2291、耳我嶺考(継続中)

2291、
(前回の補足、曾倉説は、全注巻一三でも論じられているが、D(みかね)を最初とする説に後退が見られる。坂本説の「直香」の新しさを認めて、一番古いが、一部変形を受けたとする。また、これも坂本説を受けたのか、天武の個人詠も留保している)。
16,巻一・二五番の天武天皇御製歌の成立過程について、坂本信幸、萬葉145号、1993.1.31
ようやく最終段階。この論文は非常に長いもので、二五番歌と類歌との関係について論じられてきたほぼすべての問題点を、他説を紹介し批判しながら丁寧に論じている。しかし、過去にほとんど論じられなかった耳我嶺の地理(江戸・明治初期のは除く)については不明の一言ですましている。不明はその通りだが、分かる範囲内で調べる価値はあり、それによって歌の解釈が大きく変わるのだから、それをしなかったのでは、他の論点をいくら丁寧に論じても土台が揺らぐ。なお、網羅的に論じていても、論証の不十分なもの、思いつき程度に述べられたものもいくらか混じっている。そういうものは言及しない。
まず最初に、「みかね」と二五・二六番歌の先後関係を論じ、「みかね」の「妹が直香」という表現の新しさから、「みかね」(三二九三番)は、二五・二六番歌より新しいとする(一点目、二点目は後述)。四首の前後関係の論考で、「みかね」の「直香」の表現に注目したのはこれが最初で(いかにも坂本氏らしい)、大きな影響を与えたようで、「直香」の解釈について坂本説に従うものが多く、また「みかね」を一番新しいとする説も精力をましたようだ。自信があるのか、この論点を最初に出し、力を込めて既出の論文を検討し、やや脱線ぎみに長く論じている。
「香(か)」という用字や、用例の意味からして「かおり」の意味があるとする。「カはその人固有のもので…それによりその人の魅力や雰囲気が形成されている。…それ故タダカはその人そのものを表しもし、その人の様子・状態を表しもするのであろう。」と結論する。「みかね」の場合は、その人の様子を告げる、ではなく、タダカに恋うとあるので、「香」の正訓性が意識され、発想の新しさを感じる、とも言う。「タダカの原義は、…精粋の意を含むにしても、Dや…はその人固有のかおりと考えてよい…、「直香」は「姿」と同じ意に用いられているように思える。」という。なぜ用例の多い、「姿」を用いず「直香」を用いたかというと、当時よく読まれた漢籍(遊仙窟、玉台新詠、文選)の影響があるという。
随分詳しいように見えるのだが、どうも所々で論点のすり替えというか、論理の不十分なところがあるように思える。梅や橘なら、それ固有の「かおり」があり、万葉でもそう詠まれているが、人間に固有の「かおり」などというものはないだろう。老人の匂い、酒のみの匂い、子供の匂い、女性の匂いなどというものはあるが、そういうのはそれぞれの集団に普遍的な「におい」で、個人個人特有の「かおり」ではない。それを知ってか知らずか、突然無媒介に「姿」という言い方に変える。固有の「かおり」と「姿」ではかなり意味が違うだろう。それでもなお「かおり」にこだわって、漢籍の用例を出してくるのだが、こちらは、化粧品や香草などの「かおり」であって(それなら個人独特のものもあろう)、なにもなしに個人の肉体からでてくる「かおり」ではない。万葉の表現に影響したかも知れないが、それの「香」と「直香」の「香」とは意味が違うということになろう。「直香」の表現は新しく、「みかね(D)」の歌は四首の中では一番新しい、というのは理解できるが、それの証明は脆弱である。「香」というのは要するに当て字(借字)であって、「かおり」という 具体的な意味は持たず、なにか魅力的なものというのを示す文字ではないだろうか。その点では「姿」というのが分かりやすい。個人の持つ容姿なら、恋をする理由にもなろう。「みかね」は一番新しいというのも、「直香」だけで確実と言うほどでもない。ただし坂本氏は。2点目があるというから、それを見よう。
…その雨の 間なきが如く その雪の 時じきが如 間も落ちず 吾はそ恋ふる 妹が正香に
の「間も落ちず」について、沢瀉が本来不要の句だといったのを引用したうえで、それを万葉の表現として落ち着かないとする。そして用例を点検していく(このあたりは坂本氏の独擅場の感がある)。
「絶える時なくしょっちゅう」というときは万葉人は「間ナシ」という、つまり「間も落ちず」とは言わない、という。「落つ」という時は、夜とか日とか、一定の範囲を持った限られた時間に言うのであって、「間」(つまり数えようのない時間)とは言わない、という。なぜそういう変な言い方をしたかというと、天武歌の「隈も落ちず」を言い換えたからそうなったのだと、井上新考を参照して言う。そして沢瀉のいうように、天武歌から「みかね」が出来たのだという。これも「直香」の場合と同じで、特にそれだけで、後だ先だというには、根拠が不十分だと思える。「隈も落ちず」にしても、だれかが批判していたが、隈だけを洩らすことなくというのも変な話で、道中(隈であろうと無かろうと)ずっと思い続けるはずである。つまり「てづつな表現」というなら、どっちもどっちで、「みかね」が先で、天武がそれを改変したといえなくもない。だから、万葉集では「間も落ちず」という言い方は、「みかね」以外に一例もない、といっても、だから天武より後だ(変なのは天武のを応用したからだ)とは言い切れない。ただし、これが天武より後だろうとは言える。それは、西郷、阪下氏などが言ったように、「みかね」という地名の新しさからであろう。
「おはりだ」のような「間無く時無し」型の恋の歌からは、天武歌のような「隈も落ちず」という表現は出てこないから、万葉の旅行きの歌に多い「隈…」の表現を取り入れたもので、要するに、天武の歌は、「をはりだ」の歌と、Xとしての「旅行きの歌」との合成だという。ところでXのほうも恋の歌だというのだが、氏の引用されたものにそういうのはない。ただ故郷などを遠くから振り返る表現しかない。だとすると、天武の歌は、恋の表現の型(「をはりだ」の間無く時無し)と、Xとしての旅行きの型との合成だというのだが、そんな焦点のぼけた歌があるだろうか。表現として変だ、用例がない、ということで、そんな恋の歌はないというので、Xを持ち出すというのがおかしいのである。恋の歌でも旅の歌でも、その合成でも、表現の型に依拠する以上に、天武の実体験として隈の多い山道を歩いたから、そう言ったまでだと考えることが優先されるべきだ。「をはりだ」の歌から、天武の歌が生まれるのに、用例や万葉人の表現の型などは必ずしも必要でなく、天武の実体験と表現力が有れば可能だと思うのである。
そのあと、思いの内容について、ずいぶん長く書かれている。天武の壬申の乱の時の憂悶を詠んだもので、その時の通過した山道では、雨や雪が降っていただろうというのである。ただし、結論的に雪が降っていただろうとするのだが、雨のことは何も触れない。こういうところにも、ちょっとした論点のすり替えがあり、要注意である。その結論の前に、土橋氏の言う喚情的言語であって、実際に雪や雨は降っていなくともよい、といっている。これも、実際は降っていただろうという結論と矛盾する。どっちでもよいというのでは、ただの逃げである。また、奈良気象台の話まで引用して、天武の行った11月下旬には雪が降ることもあるというが、奈良盆地南部では(大和南部ではない)、きわめて珍しいことであり、間無く時無しに雨や雪が降るというものではない。こういう点にも論証の不十分さが有る(要するに奈良県の地理や風土を知悉していない)。
つづいて、「をはりだ」の地名考証が長く書かれるが、省略する。そして、C(をはりだ)に旅行きのXの型式を取り込み、綿々たる思いに山道を辿る内容の歌に形成していった(二五番)というのである。そしてそのあとに、二六番→D(みかね)となるというわけである。
ここでも、なぜ、山道をたどる憂悶の歌に、相聞の型のCをもってくるのかがわからないし、それと旅行きの歌とを合成しなければならないのか分からない。そんなノリとハサミで作ったような歌に價値があるのだろうか。
最後に、天武の実体験といっても、専門詞人の介在したものだとか、詩経の影響とかいうところも、長く書かれているが、省略する。
相聞歌謡の歌い変えではなく、天武の実体験を回想した内容のものだというが、おおかた、「をはりだ」の雰囲気を持つ歌で、ちょっと「隈も落ちず」という旅行きの句を添えたものが、どうして専門詞人による高度な作品となるのか、理解できない。
つまり、天武の実体験(山越え)というものが、実地の地理や風土をふまえた理解になっていないからである。以前から言っているように、今までの諸論はおおかた地理風土の研究が不十分なので、根本的に誤解している、坂本氏もその轍を踏んでいる。順序という点では、坂本氏のは沢瀉説のバリエーションだが、私はもとの沢瀉説で十分だと思う。そして、ノリとハサミで出来たようなものではなく(つまりXは不要)、沢瀉説のように、「をはりだ」の歌から、直接、天武の二五番になり、天武の自作だとするのが、妥当だと思う。
四首の類歌の順序が分かっても、肝心の天武の歌を誤解していては何にもならないと思うのである。