2326、わざみ9

2326、わざみ9
高市皇子尊殯宮挽歌の論 文学と歴史の間、櫻井満著作集第二巻柿本人麻呂論、おうふう、2000.2.25、所収、初出、国学院雑誌1967.11。
これは阿蘇氏だけが、神風が吹く場面で引用されていた。他の人は、かなり古い論文であるに拘わらず言及していない。実際言及に価しない無価値な論文だ。例によって、皇族に敬語を多用するという、戦前の国粋主義者を思わせるもので、折口、柳田、記紀の文章の大量の引用で埋まっている。吉永、吉田、伊藤など、当時の重要論文は紹介しているが、格好を付けただけで、中身への批判はない。吉永の書名を取って、「文学と歴史の間」などと言っているが、この人の言うのは、折口流の歴史と文学であって、吉永などのいうのとは中身が違う。ただし出だしは淡い期待を抱かせた。

人麻呂の高市挽歌と「壬申紀」との間には重大な相違点があるのであった。順次検討してみよう。
 (一)…不破山を越えてというと、近江から不破山を越えて美濃に出たように受けとれるが、「壬申紀」では、大海人皇子は吉野を出て伊賀を通り伊勢の鈴鹿から美濃に入られたとあり、道順が逆になっている。
 (二)和射見が原(関ケ原のあたりか)の行宮とあるが、「壬申紀」では、行宮は野上(関ヶ原町野上の地)で、高市皇子の陣を敷いたところが和※[斬/足]であった。人麻呂は野上の行宮を和射見が原の行宮といったという単なる呼称の問題ではなかろう。高市皇子は、父、大海人挙兵の報を得て近江を脱出(この印象が(一)に現われたのか)、積殖の山口で天皇と合し、のち全軍の統帥を委任されたのであった。
 (三)略
 (四)略
 (五)…吉永氏が指摘したように、書紀に関する限り高市皇子の参戦は認められないのである。それは当然のことで、そこに文学と歴史の違いがあるのだ。
 (六)略

その(一)は諸注がいう通り、大和にいる作者から、不破山を越えた彼方の地というくらいに解釈してもよいが、(二)(五のロ)と共に、高市皇子尊の殯宮の時という人麻呂作歌の主題からもたらされた結果とみられる。

不破山越えの地理的な矛盾を明記したのはいいが、それを、天武と二重写しにした、高市皇子甲賀から伊賀の柘植への脱出行程の印象があらわれたのかといってすましている。いくらなんでも、柘植への行程が、不破山越えに化けるはずもないし、高市皇子が天降るわけでもない。しかもこのあと、此の書紀との矛盾はほとんど論じられない。歴史的な事実よりも、神話的な伝承などの方が重要で当時の人はそういうのを、歴史と考えていたであろうし、それを挽歌に詠むのが人麻呂だから、まさしく文学と歴史の間だというわけだが、つきあいきれない。

だいたい読んだ論文からたどれる論文の主なものは読んだ。残念ながら、茂吉が紹介した長谷川如是閑の、「改造」(マイクロフィルムで所蔵する所はあるがちょっと簡単には行けない)と「短歌研究」のは、戦前の雑誌ということもあって、読めなかった。文庫本にもなかった。岩波の著作集のほうは、まだ全部点検していないが、可能性は低い。「わざみ」については参考になる程の論文はなかった。岐阜県は万葉地理の分野でも、東海の一部でちょっと出るだけである。私も既に言ったと思うが、高山市に観光で何度か行ったのと、馬籠から中津川方面へ何度か行っただけで、関ヶ原とかは車窓からちょっと見ただけだ。
ところで、最初に紹介したように、「わざみ」は高市挽歌以外の歌でも詠まれている。それを見てみよう。
わざみの嶺
10-2348
わざみ野
11-2722
わざみが原
2-199
高市挽歌で「原」だったのが、のこり二つでは「野」「嶺」になっている。自然地形の地名なのか、行政上の集落名なのか、比定地が分からない上に(関ヶ原説が通説だが、既述のように、私は野上の東方の青野説が良いと思う)、「わざみ」の語原も不明で、類似地名も見当たらない。期待は出来ないが、まず10-2348から。
拾穂抄、わさみのゝ嶺美濃也。(「の」を添えて五音にして読んでいるから、「わざみ野」の嶺となっている。)
代匠記精、字のまゝに四もじに讀べし、美濃國不破郡なり、(初もほぼ同じ。)
童蒙抄、わさみのねは、美濃國にある山にして、…也。雪中に山など越ゆるは、吹雪、雪なだれなど云て、わざのある物なるに、何の災と云事も無く行過ぬと云事を、思ふ中の間に、さはりわざある事も無きと云義に寄せたるか。…全體如何樣に聞きなしても不2打着1歌也。尚後案すべし (かなり詳しくなったが、どこから山越えしたのかが分からない。尾張からということはないだろうから、伊勢からか近江からか、あるいは美濃国内からか。不破郡にあるといっても、不破郡は広い。)
万葉考、わざみの嶺とつゞけりわざみは美濃國不破郡和※[斬/足]なり (妹の家から帰るときに山越えをしたと取っている。)
略解、美濃不破郡和※[斬/足]
古義、美濃(ノ)國不破(ノ)郡にあり、二(ノ)卷に、…、十一に、…、などよめり、
新考、ワザミノ嶺は卷二高市…に見えたるワザミガ原と同處にて美濃國不破都の山ならむ口訳、この美濃の和※[斬/足]山を通り過ぎたが…
辞典、美濃國不破郡関ケ原邊の地であらう。或は不破郡の東の端に考へる説もある。
全釈、美濃不破郡、關が原南方の山。卷二に…とある不破山も同所であらう。
總釈(安藤)、 岐阜縣不破都の和※[斬/足]の嶺。
評釈(窪田)、岐阜県不破郡関が原町関が原南方の山。一説に、同郡赤坂町青野あたりともいう。
全註釈、岐阜縣不破郡。その嶺は、関が原南方の山。…東山道を下つて、和射美の嶺を通過して雪に逢つたのである。
評釈(佐佐木)、この附近の住人であつて旅人ではあるまい。このあたりは今でも特に雪の深い處であるから、この序は強い實感であらう。…。美濃國不破郡にある。
私注、ワザミは…ワザミガ原、即ち關原である。現在でもあの附近は…雪の多い所…。大意、和※[斬/足]の峠を行き過ぎて、…
大系、不破郡関ガ原町関ガ原。一説に同郡赤坂町青野あたりという。このあたりは雪の非常に多いところである。
注釈、「和射美」は關ヶ原のあたり。…今も雪の多いところ…。(嶺の語注がない)
全集、不破郡関ガ原町関ガ原。
集成、不破郡関ケ原付近の山。このあたりは今も雪が多い。
全訳注原文付、関が原あたり。積雪が激しい関として著名。(嶺(訳は山)の語注がない。
全注(阿蘇)、関ガ原町関ガ原付近の山。関ケ原南方の不破山と想定される(全注釈)。
新編全集、不破郡関ヶ原関ヶ原の野。「和射実の峰」はその周辺のいずれかの山。
釈注、「和射見」は岐阜県不破郡関ヶ原付近。(嶺の語注がない)。
和歌文学大系、不破郡関ヶ原付近の嶺。
新大系不破郡関ケ原町関ケ原の地.今も東海道線の雪の難所である。(嶺の説明がない)。
全歌講義、全注と同じ。
全解、関ヶ原関ヶ原付近の山。

大日本地名辞書、不破郡伊増峠の項。東に松尾山、西北に伊吹に連接し美濃路の一嶮で、万葉の不破山であり、同じく万葉の和射美の嶺は今須峠の古名であるとする。
和※[斬/足]の項。今其の名を失ふ、…和射美が原は後の關が原に同じ、(今須は不破山であって、狭隘だから和※[斬/足]ではない、和※[斬/足]は関ヶ原、という)。
松田好夫萬葉集に於ける東海地方、萬葉集大成第21巻風土編、1955.11.30、所収。
「和射美の嶺」は不破附近の山
土屋文明、萬葉紀行、白玉書房1970.5.15(初版1943)、所収「和※[斬/足]が原」
これは「嶺」については何も言わない。「わざみが原」のところで参照しなかったようなのでここで見ておく。
野上と滋賀の間の軍司令官の所在地たる和※[斬/足]は、両者を結ぶ線上にあるべきだから、青野説は都合が悪い。
関が原は狭小だが、徳川豊臣の戦いでは十四五萬いたのだから、三四萬の軍の駐留には事を欠かなかっただろう。
不破山越えて、は、大和にいる人麿が「不破山を越した彼方の」という形容句として言ったのだろう。

平凡社岐阜県の地名、わざみが原、古代地名。関ヶ原一帯に比定される。不破山、今須峠辺りをいうか。
角川日本地名大辞典、今の関ヶ原一帯を指すものであろう。

結局具体的な山の名を出したものは一つもないといっていい。全く触れないものもあるが、不破郡関ヶ原(和※[斬/足]とする)周辺の山でお茶を濁すのが多い。やや具体的なのは、関ヶ原南方の山とするもの(全釈、窪田評釈、全註釈、全注、全歌講義)。阿蘇氏の二つは全註釈に依ったとある。それによると、東山道を下って通過する山とはあるが、不破山のこととは言っていない。それを言うのは全釈である。窪田評釈は具体的には言わない。それにしても、不破山は関ヶ原の南方ではない、西方(正確には南西方)である。しかも、不破山と和※[斬/足]の嶺が同じという根拠はない。窪田評釈は具体的ではないが。関ヶ原の南方の山といえば、松尾山しかないが、低く小さい上に、東山道(さらには伊勢方面への道)が通るはずもない。
大日本地名辞書は、和※[斬/足]の嶺を、今須峠とする。しかし別項目で、和※[斬/足]が原は関ヶ原で、今須ではないとし、今須は不破山だとする。これでは、和※[斬/足]の嶺は、今須(峠)にあるのかどうか不明になる。だいたい、今須峠(不破山)を和※[斬/足]の嶺といっているようだから、全釈などは、この地名辞書に依ったのだろう。しかし、「みね」を「峠」とするのは、漢字の「嶺」の漢語での意義を取ったのだろうが、日本語としては、峠ではなく、山の高い頂上ということだから、峠としての不破山では合わない。それに歌の意味としても、人が雪の峠を越えて妹のもとへ行くというような内容ではなく、雪が山の峰などを越えても、なお降り続く(山に降る雪を眺めている)といったことだから、峠である必要はない。
みね【峯・嶺】(名)山の頂。(時代別国語大辞典上代編)
以上、和※[斬/足]の嶺、不破山(今須峠)説は成り立たないというしかない。
関ヶ原周辺の山というのはなんだろう。今須峠周辺とか、松尾山などというのは低いから、嶺というのにふさわしくない。南宮山は東に寄りすぎる。それに多量の雪というのは、この辺りでは北西から吹き付けるのだろうから、これら、関ヶ原の南縁だと、これらの山を通りすぎてどこへ行くのか。養老山地とか、員弁郡方面へ行くのか。そのあたりまで行くと山かげになってそんなに降らないのではないか。北西方向には伊吹山があるが、かなり離れている上に、伊吹山は知られた山だから、和※[斬/足]の嶺とは言わないだろう。青野ならどうだろうか。これはもう濃尾平野に入っているから、北西方面以外はずっと平地だ。しかし、その北西にあるのは屏風のように立ちはだかる池田山だ。標高924メートルで、平野部からすぐに池田山になっているから、高さも申し分ない。揖斐川や伊吹方面からの雪雲も来るだろう。青野や青墓あたりから、今の揖斐郡池田町あたりに行く道をたどり、本巣や岐阜方面へ行けば、池田山(和※[斬/足]の嶺に比定されてもいいだろう)に降った雪が、平野部に入ってもなお降り続くということもあるだろう。