から吉野へと向かった時は、いろいろと物思いに耽りながら辿ったのだよ。」というような追憶を披露したのだろう。「あの山道を」というだけで、天武の歌を聞いたものには、それが芋峠の山道だと言うことが明瞭に理解できたはずである。「念い」というものも、状況依存的であって、その場に居合わせた人々には十分理解出来たと思われるので、素っ気ない表現になり、恋の思いか、吉野の自然美嘆賞の思いかといったような説も出たわけだが、といって、必ずしも、雨や雪が心にも降るといった譬喩で言えるような陰鬱な思いとも言い切れない。そのときはまだ近江朝廷への反撃に出るといった意志はなさそうだから、過去の満ち足りた生活の追憶、これからの吉野の山奥での質素な生活への予想、といった日常生活的なことをあれこれと思ったといった程度ではなかろうか。

2292、耳我嶺考(継続中)

2292、
17、垣見修司、天武天皇御製歌と巻十三の類歌、萬葉語文研究第3集、和泉書院、2007.6.30
これは直接坂本氏の論をうけたものである。
坂本信幸氏「…」では、それらの歌群に見られる表現の考察を通して、いくつかの問題が解決し、天武天皇の心情を詠んだ歌であることが、あらためて明らかにされたと言ってよい。
 これは前置きにあるものだが、すでに検討したように類歌の関係以外については、解決した言えるようなものはなかった。
ABCDの関係については、いまだ定説といえる見方はない。…。本稿の目的は、成立過程に関する混沌とした現状を整理し、これまで述べられていることのどれが正しくどれが誤りであるかを見極めつつ、ABCDの関係をもう一度とらえなおすことである。また、それによりCDが巻十三に載せられることの意味についても言及したい。
 これも前置きにあるものだが、ABCDの関係については、小異はあるものの、沢瀉説が定説と言える状態であろう(坂本氏もほぼ沢瀉説と同じであった)。それはともかく、諸説の点検が長い。よく勉強されているという印象が強い。そして、おおかた坂本説を従うべきものとしているようだ。ちょっと張り合いがない。唯一違うところは、坂本説が沢瀉説のように、A→B→Dとしたところを、
  C…B→D
    ↓
    A
としたことであろう。これはすでに出ているC→B→A→D(吉井説など)の説を少し変えたので、Aを一連の流れからはずして、独立させたもので、そしてBを初稿、Aをそれの改作とする(高橋氏に同じような説があるということだが未見)。それについて、坂本説にはなかった観点をだしてきたところがこの論文の取りどころといえよう(ただしそこにも坂本説は多く使われている)。こまかく漢字表記を比較していって、Aには民謡にはない、書記の効果をねらった表記上の工夫(対句のような)があるというのである。また耳我嶺と耳我山について、意味としてはどちらでも同じだから、「み」の音韻効果をねらった改変という。これなどは、地理を無視したものである。西郷氏のは、そこまでは言っていないが、実体験からは「耳我嶺」でなければならないという観点が抜けている。「芳」が「吉」に変わったのも推敲の結果だというのだが、そうだろうか。書紀では皆「吉」だったのが(再確認はしていない)、続紀の文武になって「芳」になり、以降聖武の時代には、ほぼすべて「芳」になっており、その字を使った木簡も出ている。つまりB→Aの流れで、「芳」→「吉」になったのではなく、Aが伝承されて、文武以降の時代に改変された結果「吉」→「芳」になったと見るべきなのである(ただし、聖武の吉野行幸での宮廷歌人の吉野歌では、「吉」「芳」どちらも使われているが)。Cから、Aへは、直接には変えにくい。それほどに、Cの型としての規制力は強く、まずCに似たBができ、そこからより天武の体験に近づけるべく専門詞人の手によって推敲されたのが、Aだというのである。ここで不思議なことは、坂本説が強調したX(「隈も落ちず」に見られる旅行きの型)が全く無視さている事である。これが坂本説との一番の違いと言ってもいいが、なぜ無視したのかその理由は説明されていない。坂本説によれば、Xがなければ、Cからは、AにもBにもならないということだった。私もXは不要だと思うが、それは、天武の実体験があれば、Xなしでの、CからAへの改作は可能だと思うからだ。
 Aについては天武天皇がそれだけの技量を持ち合わせていたとも考えられなくはないが、吉井氏や、坂本氏に言われるように、その可能性はあまり高くないと思われる。
というが、私は、天武個人がその程度の力量を持っていたと思う。CからAへはそれほどの相違があるわけでなく、天武の個人体験を踏まえたら、曾倉氏の言われるような替え歌的な個人詠は出来る。いくら専門詞人でも天武の個人体験を追体験することは無理であろう。また、天武自身も漢籍の教養は深かったはずである(天文・遁甲なども漢文力が必要)。

坂本氏の言われる詩経の典拠というのは行き過ぎであるということ。
中西氏が魏武帝「苦寒行」の天武歌への影響を指摘したのたいして、それの「雪落何靡靡」の李善注の「毛詩曰雨雪靡靡」(六臣注によった)を引いて、李善注が引いた毛詩の「小雅」の「采薇」の「雨雪靡靡」(坂本氏はこれの雨を動詞に読んでいる)は引用間違いで、「国風」のほうの「北風」の「雨雪其靡」が典拠だとされる。それはその通りだろう。「采薇」では、雨や雪が降るとなって、「苦寒行」の雪だけの注としてはおかしい(天武の歌への影響なら、その方がいいわけだが)。李善は勘違いをして、「苦寒行」の意味に合わせるべく「雪を雨(ふ)らすこと靡靡」と読んだのだろう。
で、その「北風」の方の「雨雪」の「雨」を、坂本氏は、今度は動詞に読まず、名詞として読む。そして李善注の方も名詞に読むべきだというのである。これはなんだろう。明らかに矛盾している。先に動詞だとしたのは、誤植か、うっかりミスか。ともかく、「采薇」の方は、雨も雪も名詞でいいが、「北風」の方は、「雨」を動詞に読むのが普通だ。坂本氏は名詞に読んでいる例を出されたが、吉川幸次郎詩経国風 上」(158頁)では、「雪を雨らして其れ靡(ち)る」とし、一連目の「雨」の注で「雨の字は動詞。ふる。…。名詞のあめ…に読む…経典釈分にはあげる。」とする。一応名詞に読む説も出すが、結論としては、動詞に読むのである。「采薇」の場合は坂本氏の言うように名詞でいいが、「苦寒行」はもちろん、「北風」の場合も、激しく降る雪のことを言っていているのであって、文脈が違うのである。あまり有名な出版社の本ではないが、貴州人民出版社「詩経全訳」では、「雨雪其靡」を「紛粉大雪満天飛」と訳している。一連目の注で「雨」は動詞だと言っている。一連目では烈しく雪が飛ぶという意味にしかならないから、二連目の「雨」は動詞に成らざるを得ないのである。
結局、「采薇」の例なら、雨と雪を詠んだ天武の歌に合うが(ただし雨雪以外は似ていない)、主題的に似ている「苦寒行」や「北風」は、大雪のことなのだから、雨と雪を詠む天武の歌には合わないのである。坂本氏は、「北風」の方も、名詞としたから、「采薇」も含めてどちらも天武の歌に影響しているとする。これは行き過ぎであろう。私もいろいろ漢文を読んできたが、「雨雪」とある場合、例外なく「雨」は動詞だった。「采薇」のように名詞に読むのは非常にめずらしいのだ。とにかく、天武の、雨、雪について、漢籍の出典を云々するのは行き過ぎと言ってよいだろう。天武の場合は、あくまでも実体験による(大峰の高峰を遠望したという実体験)。