2254

2254、
声と文字 上代文学へのアプローチ、稲岡耕二編、塙書房、1999.11.28
から、次の二篇を読んだ。
民族の声
     ――<口誦文学>の一面――    品田 悦一
<声>と<文字>のあいだ
    ――オングのテキストの批判的読解(1)を通じて―― 西澤一光
品田氏のは、半分近く「万葉集の発明」2001年に収録されている。残り半分ほどが、口誦文学という用語がいつ誰によって、どういう意味で使われたかという事を主な論題として、柳田国男折口信夫久松潜一、高木市之助、金田一京助、風巻景次郎などの論考を引き合いに出して論じられる。文字以前の未開の幼稚なものという見方が、外国の研究成果の影響か、アイヌユーカラなどのように、音楽や舞踊などを伴う文学的な価値のあるもの(金田一)という論も出て、口誦にも文学的な価値が認められるようになったという。柳田などを引用するように、多くは民俗的であり、また民族的(国粋的)でもあった。しかしこれだけでは、万葉集の中の歌謡的なものの性格を知るには至らない。

(久松からの引用)これに反して万葉集の如きは集団的な民謡もあるけれども、多くは個人的に作られたものである。……前者(記紀風土記等の神話、伝説、説話)を流れて居るものは民族的〔集団的〕国家的精神であり、後者を流れて居るものは個人的精神であると思ふ。(「大和時代文学概説」初出新潮社『日本文学講座』1・一九二六-七年。以上、引用は前掲書に拠り、初出との異同を〔 〕内に示した)
 高木は、「民謡」の属性として社会性・歌謡性・素朴性を挙げた上で、歌謡性とは「聴く文学」としての特殊性を意味すると説く(前掲書六三ページ)。武田もまた、消極的にではあるが「声の文学」の語を用いる(『上代日本文学史』二五ページ)。

これらから、久松の穏健な説、高木の定義の的確な事が判るのが取り柄。

西澤氏のは、題にオングとあるように、欧米の研究を主な論点としたもので、特にデリダなどの現象学的、テキスト論的、記号論的な議論が多く、私などのようなものには難解だ。中で、稲岡耕二氏の「後期稲岡説」オングの学説の影響による、人麻呂歌集の文字化の論議は、興味深い(私も稲岡氏のその議論はたくさん読んだから)。

 この点(人麻呂歌集の文字化)につき、まず予備的な指摘をしておきたい。前記放送大学教材では、「声の文化」についての一般的な概観が1章および13章において与えられており、その中で注意されるのは次の二点である。
 1 巻一、巻二に収録されているような初期万葉歌は、「もともと音楽や演劇的な身ぶり等も伴って口頭で歌い伝えられていた作品」であったとされている点。
 2 稲岡学説におけるオングの引用は、声の文化における「共有的な一体化」について述べた部分に、とくに絞られるという点。
 つまり、「声」の<うた>とは、音楽や演劇的身振りと分かちがたい状態にある言葉であり、その分直接的に聴衆をとらえる力をもった言葉であった。それは、それ自身の生命を宿した具体的な言葉であつて、歌い手も聴衆も一体となるような中でこそ力強い息吹を得るものだった。一座の人々の身体が<うた>に乗り移られて共振しあうということさえあり得たであろう。
 人麻呂歌集の書き手は、明らかに、このような一体化した陶酔状態を知っていた(この間題には終節で戻ろう)。そこでは、<うた>における情動的なものは、すべて共感の世界に根を張っているのだつた。『人麻呂の表現世界』の分析が示すように、人麻呂歌集の書き手は、明らかに<うた>がうたわれる具体的場面を思い描きながら書いているのであって、そこには歌い手も聴衆も含まれていた。

このあたりが一番参考になった。とはいうものの、共感の世界とか共有的な一体化といったことは、神野志氏などの論説もあって、もはや常識に近いかも知れない。それよりも、1の初期万葉は口頭で歌い伝えられたというのが気になる。それだと坂本氏のいうように、天武の25番歌も、「もともと音楽や演劇的な身ぶり等も伴って口頭で歌い伝えられていた作品」、あるいは、もともとではなく、25番歌そのものが、集団で朗誦されたとでも言う事になるのだろうか。とにかく、初期万葉の歌謡性ということについてはまだまだ未解明の部分が多い。