1903、
佐保過ぎて、難波を過ぎて、大和を過ぎて、の3つについて、同じ表現形式なのに、いろいろ説が分かれるのを見た(中には、一つの注釈書の中で説が分かれるのもあった)。残りの、「過ぎ」の用例を見る。
松原を今日か過ぎなむ(1674)、杏人の浜を過ぐれば(1689)、安曇の港を漕ぎ過ぎて(1734)、大滝を過ぎて夏身に(1737)、海境を過ぎて漕ぎ行くに(1740)、行く舟の過ぎて來べしや(1998)、和射見の嶺行き過ぎて(2348)、我家の門を過ぎて行くらむ(2401)、妹が門行き過ぎかねつ(2685)、妹が門行き過ぎかねて(3056)、
越の大山行き過ぎて(3153)、鳥網張る坂手を過ぎ(3230)、あをによし奈良山過ぎて(3237)、我が過ぎ行けばいや遠に里離り來ぬ(3240)、橘のほつ枝を過ぎて(3307)、(3333)、霞居過ぎかてに(3388)、行き過ぎかてぬ妹が家のあたり(3423)、玉藻刈る処女を過ぎて(3606)、外のみに見つつ過ぎ行き(3627)、奈良山過ぎて泉川清き河原に(3957)、佐保の内の里を行き過ぎ(3957)、松田江の長浜過ぎて(3991)、羨しきに見つつ過ぎ行き(3993)、氷見の江過ぎて(4011)、我が門ゆ鳴き過ぎ渡る(4176)、八十島過ぎて(4349)、山を越え過ぎ(4398)、我が門過ぎじ(4463)
まとめは明日。