2280、耳我嶺考(継続中)

2280、
香具山とくれば、大和三山の残り二つも興味が湧く。国風だと言ったが、具体的にはどうだろうか。
畝火(うねび)之山・乃山(29、52、207)
雲根火(うねび)音訓訓(13)
とあって、香具山のような音のみというのがなく、かわりに音訓混用がある。どちらにも「火」が語末にあるのが、意味ありげだが、よくわからない。瀬戸内火山帯の名残といわれ、その石に香具山、耳成山とは違う特徴があるが、木に覆われた山では、なかなかそんな石に気付くことはなく、そういう古い死火山の石から、火の山を連想するとも思えない。祭りの時、夜、松明を持って登ったりもしたようだが、古代からそんな民俗があったとしてても、それが山の名の由来になるとも思えない。畝火の畝は、山の形からきたもののようだ。南から見るとよく分かるが、稜線がうねっている(鞍部がある、極めてゆるい二上山型)。ただしそれを現実の「畝」と見たとは限らない。結局「火」の意味が分からないが、当時、何か「火」に関して知られたことがあったのかも知れない。平野部に特立した目立つ山だから、烽火台があったとか。明日香ではあちこちに烽火の施設があったようだが、残念ながら、あっておかしくない、畝傍山にあったという証拠はない。「うねび」というとき、畝も火も当て字だろうが、火のイメージも重ねられる。
畝火も奇妙な表記だが、雲根火はもっと奇妙だ。音訓訓という当て字も奇妙だが、そこまでして、「雲」「根」「火」のイメージを重ねたかったのか。それになぜ「雲」と「根」なのか。
山田講義、例によって三山の性別を論じるが、表記については一切触れず。和歌文学大系、釋注、新編全集、新大系、全歌講義、も同じ。今までも三山歌の注釈はいろいろ見てきたが、「雲根火」の表記について触れたものは皆無だったと思うのでこれぐらいにしておく。
ところで「雲根」が「うね」の仮名表記であることはいいとして、「うんこん」という漢語のイメージにもつながる。普通「雲根」といえば、山の石のことだが、雲の湧くような高い山という意味もある。「漢典」では、宋孝武帝の「登作楽山詩」の句を引用している。出典はかかれていないが、これも、万葉に多いように「藝文類聚」にある(宋孝武帝の引用は多い)。巻第七山部上の「總載山」にあり、「… 屯烟攘風穴 積水漏雲根 …」とある。畝傍山は近くから見ると、香具山、耳成山と違って、かなり高く見えるので、漢詩の「雲根(うんこん)」のイメ-ジを重ねたと見ることは十分可能だろう。
ところで、畝傍山と雲といえば、古事記歌謡もよく知られている。古代歌謡全註釈 古事記編 土橋寛、角川書店、466頁、1972.1.20、から引用する。

七、当芸志美美命の謀叛 〔20~21〕
故《かれ》、天皇《すめらみこと》崩《かむあが》りまして後に、其の庶兄《まませ》当芸志美美《たぎしみみ》命其の嫡后《おほきさき》伊須気余理比亮《いすけよりひめ》を娶《よば》ひし時、其の三《みはしら》の弟《おとみこ》を殺《し》せむとして謀《はか》れる間《ひま》に、其の御祖《みおや》伊須気余理比売|患苦《うれひ》まして、歌を以《も》ちて其の御子等《たち》に知らしめたまひき。その歌《みうた》は、
20 狭井川《さゐがは》よ 雲《くも》立《た》ち渡《わた》り、
 畝火山《うねびやま》 木《こ》の葉《は》さやぎぬ。 風《かぜ》吹《ふ》かむとす。
 佐韋賀波用 久毛多知和多理
 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
21 畝火山《うねびやま》 昼《ひる》は雲《くも》とゐ、
 夕《ゆふ》されば 風《かぜ》吹《ふ》かむとそ、木《こ》の葉《は》さやげる。
 宇泥備夜麻 比流波久毛登韋
 由布佐礼婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流
これについて、土橋氏は、物語歌としての背景ばかり詳説されていて、自然現象としての畝傍山の気象については全く触れていない。どうでもいいことかも知れないが、あの低い山に雲がかかるということは、なかなか実感できないだろうと思う。私のように、畝傍山の近くで生まれ、そこに住みつづけ、ほとんど住宅もビルも道路もなく、どこからでも大和平野南部の大きな景観を見ることが出来た時代を知っており、また野外にいる時間も長かったものからすると、この歌謡も実感として理解できる。物語歌であるのはいいとして、歌われている自然は事実を背景にしている。狭井川、つまり三輪山方面から強風が吹き付けるというのは、東風である。大和平野南部では東風が吹くと雨が降る。しかも真っ黒な雲が三輪山方面に湧き上がるのなら、やがて凄まじい雷混じりの突風が吹く。そう言う時は、21のように、昼間から畝傍山に雲がかかる時もある。標高200メートルもない山にかかるのだから、低層雲だが、これは雷雨の前ぶれだ。夕方(午後遅く)になると、凄まじい雷雨になる。天智天皇はそういう大和平野南部の気象も、またこの古事記の歌謡もよく知っていて、大和三山歌(13、14)で、「雲根火」と表記した可能性もある。六朝詩の「雲根」、古事記歌謡の「畝傍山の雲」という二つのイメージを重層させたのであろう。三山歌では、耳成山について「耳梨」というふうに「梨」の字を使っている。「梨」は、記紀万葉共に「木梨軽皇子」というよく知られた人物がおり、また、書紀では耳梨行宮(推古紀)があり、梨の字の付く人名も、吉備臣小梨、耳梨道徳があり、果樹として、梨を植えよといった記事(持統紀)もあり、音仮名としても10例近くあって、そう珍しいものではない。万葉集では、前述の人名以外に、果樹名として数例、また、借訓の「無し」で、かなり使われいる。いずれにせよ、三山歌で「梨」の字に、地名としての用字以上のイメージを重ねたことはないようだ。結局、畝傍山漢籍の影響があり、耳成山は国風だったとなる。