2311、そがひ12

2311、そがひ12
17-4011 思放逸鷹夢見感悦作歌一首并短歌
…三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと…(十七・四〇一一)
順序からすると立山がさきだが、都合により、こっちを先にする。これなどは「~を そがひに 見つつ」の型なので、春日野、粟島(2)、おほの浦、と同じで、したがって「そがひ」の意味も、「彼方の」でいいはずである。あとは、地理の問題だが、残念ながら「三島野」の位置がはっきりしない。国府は、現在の高岡市伏木古国府の勝興寺の附近がその跡とされているから、その近くで(普通は日帰りの距離内)、二上山も近くにあるといった条件がある程度だ。
新編全集の地名解説(スペースの関係で出典を示していないが、通説と考えてよい)では、
三島野 越中国府のあった富山県高岡市伏木の南約八km、射水郡大門町南部、二口・堀内の辺か。
とある。地図で見ると、あいの風とやま鉄道(もとの北陸本線)の越中大門駅の南方、庄川の東、北陸新幹線の北が二口、南が堀内である。今は宅地化が烈しいが、そのあたり以外はまだ水田も多い。一面に山も丘もない低地で、今は射水市となっているが、高岡市富山市に挟まれており海も近い。そのあたりどこにも、三島とか野とかいった地名はないが、堀内の西南西1.2キロほどのところに、島という地名があるのが、三島と関連したものなのだろうか。庄川が近いので、それの氾濫原のやや小高いところだったのだろう。伏木古国府から8キロ、小矢部川庄川を越える苦労があるが、2時間もあれば着くだろう。二上山は伏木古国府の西南西4キロだから、三島野からは北方にあり、二上山などは小さい丘陵程度に見えるだろう。

北陸萬葉集古蹟研究、鴻巣盛廣、宇都宮書店、250頁、1934.12.31
に「三島野」の項があり、
…。これによると、三島野は當時狩獵の好適地として、家持が屡々遊んだところで、そこは二上山に面すれば、後方又は斜横にあたることが明らかにされる。…。これによると、三島野は當時國守館のあつた、伏木の丘上から、遙かに見渡される地點であつたのである。和名抄には「射水郡三島郷美之萬」とあるが、今はそれらしい名を、町村名として止めてゐないやうである。併し三州志には、「二口村領に古の三島野と口碑する所あり」とあり。楢葉越の枝折には「今二口村・堀内村領に三島野とよぶ所あり。此ほとりに島村といふも今存せり」とある。萬葉越路の栞は、三州郷莊考に、「射水郡今東條郷、二口村・堀川村・本江村此三ケ村の領田の字に三島といへるあり、必ず此所なるべし」とあるのを引いて、これに「定説として然るべし」と賛意を表してゐる。大日本地名辭書は三島郷について記して、「今大門町、二口村、大島村、小杉町等なるべし。櫛田郷の北とす。三島野とは、その昔放生津潟の南(北とあるは誤記であらう)岸なる藪澤にして、放鷹によろしかりし地なるを思ふべし。」とある。…。
これによって、通説の出所がほぼわかる。ただし、山口博氏の、保育社の本では、不明としてまったく説明をしていない。厳密にはそう言うしかないだろう。郷土誌の類などあてにならないからだ。ところで、鴻巣もいうように、家持の歌の反歌で、三島野で鷹狩りをしたことが分かる。もし通説通りのところが三島野だとすると、そこを彼方にみて二上山へ飛んでいったという説明は出来なくなる。三島野を後にして、とか、後ろに見て、とかいった説明しかできないが、ここだけ「そがひ」の意味が違うのだろうか。解せないことだ。
考えられることとしては、三島野のいつもの猟場へ行く前に、鷹を逃がしたということだ。伏木の国府から出発してすぐに手違いがあって逃がしてしまい、はるか前方の三島野を見ながら右へ逸れて二上山を越えていったというのではないだろうか。天気が悪かったとしても、いつもの三島野で、失敗して逃がすということはないのではないか。家持に告げないで出たというので、出発時に集中出来なかったのだろう。ただの臆測に過ぎないが、「そがひ」を「彼方」の意味で解するなら、こうなるということだ。この場面設定は三島野を春日野に、二上山山辺に置き換えれば、理願挽歌とほぼ同じなので、その点からは都合がよい。