2105~2107

2105、
「~が原」は3。「~の原」は題詞や読み添えも含めて、14、こちらは結構ある。
「~の原」の場合、~は所在地を示すのが多いようだ。三宅乃原、竹田之原、百濟之原、味経乃原、筒木之原、阿後尼之原、三香乃原、布當乃原、五十師乃原、大海乃原、故布乃波良、長屋原、勝野原、依網原、和射見我原。真神の原はどうなんだろう。狼が出たという伝説が由来なのか。藤井が原、はどうだろう。藤井という地名はなさそうだから、そういう名の井戸があったのが由来ということか。真神と共にやや謎である。

2106、
だいたい、奈良盆地も当時は、原が多かったのだろう。藤井が原の北東に竹田の原、北方遥かに長屋の原、北北西に三宅の原、北西に、百済の原、南方に真神の原、がある。残念ながら盆地北部や、南西方向が不明。奈良以外でも、大阪に味経の原、依網の原、京都に筒木の原、阿後尼の原、三香の原、布當の原、三重に五十師乃原、兵庫に大海乃原、近江に勝野の原、岐阜に和射見が原、佐賀に故布の波良、などがある。近畿に多いのは万葉歌人が目にすることが多かったのだから当然か。それ以外のも著名な万葉歌人が関係している。

2107、それにしても、藤井が原の周辺も近畿のもその他のも大方、「場所名+の+原」なのに、藤井が原、真神の原、はそうではないのか。また大方「~の原」なのに、なぜ、藤井が原と和射見が原は、「~が原」なのかという疑問が浮かぶ。後者については、今まで先人の論文などを参考に何度か触れたが、やはり一時代前の表現と言うことだろう。古風であることは荘重で格式張った感じもする。藤井が原は、藤原の宮の御井を讃美したものだが、間接的には藤原宮を讃美しており、東西南北の山をシンメトリックに述べ、また祝詞の雰囲気があるなど、古色蒼然とした荘重な儀式歌である。恐らく藤原宮が建てられたところは「藤原」と呼ばれたのだろう。折口は、八釣に明日香の八釣(上八釣)と藤原近くの八釣(橿原市下八釣)があるのを参考にしたのだろうか(推測)、藤原というのも明日香の藤原(大原)を移したものだという。恐らくそうだろう。御井歌には中臣氏の関与があると土橋氏も言っている。そこに井戸がありそれを讃美しようとしたから、藤井が原としたのだろうが、普通なら、藤井の原というところだろう。しかし、そこの場所名は藤原であって、藤井ではない。それにいまなら大字のような藤原の中に井戸があったのだろうが、大字の藤原よりももっと大きいはずの原(少なくとも、香具山、耳成山畝傍山あたりまでを含む)を藤井の原というのは不自然だ。どうもこれは架空の地名らしく思える。だから、歌に合わせて古風に見せるために「藤井が原」といったのだろう。どうせ架空の地名なら、広さなどはおぼろげでよい。なお藤原宮は促成らしく、なかなか藤原京らしい景観にはならず、見事な都城とは言いにくかったようだ。中途半端なままに、まもなく平城京に移ってしまう。せめて歌だけでも中国の都城に負けないように虚勢を張ったのだろうか。だから架空の地名も、藤井の原、ではなく、藤井が原、と「が」を使ったのだろう。そういえば、50番の「役民歌」でも、藤原が上、というふうに、「が」を使っている。万葉の例なら、普通、藤原の上、とあるべきところだ。