2327、わざみ10

2327、わざみ10
わざみ野、11-2722
註釋、スケニテシタルミノナリ。ソレヲワサミ野トイフ野アレハ、ヨソヘヨメルナリ…。
管見、 わさみ野トハ、みのゝ國に有野也。
拾穂抄、わさみ野は美濃国…わさみのはよき菅にてせし蓑なるへしそれを美濃の和射見原にいひかけて我は入ぬと妹に告こせと云也仙同義 
代匠記初、第十にも、わさみの嶺とよめり。美濃國にあり。
童蒙抄、和射見野は美濃也。前にもわさみが原など詠める所天武紀に見えたり。
万葉考、天武天皇紀に、高市皇子の陣を成給へる美濃の和暫にて、…不破郡に有べし、
略解、天武紀高市皇子尊の陣を成し給へる美濃の和暫にて、…不破郡に在るべし。
古義、和射見野は、美濃(ノ)國不破(ノ)郡|和※[斬/足]野にて
新考、コマツルギワザミガ原ノとあるに同じ。
全釈、和射見野は…。今の美濃關が原。和射見我原・和射美能嶺ともある。
總釈(春日)、美濃國不破郡にある。
評釈(窪田)、「高麗剣和射見が原の」と出た。
全註釈、岐阜縣不破郡關が原。「和射見我原」(卷二、一九九)ともいう。
評釈(佐佐木)、美濃國不破郡。「一九九」參照。
私注、美濃の和※[斬/足]原
大系、関ガ原町関ガ原。一説に同郡青野ガ原
注釈、既出(二・一九九)。(つまり「わざみが原」と同所ということ)
全集、関ケ原町関ケ原の野。
集成、岐阜県不破郡関ヶ原
全訳注原文付、語注なし。
全注(稲岡)、関ヶ原町野上付近、巻二の「和射見が原」(2・一九九)と同地か。
新編全集、語注餅名説明もなし。
釈注、「和射見」は岐阜県不破郡関ヶ原付近。(嶺の語注がない)。
和歌文学大系、不破郡関ヶ原付近の嶺。
新大系、(地名説明)不破郡関ケ原町関ケ原.(「わざみが原」と同所ということだろう)
全歌講義、関ケ原町関ケ原の野。既出、巻十・二三四八。(これだと「わざみの嶺」と同所となるが、「一九九」の「わざみが原」と勘違いしたのだろう)。
全解、不破郡関ヶ原。→一九九。

ほとんど何の収穫もない。中には「嶺」と「野」とを同じとみなしたのまである。それは説明不足か勘違いとしても、「原」と「野」の違いを無視している。同じところを、「原」とも「野」とも言ったと言うことだが、説明ぬきで無条件にそういっていいものか。藤原京で有名な「藤原(藤井が原)」を「藤野」ということはありえない。ただし、同じ地名に対して「原」とも「野」とも言った例はある。それにはなにか理由があるだろう。
念のために、時代別。
の【野】(名)野。広々とした野原はハラといい、ノは山裾のゆるい傾斜地などをいったようである。
はら【原】(名)原。広い平らなところ。

原については、「が」「の」の調査で以下のように書いた。

奈良盆地も当時は、原が多かったのだろう。藤井が原の北東に竹田の原、北方遥かに長屋の原、北北西に三宅の原、北西に、百済の原、南方に真神の原、がある。残念ながら盆地北部や、南西方向が不明。奈良以外でも、大阪に味経の原、依網の原、京都に筒木の原、阿後尼の原、三香の原、布當の原、三重に五十師乃原、兵庫に大海乃原、近江に勝野の原、岐阜に和射見が原、福岡に故布の波良、などがある。近畿に多いのは万葉歌人が目にすることが多かったのだから当然か。それ以外のも著名な万葉歌人が関係している。

ここには、同じ地名で「~(の)野」と呼ばれるのもあるが、まず、「原」の漏れ落ちがないか再調査しよう。歌中2回以上のものは最初の歌番のみ記す。

国原(1-2、地名ではないが、大和平野のことを原と言っているようだ)、印南国原(1-14、2番歌の例と同じことが言える)、清御原(2-162、宮号の部分、地形地名かどうか不明)、湯の原(6-961)、於保屋が原(14-3378)、

宇智の大野(1-4)、蒲生野(1-21左)、安騎野(1-45題)、安騎の大野(1-45)、安騎の野(1-46)、巨勢の春野(1-54)、引間野(1-57)、磐代の野中(2-144)、宇陀の大野(2-191)、越智の大野(2-194)、越智野(2-195)、高円の野辺(2-231)、狩路の小野(3-239)、稻日野(3-253)、猪名野(3-279)、託馬野(3-395)、春日の野辺(3-404)、春日野(3-405)、ささらの小野(3-420)、安の野(4-555)、秋津野(4-693)、雑賀野(6-917)、秋津の小野(6-926)、印南野(6-935題詞、938)、栗栖の小野(6-970)、高圓野(6-1028題詞)、河口の野辺(6-1029)、御笠の野辺(6-1047)、布当の野辺(6-1051)、狩高の野辺(6-1070)、遠里小野(7-1156)、岩代の野辺(7-1343)、大荒木野(7-1349)、浅沢小野(7-1361)、岩倉の小野(7-1368)、阿婆の野(7-1404)、百済野(8-1431)、蘆城の野(8-1530)、名張野(8-1536)、宇陀の野(8-1609)、大我野(9-1677)、横野(10-1825)、高松の野(10-1874)、佐紀野(10-1905)、司馬の野(10-1919)、阿太の大野(10-2096)、沙額田の野辺(10-2106)、
敷の野(10-2143)、浪柴の野(10-2190)、八田の野(10-2331)、旗野(10-2338)、末のはら野(11-2638)、竹葉野(11-2652)、和射見野(11-2722)、都賀野辺(11-2752)、浅葉の野ら(11-2763)、雁羽の小野(12-3048)、須我の荒野(14-3352)、武蔵野(14-3374)、多胡の入野(14-3403)、都武賀野(14-3438)、水久君野(14-3525)、等夜の野(14-3529)、岩田野(15-3689)、味眞野(15-3770)、押垂小野(16-3875)、三島野(17-4011)、婦負の野(17-4016)、杉の野(19-4148)、石瀬野(19-4154)、棚倉の野(19-4257)、高圓の野(20-4297)、千葉の野(20-4387)以上。

原、
奈良(6)、藤井が原、竹田の原、長屋の原(題詞)、三宅の原、百済の原、真神の原
近畿(9)、大阪、味経の原、依網の原、京都、筒木の原、阿後尼の原、三香の原、布當の原、兵庫、大海乃原、印南国原、滋賀、勝野の原、
東日本(3)、三重、五十師乃原、岐阜、和射見が原、埼玉、於保屋が原
西日本(2)、福岡、故布の波良、湯の原。
近畿だけで15例、のこりは全部で5例というのはかなりの差だが、西日本は福岡の2例だけで、どれも原と言えるような地形なのか心もとない。中国四国九州は歌が少ないこともあるが、平原と言えるような地形に乏しいこともあろう。東日本は、三重を除けば東山道ばかりだがそれでも2例は少ない。長野、群馬、栃木など、もっとあってもいいように思う。近畿は歌が多いだけに例も多いが、やはり、大和平野や、河内摂津の平野、南山城から宇治に至る平野、播州平野など、当時の先進地帯だけあって平野部が多いこともあろう。

奈良(9)、安騎野(1-45題)、越智野(2-195)、旗野(10-2338)、春日野(3-372題)、秋津野(4-693)、高圓野(6-1028題詞)、百済野(8-1431)、佐紀野(10-1905)、大荒木野(7-1349)、
近畿(8)、大阪、横野(10-1825)、兵庫、稻日野(3-253)、猪名野(3-279)、滋賀、蒲生野(1-21左)、託馬野(3-395)、和歌山、雑賀野(6-917)、大我野(9-1677)、竹葉野(11-2652)、
東日本(9)、三重、名張野(8-1536)、愛知、引間野(1-57)、岐阜、和射見野(11-2722)、東京・埼玉、武蔵野(14-3374)、?、都武賀野(14-3438)、?、水久君野(14-3525)、福井、味眞野(15-3770)、冨山、三島野(17-4011)、石瀬野(19-4154)。
西日本(1)、長崎、岩田野(15-3689)、
これらは、「の」をいれない、正真正銘の固有名詞の地名である。ただし、題詞や左注の場合は、たとえば、「高圓野」などは「たかまとのの」と読んだ可能性もある。原と同じで奈良が多く、さらに近畿と併せれば17例となる。西日本はこちらも非常に少ない(それも壹岐島)が、東日本は原の3倍ある。東歌と北陸の歌が殖えたが、特に原野のような所が多かったのだろう。

安騎の野(1-46)、高圓の野(20-4297)、阿婆の野(7-1404)、司馬の野(10-1919)、敷の野(10-2143)、宇陀の野(8-1609)、高松の野(10-1874)、八田の野(10-2331)、浪柴の野(10-2190)、
棚倉の野(19-4257)(京都)、
婦負の野(17-4016)、杉の野(19-4148)、千葉の野(20-4387)、等夜の野(14-3529)、
安の野(4-555)、蘆城の野(8-1530)、
これも分布的には上のと同じようなものだが、こちらは、一語の固有名詞なのか、固有名詞(地名)+の+普通名詞、の三語なのか、不明と言える。安騎の野、高圓の野、などは、婉曲に優雅に表現しなおしたとも言えるが、宇陀野、阿婆野、司馬野、敷野、八田野、浪柴野、などは、あるともないともいえない。宇陀の野などは、安騎の野を言い換えたものだが、当時、宇陀郡の中心部を、宇陀野とか、宇陀の野とかと言ったとは思えない。大和平野にあって、安騎野を漠然と、宇陀の野と言ったものだろう。奈良以外のもそうで、安野とか、千葉野とかいうような、~野という地形の固有名詞があったとも思えない。

大野、宇智の大野、安騎の大野、宇陀の大野、越智の大野、阿太の大野
小野、狩路の小野、ささらの小野、秋津の小野、栗栖の小野、遠里小野、岩倉の小野、雁羽の小野、浅沢小野、押垂小野。
野辺、高円の野辺、春日の野辺、河口の野辺、御笠の野辺、布当の野辺、狩高の野辺、岩代の野辺、沙額田の野辺、都賀野辺(都賀野の野辺を圧縮したものか)
巨勢の春野、
磐代の野中、
末のはら野、
浅葉の野ら、
須我の荒野、
多胡の入野

あまりに煩雑で出さなかったが、ほかにも「野」の複合語はあるし、それが地名を伴わないで出るのも多い。秋野などはたくさん出る。原の場合はこんなことはない。
原は、天の原、海原、川原、草原以外は、葦原、榛原、など植物を冠したものが多く、地形的な面よりも、平で広い空間または、そこを特色のある植生が埋めている所、といった面に留意している。
野は、大野、小野、荒野、春野、夏野、秋野、冬野、浅野、野辺、入野、など季節感や野生の自然の感じられる所といった意味合いが優勢だ。上記の例でも、野辺が多いが、自然の多い場所ということだろうから、みな普通名詞であって、固有名詞を言い換えたものではないようだ。巨勢の春野、といっても、巨勢野という地名があるわけではない。但し、春日の野辺、とかになると、実質的には、春日野の野辺、かも知れないが、春日野を意識しないで、春日にある野辺といったのかも知れない。おそらく後者だろう。

ところで、以前、時代別の、
の【野】(名)野。広々とした野原はハラといい、ノは山裾のゆるい傾斜地などをいったようである。
はら【原】(名)原。広い平らなところ。
を引用した。ここの野を「山裾のゆるい傾斜地などをいったようである。」という語義は広く受け入れられているようだが、どうも、万葉の例などを見ていると、山裾の傾斜地といった地形を意味する語はほとんどない。せいぜい「宇智の大野」(金剛山の山裾)ぐらいだが、これもそういう予見で見るから、そう見えるだけで、実際は荒涼とした野原(だから大野)で十分通じる。この傾斜地説というのは、どうも柳田国男などの民俗学的、地理学的な知識から出てきたもので、万葉の和歌には適さないようだ。
古語辞典でも、岩波古語辞典、「広い平地。多く山裾の傾斜地」、大野晋、古典基礎語辞典、「ヤマのふもとまでの平地や緩やかな傾斜地」、とあるが、小学館、古語大辞典、「人の住まない平地」、日本国語大辞典第二版、「平らな地」など、傾斜を言わないものもある。万葉などの和歌の場合は「人の住まない平地」、つまり、里と山地との間の野趣のある土地といった意味が多い。
『愛文』(1979年7月)愛媛大学
糸井通浩、「原《はら》」「野《の》」語誌考・続貂
は、「原」の語原を宗教的に考える所を除けば、私の考えと一致する部分が多い。つまり糸井氏の説と言うことになる。そのまとめの中で、
野が、地形的自然的分節語であるのに対して、原は信仰的人文的分節語であった。同一地域が視点によって、野にも含まれ、又原とも認織されもしたのである。
と言っておられるのは参考になる。
この「同一地域が視点によって、野にも含まれ、又原とも認織されもしたの」が、今問題にしている、わざみ野、わざみが原、である。ほかに、百済野(8-1431)、百済の原(2-199)があり、わずかにこの2例しかない。原20例、野27例もあるのに、わずか2例ということは、やはりよく似た地形ながらも、はっきりと区別されていたのだろう。糸井氏の言う地形的と人文的との違いかも知れない。

我妹子が笠のかりての和射見野に我れは入りぬと妹に告げこそ(11-2722)
稲岡全注に、「旅の歌と知られる。…。旅先での無事を告げる寄v野恋の歌。」とあるとおりだろう。これを野上ととり(一般には今の関ヶ原とする)、雪の多い所として有名とも言うが、わざわざ雪の多い所にさしかかったと妹に告げることもないだろう。そこをぬけて、池田山山麓の青野に出たと言うことではないだろうか。そこから池田の里(「岐阜県の歴史」山川出版社、2000.10.25、によると、天武天皇の湯沐邑のあったところで、当時の西濃の中心)まではわずかだ。つまり、近江との国境あたりから、野上までが、不破山で、そこを越えたところが、里と山との中間の、「わざみ野」だったといえるだろう。

…背面の国の 眞木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ…(2-199)
ここで人麻呂が「原」と言ったのは、「野」でも「原」でも同じと思ったからではないだろう。既述のように、同じ土地を二様に読んだ例は、二例しかない。また、「わざみ野」と「わざみが原」は別だという事もないだろう。実際ほぼすべての注釈書が、同じ場所としており、それは関ヶ原だというのが通説化している。いったいどういうことなのか。これは、糸井氏が紹介されていたが、~原は、都のあった場所を示す場合が多いということに由ると見ればよい。ここでも、「仮宮に 天降りいまして」とある。仮宮、つまり行宮であり、書紀では野上にあったとする(野上は谷状の狭い所で、地形上、野とも原とも言いにくいから、その近くの「わざみ」に替えたか、あるいは人麻呂の知識では「わざみ」だったのだろう、野上は、わざみ野の西端だから野上と言ったのかも知れない)。恐らく地元では、地形、自然、立地からして「わざみ野」と呼ばれていたのを、人麻呂が、天武の行宮のあるところは、「野(つまり、郊外のやや寂しく自然の多い所)」ではなく「原(かなりの広さがあって、王者の居住にふさわしく、交通の便もいい所)」でなければならないとして、意図的に言い換えたものであろう。表現上の技巧といってよい。なお、ここでははっきりと、「不破山超えて」とあり、その不破山を前述のように見なせば、「わざみが原」は青野ということになる。この「不破山越え」については、もう少しいうことがあるが後回しにして、もう一つの例を見ておきたい。

山部宿禰赤人歌一首
百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも(8-1431)
…言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮…(2-199)
「わざみが原」と同じ人麻呂の199番である。こちらは「が」ではなく「の」になっており、百済の原は城上の宮にいく途中であるから、行宮でも殯宮でも、ましてや都でもない。赤人のほうが後だから、人麻呂が「百済の原」といったのを、萩が咲くような所は、「野」の方がいいというので、「百済野」と替えたのだろうか。
奈良には、藤井が原、竹田の原、長屋の原(題詞)、三宅の原、百済の原、真神の原、があるが、このうち、藤井が原、真神の原は都があったが、地形的にもかなり開けている。竹田の原、三宅の原、長屋の原、は都や行宮があったとも思えないから、地形的な平地だろうが、実際、大和平野でも、田原本から天理にかけて、最も平らな感じのする所である。広陵町百済は、これらからは、西南に離れて、曾我川と葛城川の間にあり、馬見丘陵へは、もう一つ高田川を越えなければならないが、僅かな距離であり(1キロあるかないか)、恐らく、当時は、丘陵部にかけて広く百済と言ったのだろう(いまその丘陵部は全面的に宅地化され面影は西端の坂道ぐらいにしか残っていない、一面の水田地帯だった、曽我から小槻(おうずく)、満田(まんだ)、百済(くだら)あたりも宅地や道路、商業施設で埋まってしまい、私のようにそのあたりをよく知っている人間には別世界のようだ)。城上はその北方に当たり、そこに城上の宮はあった。ということで、赤人の使った「百済野」が本来の地名とみてよいだろう。
それを人麻呂は、なぜ「百済の原」といったのか。また、香具山と城上の間には、百済だけでなく、曽我もあり、経路によっては、雲梯を通ったかも知れないし、もっと北の田原本方面かも知れない(藤原宮のあった、高殿町の小字の百済という説もあるが、上野誠氏「香具山宮と城上宮-「殯宮之時」挽歌と殯宮設営地-」、萬葉155号、1995.11、にもあるように、認めがたい。くだらない説だ。)特に百済の原でなくてはならないというわけでもないが、高市皇子の祖父(天武の父)にあたる、舒明天皇の宮があったという印象が浮かび上がるのではないだろうか。広瀬、城上、百済の線は、天武や高市にとって、非常に馴染みのある土地であり、そこに舒明天皇の宮があったから、「原」という、壮大な感じを与える地名にしたのだろうし、そこを通過すると表現することは、高市皇子の葬送を荘重なものにする効果もあっただろう。なお、最近、考古学の成果から、舒明の百済宮を桜井市吉備に比定する説が有力になってきているが、そこを百済といった確証もなく、また、香具山からそこを経過して城上に行くのは迂回路でもある。また、香具山のすぐそばにある吉備のあたりをわざわざ中間の経由地として持ち出すのも変な話である。