1904、
昨日の例の中で、「行き過ぎ」「越え過ぎ」はあきらかに通過の意味なのでそれを除く。ただし
佐保の内の里を行き過ぎ(3957)
はすこし検討を要する。次に、「過ぎ(て)行(来)」には、通過する意味と思われるのがある。
我家の門を過ぎて行くらむ(2401)、外のみに見つつ過ぎ行き(3627)、羨しきに見つつ過ぎ行き(3993)
残るもので、船旅の途中と思われるもの、道行き風に、地名を並べて、~を過ぎ、とあるもの、は、明らかに、通過の意味である。
杏人の浜を過ぐれば(1689)、安曇の港を漕ぎ過ぎて(1734)、大滝を過ぎて夏身に(1737)、鳥網張る坂手を過ぎ(3230)、玉藻刈る処女を過ぎて(3606)、松田江の長浜過ぎて(3991)、氷見の江過ぎて(4011)、八十島過ぎて(4349)
あをによし奈良山過ぎて(3237)、奈良山過ぎて泉川清き河原に(3957)、派遣等を要する。
残る以下のものと、検討を要するとしたものを、古典全集の訳等で点検する。
松原を今日か過ぎなむ(1674)、海境を過ぎて漕ぎ行くに(1740)、行く舟の過ぎて來べしや(1998)、我が過ぎ行けばいや遠に里離り來ぬ(3240)、橘のほつ枝を過ぎて(3307)、霞居過ぎかてに(3388)、我が門ゆ鳴き過ぎ渡る(4176)、我が門過ぎじ(4463)