1909、
この4首のうち題詞のあるのを見ると、題詞に惑わされる感じもある。長屋王が奈良山で馬をとめてとあると、普通は、佐保を出発して奈良山の峠で、となる。草香山とあれば、難波を出立して草香山で一服してとなる。しかし、歌の内容と必ずしも一致してもいないから、編集者が勝手に付けた題詞と見るべきだろう。
次に、地名が続くという特徴がある。
佐保→奈良の手向け
(忍照)難波→草香の山
(緑丹吉)奈良山→宇治川 逢坂山 近江の海
(王之 御命恐 秋津嶋)大和→大伴の御津の浜辺 筑紫の山
このような型は、ほかにもある。
淡路を過ぎ粟島を(509)、足代過ぎて糸鹿(1212)、大滝を過ぎて夏身に(1737)、奈良山過ぎて泉川清き河原に(3957)
このうち509、3957は長歌の途中であるが、1212、1737は冒頭である。ただし通過点であることが明らかなので(奈良から紀伊や吉野に向かったもの)出さなかったもので、509、3957も通過点であることが明らかである。それはともかく、1212、1737も含めて、隣接した有名な地名という共通点がある。そういう旅の歌の一種の型とでも言える。佐保の場合は、平城京を出発して、すぐに奈良の手向けを持ち出すのでなく、通過点の佐保という著名な地名をだすことで、奈良の手向けへの流動感(移動感)を表すようだ。難波の場合は、瀬戸内海から大和に向かって船旅をしたものが、草香山の印象に残る風景をすぐに詠まず、通過点の難波という著名な地名を出すことで、旅の途上という印象を強めている。三つ目は、明らかな道行きで、平城京をでて近江まで行くのなら、まず奈良山は重要な通過点で(国境)、次は木津川を渡るのだが、これはあまり有名ではないし、そこまで言うと細かすぎる。となると次は宇治川が著名である。四つ目は、大君の命畏み、が余計だが、東の方から旅してきたものが一応の目的地である、大伴の御津を詠む前に、著名な地名である大和を詠んで、移動感を出したと言うことであろう。あの有名な大和も素通りして難波の港に着いた、と言った感じである。
追記、大君の命…、で、誰でも想起すると思われるのが、
    田口益人大夫任上野國司時至駿河淨見埼作歌二首
297晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
昼見れど飽かぬ田子の浦大君の命畏み夜見つるかも
である。清見の崎から日が暮れたあとの田子の浦を見て残念がったもので、一泊すれば名勝がよく見られたというもの。大和を通過して大伴の御津へと急いだのとよく似た状況。