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2265、
前回の修正。
前回
山邊は当時、だいたいヤマノベと読まれたようで、ヤマベと読まれる恐れはなかっただろう。
修正後
山邊は当時、地名の時は、だいたいヤマノベと読まれたようで(2例しかないが)、ヤマベと読まれる恐れはなかっただろう。ただし地名でないのが大変多く、そのばあいおおかた「ヤマベ」と読まれる(音数の関係でヤマノベとよむのが一例あるが)。

巻2のノの読み添え。
大嶋嶺(91)、将見圓山(94)、住吉(121)、打歌山(139)、鏡山(155)、嶋宮(170、171、172、179)、檀岡(182)、木上宮(199)、羽易山(213)、引出山(215)、讃岐國(220)
以上、14例。巻1の7例の倍になっている。長い長歌が増えたからだろうか。ノを表記するのも調べないと巻1との比較にはならないが。それにしても、淡海国、大津宮、泊瀬山、住吉、山邊など、地名としてかなり知られたもの(山邊は和名抄に多くある地名だが、すべてヤマノベであって、ヤマベはない)、またノが無くては言葉にならないようなもの(アフミクニ、オホツミヤ(1)、スミエでは地名にならない、ただし、ハツセノヤマはハツセヤマ(282番)とも読まれる)が多いが、巻2はどうだろうか。嶋宮が多いが、これは大津宮とおなじで、シマミヤでは言葉にならず、だれもがシマノミヤと読むだろうから、無表記(読み添え)でいい。それは、木上宮にも言える。この場合、木上も、キノヘであって、キヘやキウヘとは普通は読まない。木下をだれもが、キノシタと読んで、キシタとは読まないようなもの。讃岐国は淡海国と同じ。これら以外は、そんなに有名な地名でもなく、変な表記のもある(将見圓山)が、ノは無表記だ。
(1)~ミヤでは地名にならないといったが、それは、一宮、二宮、三宮、四宮などが、それぞれ、イチノミヤ、ニノミヤ、サンノミヤ、シノミヤと読まれるのでも分かる。ただし、西宮でニシミヤと読む学者もおられた。こういうのは、竹内(タケウチ、タケノウチ)、池内(イケウチ、イケノウチ)、山内(ヤマウチ、ヤマノウチ)、中坊(ナカボウ、ナカノボウ)、などなど、地名人名には例が多い。
補足、2263で、万葉集に地名が多いことを巻一の例で論じ、それは、古今集新古今集と比べたとき、万葉集の個性とも言ったが、高木市之助がうまいことをいっているので紹介する。
〔24番麻続王の歌を論じて〕およそこのように現実を直視する、謂わば写実的態度は、万葉歌人には勿論、一般に日本の和歌人に共通に見受けられる態度ではなく、むしろ至って稀有に属する出来事であるが、吾々は之を万葉にとって例外的に考え、その本質から除去することには問題があるのではないか。なぜならそこにこそ、万葉的な、或いは広く和歌的な通性から解放されて、詩の本質そのものへの可能性が認められ、この可能性を含みこめてはじめて万葉の本質が確立されなくてはならないからである。
有精堂、萬葉集講座、第一巻 成立と影響、所収「万葉集の本質」、高木市之助、1973年11月。のち講談社から出た全集第二巻(1976年7月)に収録。
この写実的な態度というのが、地名の多さ(歌枕ではない)と関連するのではないか。氏も言うように、それは万葉集のごく一部だが、それがあるからこそ万葉集なのであって、つまり本質だと言うことだろう。