2306、そがひ7

2306、そがひ7
補注、「「葦垣の思ひ亂れて」」、賀古明、万葉第27号、1958.4
山菅の場合、禾本科植物の例として、穂先が乱れる、その姿を比喩に取ったものとする説を紹介している(論文の結論は、枕詞「葦垣の」等を恋情発想の表現契機語とみる)。つまり、葉は「そがひに」(背中合わせに)生えているのではなく、四方八方乱れて生えているのである(最大限譲歩して、芽生えの時の葉が二本の時でも背中合わせではなく、向かい合わせだ)。これが万葉人の観察であり、今もそう観察される。
訂正。そがひに寝る、の視点は男性といったが、1412は女性。3577が男性である。

折口口訳の訳。歌は年代順の配列、以下同じ。
509 背に見つつ  淡路を通り、粟島をば、向うに見やりながら、段々やつて行くうちに、
358 背に見つつ 粟島をば向うに眺め乍ら、好い景色を恣に眺めてゐる羨しい小舟よ。
357 背向に見ゆる 繩の浦から見ると、向うの方に見える、沖の方の島を
917 背匕に見ゆる 雜賀野から向うの方に見える沖の島よ。
460 背向に見つつ 佐保川を朝越えて行つて、春日野を後に見ながら、山の方を向いて
1412 背向に寝しく 背中合せに寢て
3577 曽我比に寝しく 背中合せに寢て居たことが
3391 曽我比に見ゆる 筑波山からは向うに見える
4003 曽我比に見ゆる 此越中の國府から、後に見える所の神樣の
4011 曽我比に見つつ 大黒は、三島野をば後に見乍ら、二上山をは飛び越えて
4207 曽我比に見ゆる 茲からみれば反對に、向うに見えるあなたの屋敷内の谷間
4472 曽我比に見つつ   意宇(ノ)浦を後に見い/\して、都へ上つて行く。
私注の訳。
509 背に見つつ  淡路をすぎて、粟島を後に見ながら
358 背に見つつ 粟島を後に見なしつつ漕ぎ廻る數少くさびしげなる小舟よ。
357 背向に見ゆる つぬの浦から出て、後に見える沖の島を
917 背匕に見ゆる 雜賀野から、後の方に見える沖の島の。
460 背向に見つつ 佐保川を朝川の中に渡り、春日野を後に見て、山べを指して
1412 背向に寝しく 背な合せに寢たのが
3577 曽我比に寝しく 後向に寢たことが
3391 曽我比に見ゆる 筑波山に對して、後方に離れて見える
4003 曽我比に見ゆる 遙かに見えるところの、神さながらに
4011 曽我比に見つつ 三島野を横に見て、二上の山を飛び越えて
4207 曽我比に見ゆる 此所で向ふ側に見える、吾が君の垣のめぐりの谷に
4472 曽我比に見つつ   おほの浦を後に見て、都へ上る。
新編古典全集の訳。
509 背に見つつ  淡路島を通過し 粟島を 後ろに眺めながら
358 背に見つつ 粟島を かなたに見ながら漕いでいる 羨ましい小船。
357 背向に見ゆる 縄の浦から かなたに見える 沖の島を
917 背匕に見ゆる  雑賀野の離宮から かなたに見える 沖の島の
460 背向に見つつ  佐保川を 朝渡り 春日野を かなたに見ながら 山辺をさして 1412 背向に寝しく 背な合せに寢たのが
3577 曽我比に寝しく 背中を向けて寝たことが 今では残念だ
3391 曽我比に見ゆる  筑波嶺から 後ろに見える 
4003 曽我比に見ゆる   朝日が差し 後ろに見える霊山 神さながらに
4011 曽我比に見つつ   三島野を 後ろに見い見い 二上の 山を飛び越えて 
4207 曽我比に見ゆる ここからは 後ろに見える 君の館の 屋敷の谷に
4472 曽我比に見つつ 大の浦を 遥かかなたに見ながら 都へ上ります
補足、357の語注で、「ソガヒは背後、ソ(背)+カヒ(方向)の意。」とし、以下所々の「そがひ」の語注は皆同じ。
論文だけをみていると、やはり、後ろにみる、と言った解釈が優勢かと思ったが、訳に歌人的な特徴のある、折口、土屋、そして、現在の代表的な注釈書の訳を並べてみると、なんともてんでんばらばらで帰する所を知らないと言った状態だ。何十とある注釈書を全部見るわけにはいかないので、この3者だけでも眺めておきたい。
まず、「向こうに」、「かなたに」、「遥かかなたに」と言った訳は、山崎、西宮説だけかと思ったが、古く折口から新編まで、そう言う訳が混じっている。ということは、山崎説なども特に新説とも言えないようだ。説明が新説なんだろう。さらにみていくと、折口は、初めから「向こうに(の)」が続き、春日野の歌で「後ろに」となり、「そがひに寝る」のあと、葦穂山が「向こう」立山、三島野、大の浦が「後ろ」になる。4207は除く。春日野、葦穂山、立山が後ろになるのはよく分からないし、三島野、大の浦も説明が必要だろう。それより、静止した視点、動く視点という、身崎説のような観点でみても、「向こう」と「後ろ」の訳の違いには結びつかない。
土屋は、「後ろに」「後の方に」「後方に」が最初から続き、「寝る」でも3577は「後向に」するなど、一貫するかと思いきや、立山は「遥かに」、三島野は「横に」となり、4207は「向かふ側に」となり、大の浦で、再び「後ろに」となる。なぜ全部「後ろに」等としなかったのか。やはり一つの訳で押し通すと、歌の解釈に無理が出ると思うのだろう。
新編は、始め「後ろに」と出たが、あと「かなたに」が四連発。「寝る」を越えて、「後ろ」が四連発、そして最後の大の浦で「遥かかなたに」となる。前半「かなたに」で後半「後ろに」かとも思えるが、なぜか最初は「後ろに」で最後は「かなたに」では、使い分けの基準らしいものもあやふやだ。やはりこれも歌の解釈に合わせて、語義を恣意的に変えているとしか思えない。なのに、語義は「後ろに」だという。「後ろに」という語義のものが、なぜ「かなたに」で訳せるのか、疑問だ。しょせん「後ろにみる」という無理な解釈をするから訳がばらばらになる。山崎説などのいうように「後ろにみる」という理解を捨て、すべての用例を「かなた」とか「遥か向こう」というような語義で解釈してみるべきなのだ。