2324、わざみ7

2324、わざみ7
金沢氏は森朝男氏の露文も簡単ながら引用していた(セミナーの前掲論文)。

叢刊・日本の文学6 古代文学と時間 森朝男、新典社、1989.9.30.
天降る大王――高市皇子殯宮挽歌の叙事構造

イ、人麿のこの画期的な、天武天皇の神話化・聖化のロジックにはあったのである。いわばこれは反歴史的態度だともいえる。系譜的な日継の歴史性を捨象して、いきなり身近な時代の特定天皇を神代に結合させたものともいえるからである。

ロ、あたかも天武天皇の在位治世中に、「天の下申し賜」う執政官の長(太政大臣)として、高市皇子を描き出そうとしている。これは事実に合わないが、もともと壬申の戦闘部分においても、「壬申紀」の伝えるところを事実とすれば、この挽歌の表現は、はじめから事実になど合ってはいないのである。この歌の文脈をなるべく「壬申紀」的事実に即応させて解釈しようとする注釈の姿勢は多く見られるが、ひどく空しさを感じさせる場合がある。一方逆にそこに人麿の史実との緊張関係を保った虚構を見ようとする論もあるが(5)、それがどのような種類の虚構であり、どのような構造を持った虚構であるかは、いまなお十分に論じられていず、本章のささやかな企図は、その不満に端を発している。
(5) 伊藤博注(1)前掲論文。阿蘇瑞枝「壬申の乱の周辺」(雄山閣刊『万葉の虚構』

ハ、天武・高市壬申の乱を、初代の支配者の天降りの後の国土平定の戦闘に見立て、神話化するという操作の中で、高市は、天皇を補佐する実質政務担当の長としてその縁起を説かれ、運命づけられるのである。この歌の壬申の乱の叙述は、文脈の中で縁起譚的意義を担う、明らかな<神話>なのであった。

金沢氏が引用したのはロの終わり方にある。虚構と言っても、具体的には、高市が天武の時に太政大臣になったという虚構(言うまでもなく、持統の時代である)を指摘するだけで、地理的な虚構については、初めから事実に合っていないということですます。注の阿蘇氏の論は、読んだが記録していないし、何も覚えていない。伊藤氏のは次回に読む。しかし、その虚構の掘り下げが不十分だという意見は賛成だ。だから、「わざみ」と題して長々と調べている。イ、ハ、要するに、高市挽歌の前半は「明らかな<神話>なの」だということで、それは叙事構造から分かるというのだ。こういうことが、榎本氏の最近の論文で否定されていくわけだ。なおついでにいうと、この前半について、叙事的、叙事性と、森氏は言うが、恐らく、高木、西郷などの英雄叙事詩を念頭に置いているのだろう。しかし、大岡昇平叙事詩的錯誤について」、全集16評論Ⅲ、筑摩書房、1996.5.24、所収、のいうように、西洋でいうエピックなどというのは、曖昧な概念の術語であって、安易に、柿本人麻呂長歌などに援用することはできない。挽歌的な抒情の後半にいたるまでの、伝承とか故人の行跡とかいった程度のもので、抒情に対する叙事といったたいそうなものではないと言うことである。だからか、最近はあまり叙事と言うことを言わない。

伊藤博、「人麻呂の表現と史実」、萬葉集歌人と作品 上 古代和歌史研究3、塙書房、1975.4.10、所収、初出、万葉二三号、1957.4

イ、二句「天下所知食世者」と「天下申賜者」をめぐる表現と史実との関係については、なお疑いの存する点やはっきりされていない面が少なからずある。もとより、文芸の表現は史実を基準にしその立場だけから解かれるべきではないが、それと史実とのあいだに矛盾するものや不明瞭な点が見出されたばあいは、その関係を追究してみる労力を惜しんではならないであろう。

ロ、「定めてし瑞穂の国を神ながら太しきまして〔神な~傍点〕」のなかに持統天皇の時代を集約してしまったのであって(新考以下)、史実にもとりつつ史実を含むという凝縮をこらしたということなのである。この一種虚構的な集約的表現によって、高市皇子の面目はより輝かしい光芒を放つと考えられるのだが、虚構にも似た集約的表現といっても、今のばあい、持統天皇自身壬申の乱に参加しており、その御代は壬申の乱によって開けた時代であり、高木市之助氏(吉野の鮎)によれば、人麻呂たちの「わが大君」という表現の背後には、その真の主として天武天皇という偉大な映像が存していたと思われるような時代であったことを思うべきである。すなわち、その集約はウソではけっしてなかったのである。

高市皇子挽歌の主語の議論については、これなどは、初出が1957年だから、相当に古い。人麻呂の表現には史実と一致しない所があるという議論も伊藤のは古いが、ここで早くも、副題にあるように、日並皇子挽歌との違いから、高市皇子と天武との主語の曖昧さを論じ、それを虚構的な集約表現とみなす。こういう議論も以降受け継がれていくわけで、そしてここで、高市皇子の戦闘場面の虚構や不破山越え、和※[斬/足]行宮などの地理的な矛盾、などが全く触れられないのも、大方以下の議論に引き継がれる。それにしても、高市と天武の集約とか、以下の議論にあった、重層とか、既に少し触れたが、分かりにくいことである。天武でもあり、高市でもあるなどというのは、普通は考えられないことである。だから、ロにある「史実にもとりつつ史実を含むという凝縮をこらしたということなのである。」というのもわかりにくい。要するに榎本氏の言われるように、演出であり、そこに歴史性はあっても、そういう歴史に見せかけた表現であって、史実に反しながら史実を含むなどという分けの分からないものではないだろう。だいたい伊藤博という人は、弁解が多く、それでいてしつこくねばるという、どうも食えない人で、読んでいていい気分ではない。引用はしなかったが、人麻呂のこの高市挽歌は、歴史的な限界はあるものの傑作だという。茂吉の言ったのと同じことを言っている(恐らく茂吉の受け売りだろう)。しかしありもしないことをでっちあげて、ほめ、それをうけて大げさに哀悼する、というようなものが、なぜ傑作なのか。白鳳の盛期に昂揚した人麻呂の精神とかなんとかいうが、白鳳の盛期などという伊藤博の認識じたいが限界なのではないか。盛期でもなんでもない。中央集権的天皇独裁体制の強化に過ぎないではないか。

清水克彦、萬葉論序説、櫻楓社、1987.1.25、「人麻呂長歌の位置――口誦歌と記載歌――」

イ、ここでは高市皇子によって戦われた乱――すなわち焦点を高市皇子に置いた戦乱としてではなく、むしろ高市皇子から遊離した、戦乱一般としての叙述がなされている。この事は、この部分に、皇子に対する敬語が全くないという事によっても了解されよう。この部分は一首の中で前提部を占めるに過ぎないのであるが、高市皇子をいたむという一首の主眼から遊離しており、しかも一首の中で非常に多くの部分を占めている為に、土屋氏の言われたように煩瑣な感を与え、また、構成の面から言っても、一部分が不当に膨脹したものとも見られる。土屋氏が『総釈』において、「人麿の傑作とはいへないかも知れぬが」と述べて居られるのも、このような理由によるのであろうか。

ロ、口頭語は同じ内容を幾度か反復する事によって、はじめて反復のない記載言語と同様の効果を挙げうるのであり、口頭語における反復強調は、口頭語をそのまま記載したものを読む場合に感ずるような煩瑣の感を与えるものではない。壬申の乱における高市皇子の奮闘を聞き手に印象づける為には、これだけの語句を必要としたと考えるべきではあるまいか。
 長い前提部に切れ目がなく、しかもそれが曲線的であって、意味の把握が困難である事を先に述べたが、この部分の意味が論理的に把捉される事は、実は作者自身要求していなかったのではないだろうか。それはこの部分が前提部であり、修飾語になっている事によって推定される。かかる文章は意味を論理的に把握する事を困難にするが、むしろその事の故に、論理的な意味に濁される事なく、純粋に情緒として印象づけられうる。しかも、この長歌の享受者たちに無用な論理的把握を断念させる為には、読ませるよりは聞かせるという方法の方が有効ではなかったろうか。

ハ、発表するしないにかかわらず、人麻呂においては、歌とはすなわち口頭で発表すべきものであったのではなかろうか。

ニ、人麻呂の長歌は、口誦歌から記載歌の派生する過渡期の作品としてふさわしい実体を持つものである。

柿本人麻呂の作風――丈夫の文学――」

ホ、人麻呂の公的な内容の長歌においては、主として宮廷讃美の精神が歌われていたが、人麻呂はその讃美の感情を、天皇や皇子の人間的に優れた言動を通してではなく、天皇や皇子に、天皇家の輝かしい神話や歴史を覆いかぶせ、これを「神」として把握する事によって述べた。従って、その叙述はすこぶる非人間的である。かかる長歌の中にも、言語や、リズムの美しさを感じさせる部分が随所にあるにもかかわらず、これらの歌がわれわれに与える感銘度が非常に薄いのも、その内容が、以上に述べたごとく、すこぶる非人間的であるという点に原因があるのだと思う。非人間的な叙述は、人間にとって空しいのである。

「わざみ」にはあまり関係ないのに、非常に長い引用になったのは、この人は万葉学者には珍しく、論理的に明快な魅力ある文章を書くので、原文で読む方が役立つからだ。
なぜ、書紀の記述に対して矛盾があるか、それは、作者が意図的に非論理的に詠んだのであり、口誦だから出来た表現法だという。前置きだから情緒が分かればいいと言うことだが、本体の部分も死者を悼む情緒そのものだから、結局長い歌でも、情緒だけで味わうように詠まれているということになるが、それでは文学としての中身が長さに釣り合わない。だから傑作ではないということだろう。
さらに二つ目の論文で、感銘の薄い長歌だと断定している。如是閑の職業詩人説からの新たな展開と言えよう。なお非人間的で感銘が薄いということでは、文選の誄との比較が有効だ。文選の誄では、あくまでも人間に即して現実的にことこまかく、詳しく描写する。

品田悦一、古代における天皇神格化の真相 文武天皇即位宣命をめぐって、萬葉集研究第39集、2019.11.25、所収。
ずいぶん長い論文だが、最後に簡潔の要約してあるので、そこを引用すれば済む。

改めて言おう。七世紀後半から八世紀にかけて構築された神聖王権のイデオロギーは、天皇が天神の子孫であることや、祖先の神と祭祀によって交通し、神意を体現しつつ統治することをもって正統性の根拠とするものであって、天皇自身が神であること(天皇即神)を主張するものではなかった。『古事記』『日本書紀』には、天皇が神意に導かれて神さながらの振舞いをなす場面はあっても、本性が神であるとの記述は一切見られない。『万葉集』にはそれが見られるかのように長らく考えられてきたが、これも誤りである(30)。
 天皇即神の装いは、史上初めて少年天皇となる軽皇子の将来を危ぶんだ持統天皇と、律令国家の天皇に実権は要らないと考えていた藤原不比等と、この二人の思惑が交錯したところで慌ただしく上乗せされた構想だったと考えられる。この装いは、後々の天皇にも適用されていったが、長期にわたって徐々に編み上げられた記・紀神話のような体系性を備えてはいなかったし、だからこそ、天皇が敬虔な仏教徒となる八世紀中葉には早くも形骸化を余儀なくされたのであった。

これは、ほぼ、折口信夫が言ったのと同じで、「神ながら」の語義と、神野志説の検討と、宣命の解釈とを、詳細に行って、折口説をはるかに超える確論としたものだ。折口説は、きちんと紹介されているが、まずその部分を引用する。

壬申の乱に勝利して強大な権力を手にした天武天皇が、非常に崇められたあげくに神とまで遇されたというわけだ。この見方は日本史学界では長く通説でありつづけたが(6)、国文学界では早くから折口信夫天皇即神観の存在を否認し(7)、その一環として「大君は神にしませば」は天皇を神格化する表現ではないと説いていた。

主要参考文献に、
折口信夫「宮廷生活の幻想」初出一九四七年七月、折口信夫全集第20巻。
注に、
(6) たとえば吉村一九九八は、北山書より四五年後の時点で①の二首に言及し、「壬申の乱を戦い抜いて勝利した天武天皇から神格化が始まったことを確認したい」と述べた。
(7) 折口は戦前からこの見地に立っていた。西村亨編『折口信夫事典』(増補版一九九八年、大修館書店)の「天皇霊」の項(津田博幸執筆)を参照のこと。

「神ながら」の語義と、宣命の解釈は、論の中心をなしており、紹介したいが、長くなるので略す。最近の榎本氏の論(2014.10.20)まで、高市皇子挽歌の天武の部分などは、天皇即神観によるものとされているようだが、2019.11.25のこの品田氏の論文は、榎本、金沢、村田氏などのことは一言も言わない。直接、高市皇子殯宮挽歌を論じていないからだろうか。逆に榎本氏は、2019年のは無理としても、2014年以前にも品田氏のよく似た論文は出ているのだが、一言も触れていない。高市挽歌、日並挽歌論には関係ないというのだろうか、あるいは論が拡散するのを避けたのだろうか。それにしても、折口説の紹介ぐらいはあってもよかった。

 

2323、わざみ6

2323、わざみ6
金沢英之氏は、前に引用したように、
……文脈が、美濃から伊勢方面へ山越えがなされたと解し得て、紀に記すところの天武の行程と逆になることから、…高市の行程と合致しており天武と高市を二重化した表現ととる説(橋本達雄「殯宮挽歌」『万葉宮廷歌人の研究』笠間書院、昭50、初出昭43)などが唱えられてきた。…森朝男「天降る大王」(『古代文学と時間』新典社、平1、初出昭53)のいうように、この歌の表現は「はじめから事実になど合ってはいない」のであり、虚構という手だてによって天武の存在を神格化し、同時に壬申の乱を神話化するところにこそ歌の本質を見るべきである。
と言われていて、橋本氏が、高市皇子が美濃から伊勢へ越えたように言っていることを紹介された。それで、地理を無視した荒唐無稽な説だと言った。しかしここは橋本氏の説を直接見るべきだから、見た。

万葉宮廷歌人の研究、橋本達雄、笠間書院、1975.2.25

イ、書紀の記述に忠実に考えると、近江から脱出して不破山を越え、天武天皇の軍に合流したのは高市皇子であり、また和※[斬/足]に陣を敷いて近江軍を迎え撃ったのも、ほかならぬこの高市皇子であった。
ロ、この地名にそって展開してゆく人麻呂の想像は、その地を知らぬ人とは思えぬほど的確である(あるいは曽遊の地であったとも思われるが、その確証はない)。このような人麻呂が、天武の行動として不破山を越えさせ、かつ和※[斬/足]に行宮があったとするような事実の誤りをおかすとは思われない。また、事実を正確に記述しようと思えば、いくらでもそれを知る手掛りはあったであろう。壬申の功臣たちもまだ生存していた者が多くいたはずで、事実近親者柿本※[獣偏+爰]もその中の一人と考えられる。にもかかわらずこのような叙述をしているのは、やはり意識的にやったのであり、文脈上は天武でありながら、事実は高市の行動に即させ、ここに二人の映像を重層せしめようとした意図を読みとることができるのである。
ハ、このように見てくると、従来の諸注が、天武であるか日並、または高市であるかと論を重ねてきたことは、あまり意味をもたないということになる。私見によれば、どちらも当っていたことになり、どちらも不十分だということである。すなわち、問題となる部分に天武の映像と皇子の映像とを重層ないしは交錯させたところに、この歌の特色を読みとるべきであるということになる。
ニ、神話的思考においては、代々の天子は同時にニニギノ命であったし、したがってまた祖霊の生ける化身、世襲カリスマの受肉形態でもあったわけで、云々
と述べている(注4)。たしかにこれらの考え方は首肯されるのであるが、それはあくまで「皇位の継承」とか「神話的思考」の範囲内でのことであり、儀式的な表現でもあったといえよう。人麻呂が「大君は神にしませば」と歌うのも同様で、その意識の裏には、大君は神でないとする認定があるからだと言われているように(注5)、

長い引用になったが、引用部分を読めば分かるように書かれている。まず、イでわかるように、高市が美濃から近江へ越えたなどとはどこにも書かれていない。金沢氏のひどい誤解である。こんな幼稚な誤解を見逃す指導教官もどうかしている。そして驚いたことには、橋本氏もひどい誤解をしている。高市は「近江から脱出して不破山を越え、天武天皇の軍に合流した」のではない。大津から脱出して、今の伊賀市の柘植あたりで天武に合流したのだ。こんなことは、壬申紀をちょっと読むなり、直木氏の本を読んだりしたらすぐにわかることで、地理を軽視するにも程がある。結局、天武も高市もその他の味方も、不破山を越えて美濃にきたものは一人もないのであって、にもかかわらず、人麻呂が、不破山を越えて美濃に入ったように歌ったから問題なのだ。虚構を問題にするのだからゞでもいいではないかというかも知れないが、なぜこんな荒唐無稽なことを人麻呂が言うのかはやはり問題だ。ロで、人麻呂は意識的に事実を曲げたのだと言うのは、賛成できるが、その曲げ方に微塵も事実がないのだ。すべたはでっちあげなのだ。ハが、結局橋本氏が最も言いたかったことで、長らく議論されてきた、主語の曖昧というのを「天武の映像と皇子の映像とを重層ないしは交錯させた」と解するというのである。引用しなかったが、こういうのは、口誦という発表形式にかなった方法でもあるという。それにしても分かったようで分からない解だ。重層といっても、イエスキリストのような、神か人かといった問題ではないだろう。天武でもあり、高市でもあると言うことのわかりにくさは、重層といっても、ただ言葉の綾であって、解決にはなっていないと思われる。かつて、中西進氏が、枕詞を連合表現と定義されたとき、稲岡耕二氏が、わかりにくさは結局同じだ、と言われたのを思い出す。それはともかく、この主語の問題は、神野志、金沢、榎本氏などの論考でだいたい決着が付いたようだ。
ニで、天皇即神論への否定が出てきて、注がついているから、折口の文章に言及されているのかと思ったら、
 5 山本健吉柿本人麻呂』一一八頁
とある。これは結局折口の言ったことだろうが、山本のを引用したら、孫引きのようになってしまう。なぜ直接折口を参照せず、山本にしたのか、疑問だ。

山本健吉柿本人麻呂』、新潮社版(1962.6.10)を売ってしまったようなので、山本健吉全集第二巻、講談社、1983.9.20、を見た。頁数が合わないので、大体の比率を目安に読んでいくと、「長歌における主題の分裂」の章の69頁にあった。
「神ながら」とか「大君は神にしませば」とか言った言葉が、頌辞として使われ出した。……明治以後に解釈されたような天皇即神説によるものではない。
つまり天皇は神ではないということなのだが、簡単すぎて説明不十分だ。もっとあとの章で、草壁、高市、天武の主語の問題で、折口を援用しながら詳細に論じているが、そこには天皇即神説に関するような事は出てこない(似たようなことは出る、ニニギノミコトと合体するとか、折口の言う天皇の資格とか)。この簡単な方には折口の説だと言うことをことわっていないが、あきらかに上野誠氏のいったように折口の説だ。こんないかげんな山本健吉のいうことを引証するのは、橋本達雄氏の沽券に関わるだろう。なおついでに言えば、山本は、先述の高市皇子挽歌論のところで、高市皇子は、和※[斬/足]野で近江軍と烈しい戦闘を行ったと、何度も言っている。全く事実に合わないからが、何のことわりもない。評論家などというのは、こういうひどい手抜きをするから、研究の参考にするのはよほど注意しなければならない。研究者にもミスは多いが、これほどひどいことはない(はずだ)。

2322、わざみ5

2322、わざみ5
金沢英之高市皇子挽歌、セミナ-万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30、所収。
前の榎本氏が盛んに引用されていたが、それほどのものとは思えない。このシリーズによくある、諸説の交通整理型の論文であり、大方、指導教官と思われる神野志氏の説の祖述のように思える。そこだけ見れば榎本氏も同じである。

天武の和※[斬/足]への出陣から、東国の兵の召集、高市への敵軍鎮撫の任命が歌われる。ここで「背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして」というあたりの文脈が、美濃から伊勢方面へ山越えがなされたと解し得て、紀に記すところの天武の行程と逆になることから、大和にいる作者の視点から必ずしも詳しい道順などを考えずに言ったものとする説(『注釈』)や、むしろ高市の行程と合致しており天武と高市を二重化した表現ととる説(橋本達雄「殯宮挽歌」『万葉宮廷歌人の研究』笠間書院、昭50、初出昭43)などが唱えられてきた。さらに天武の行宮が、戦陣の張られた和※[斬/足]とは別に野上に営まれたとする紀の記事との食い違いとあわせ、史料としての信憑性の低さを問題とする見方もなされてきた(吉永登「高市皇子と瀬田の会戦」『万葉-文学と歴史のあいだ』創元社、昭42、初出昭34)。しかし、森朝男「天降る大王」(『古代文学と時間』新典社、平1、初出昭53)のいうように、この歌の表現は「はじめから事実になど合ってはいない」のであり、虚構という手だてによって天武の存在を神格化し、同時に壬申の乱を神話化するところにこそ歌の本質を見るべきである。

長い引用で申し訳ないが、吉永氏の説が紹介されているのが珍しい。しかしあっさりと、始めから事実になど合っていないと森説を引用して切り捨て、吉永氏の残る書紀との不一致点(複数個ある)には触れない。そして、神野志氏の言う、天武天皇の神格化表現であり、そのために、壬申の乱すら神話化したのだという。脇道になるが、不破山越えが、なぜ、美濃から伊勢への山越えになるのか全く理解できない。地理的にありえないし、物語とか伝承とか神話とか言っても、あまりに荒唐無稽だ。不破山越えは、近江から関ヶ原を越えて美濃に入るか、その逆かである。伊勢など関係ない。こういう説を引用するだけで批判しないと言うことは、そういう説も可能だと思っているのだろうか。

現実には大和から見て東北にあたる美濃を「背面の国」すなわち北方の国と歌うことも、北方を幽暗の方角とする観念とあわせて、その北方の険阻な山を越えて天より降り立つことで神威を際だたせる効果があると看取される。神話的な叙述として一貫するとみるべきなのである。

これも地理を無視した発言である。「「背面の国」…、その北方の険阻な山を越え」ではない。天智方の根拠地である近江から、不破山を越えて「背面の国」の美濃に入ったのであって、「背面の国」を越えたのではない。まさか美濃を越えて信濃へ行ったのでもあるまい。
以下長くなるので引用は略すが、天武と高市との関係を擬神話的に描くのが高市の死亡までの叙述で、それは、王権の保持者天武とその補弼者高市との理想的な政事として歌われているとするのだ。こういうところが榎本氏の批判されたところで、草壁の場合はあきらかに神話的だが、高市の場合は、そういう表現は、比喩か誇張かであって、全体として歴史的な観点で表現されているという。これはそうだろう。金沢氏は、神野志氏や村田氏の説にこだわりすぎたように見える。
高市死去後の部分については、論議のやかましかった殯宮論になるが、各説の紹介で終わっている。実際、そう簡単に決着の付く問題ではないようだ。
そしてここでも、演出でも、虚構でも、擬神話的でもいいが、そういう、死者の政治利用(死人に口なし)のようなことが、持統などの権力者によって、あからさまではないにしても、柿本人麻呂などに圧力をかけてい、人麻呂もそれに喜んで応じたのだとしたら、長谷川如是閑のいう、御用詩人のようなものになる。そんなものがはたして、長歌のまれに見る傑作とか名作とかと評されていいものだろうか。そういう認識は間違いだというのなら、吉永氏の疑問に答えるべきだろう。

上野誠、日本人にとって聖なるものとは何か、中公新書、2015.1.25
何とも大げさな題だ。日本人を万葉人とすれば、少しはましだが。それでも大げさだ。もり、みもろ、かんなび、などの語義を用例で説明しただけの浅薄な書である、いつものことだが。利点は、この人の本はたいがい近くの図書館にあって読みやすい、極めて稀にいいことも言う、ということだ。そこで、今回の一つ。
218~220頁、(天武天皇即神説にふれて)「大君は、神にしませば」という句は、天皇の力の偉大さを讃える句であり、それは言外に、神ならぬ身の天皇のお力は、まさに神であるかのごとし、という内容を含み込んでいるのである。この考え方は、…(折口信夫「天子非即神論」)。
つまり、万葉で天武を神だと言っているのは、比喩であって、実際の思想ではないというわけだ。例によって厖大な参考文献が載っているので、見ると、折口の全集の20巻にあるという。折口全集は全部読んだが、勿論なにも印象に残っていない。さがしだして読むか。榎本氏の前掲論文は、2014.10.20、だから、上野氏がそれを見ることはないだろうが、榎本氏(そしてその前の金沢氏など)が折口を読むことは勿論可能だし、土台になった、神野志氏なども、当然折口は読んでいるはずだが、即神論関係の論文で出てきた印象はない。私の印象など全然あてにならないが。

折口信夫全集第二十巻神道宗教篇(中公文庫、1976.8.10初版)
上野氏に教えられて折口を読んだ。神道宗教篇はあまり言及されないので注意して読んでこなかった。「天子非即神論」1947.1.16~18「夕刊新大阪」もあるが、その前の、「宮廷生活の幻想――天子即神論是非――」1947.7「日本歴史」第二巻第三号、のほうが長くて話題も多く詳しい。後者の方で、日本には学問的な意味での神話は存在しないと言っているのが注意を引く。それだと古事記の冒頭あたりの神々の話しはどうなるのか、別になにも言っていない。それから天皇非即神論について、両者でほぼ同じことを言っているが、前者の方が新聞の記事とあって、簡潔だ。敗戦後の昭和天皇人間宣言から書き起こされていて、印象的だ。我々と違って、当時の人は、天皇は神(現人神)だという認識が相当に強かったのだろう。折口は、学問的にそんなことはあり得ないと強調するが、あの折口がという気もする。兎に角、万葉などに多い「大君は神にしませば」などというのは、まったく、天皇を神だと思っていたのではなくて、そのように「言ひこなし」(文学だとも言うが、要するに比喩的な表現とか、言葉の綾、とかいうものだろう)ているのであり、誇張である、と言っている。こうなると、榎本氏がいわれるのとほとんど変わりない。ただし、高市皇子挽歌はともかく(村田氏などはこれも神話的だという)草壁皇子挽歌の場合は、榎本氏は神話的だという(神野志氏以来の説だが)。折口に言わせれば、これも、比喩であり誇張だとなるのだろうが、説明はない。
天皇即神論については、神野志氏と遠山氏との論争など、いろいろ議論はあるが、折口説はどう処理されていたのか記憶にない。とにかく「わざみ」考とは縁が薄い。

村田正博、高市皇子挽歌、万葉集を学ぶ第二集、1977.12.15
これは榎本、金沢氏が大きく取り上げられたものである。和泉書院の例のセミナーで編集者が手本にしたもので、セミナーより22年古い。今でも伊藤博中西進氏の論文がしばしば引用されるぐらいだから、この程度の時間差は問題ではないのだろう。ところで、これも、伊藤博氏を指導教官として書かれたものだ。だから論文中で伊藤博氏の論文がしばしば言及される。それにしても、和泉のもそうだが、この学ぶシリーズでも、編集者の息のかかった著者が多い。
おおかた金沢氏の論文で紹介されていて、ここで改めて引用したりする気が起こらないが、まず天皇(天武)即神論がくわしく説かれる。次の壬申の乱の戦闘場面で、吉永氏の論を出して、高市皇子の戦闘の描写ではないと言うが、主語は高市皇子だから、その批判は当たらないという。しかし吉永氏は、史実として、高市皇子は近江路の戦闘そのものに参加していないと言っているのだから、誤読であり、批判になっていない。天武と二重写しになった(だから高市も神として行動しているとなる)、高市の奮戦であり、活躍だというのは、吉永氏の言うように、史実ではなく、虚構であり、演出でもあるわけだが、そのことを言わない。そのあと、高市は天武との共治態勢で、執政したと言って、高市を讃美したというのだが、天武の代理のようなことをしただけなのを、はたして讃美と言えるのか、どうも納得しがたい。作品構造からみて秀作だという結論がさきにあって、それに合うように解釈したようにも思える。高市も人麻呂も知足の人で、人麻呂の人間的な共鳴が、人麻呂の慟哭を呼び絶唱となった、というが、職業詩人というのを、知足というような美辞におきかえただけではないか。理屈は何とでも付けられるという思いがする。同じ知足でも、金井清一氏(古代抒情詩『万葉集』と令制化の歌人たち、2019)が、高橋虫麻呂について言われたのより底が浅いように思える。要するに、村田氏においても、高市の行動は史実ではないという吉永氏の説の真意についての批判になっていないということであり、和※[斬/足]、不破山越えの矛盾の解答には役立たないということである。

2321、わざみ4

2321、わざみ4
柿本人麻呂研究-古代和歌文学の成立-、神野志隆光塙書房、1992.4.20
野志氏のこの著は有名なものであり、今もなお影響力があると思うので、とりあげた。といっても、高市殯宮挽歌の作品論はなく、天皇神格化表現とか人麻呂の表現の獲得、といった主題に関して論究されるだけで、和※[斬/足]の行宮はもちろん、不破山越えの矛盾や、戦闘場面の虚構といったことも論じられない。それでも一世を風靡した論考だから、見ておく価値はあると思う。まず引用。

持統朝が天武朝をうけてそうした「小帝国の完成をはたそうとしたということだと考える。

「小帝国」の完成がまさに顕現されていく持統朝の時代状況とともに歌の昂揚を捉えるべきだと考える。端的にいえば、「小帝国」の文化の問題として捉えるべきなのではないか。「小帝国」の、世界としての内実、つまり、世界として独自に存立することを確信できるところが、切実にもとめられるのに相応じるものは文化というのがふさわしいが、そこにおいて歌の問題をも捉えたい。歌という自らがもちえた文化伝統を捉えなおし、これを正面にすえることによって、「小帝国」の文化たらしめんとした。

場の論は、伊藤博万葉集歌人と作品 上』の説く、「宮廷サロン」とも重なるのだが、いま大事なのは、どのような場であれ、歌を多面的にもとめる場があり、またそれに応じることによってなりたつ歌の状況を認めうることである。いわば歌の浸透のもとにある生活、すなわち文化ということである。

短歌によって可能であるものをもって長歌と組み合わせる反歌の方法的追究をこうして捉えつつ、あらためて、それは、歌のもつ二つの領域を全体として見すえて和歌文学としての可能性を意識化し追究するという次元を明示するのだということが許されよう。

大事なのはこの歌の表現自体の論理と思想に即して捉え出すことであり、これを人麻呂神話であるとか、『記』『紀』編纂の過程で捨てられた伝承であるというふうに考えるむきもあるが、記紀神話体系をあまりきゅうくつなものと考えてはなるまい。

神話要素的なものはあったかもしれない。しかし、それを天武神話に収束せしめていく強い想像力による表現創出をつうじてはじめて統一あるイメージを結んでいくものであり、そこでは思想がさきにあってそれにもとづいて表現するという関係ではなく、表現の創出を通じて思想がはっきりした形となってくると見るべきであろう。端的に、時代の思想に形を与えた人麻呂の歌として捉えたい。

王朝の創始をになった「神」として、天降り、死して天上にもどって天を治める。それは、そのようにもとより一般的に「信じられていた」というものでなく、人麻呂の表現をつうじて明確な形をとってきた思想ではなかったかとあらためていおう。「神」たる「すめろき」を特殊化することが、天武天皇をめぐっては、始祖神としてその「神」性を崩後のみならず全存在的に拡大してなされたのだと考える。神話化といえば神話化であり、人麻呂がふまえたであろう神話要素的なものを顧慮する必要はあろうが、大事なのは「すめろき」の神話化というその本質であろう。

大量の引用になってしまった(セミナ-万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30、所収「人麻呂作歌の世界」で部分的に要約されている方が、短いだけわかりやすいだろう)。この方のは一応は分かるのだが、読解の精緻さだけで出来ているように思える。テキストだけで解けないことは言わない。前半のように歴史的な背景(持統朝の政治力学とか)があるものはいいのだが、後半の、天武神話とか天皇神格化表現とかになると、いくら人麻呂の獲得と言われても、十分には納得しにくい。記紀神話とは違う、人麻呂の創造した神話と言う考えはいいとして、なぜそんなことをしたのか、人麻呂の創造は、当時、どこまで受け入れられていたのか、それによって、文学作品としての価値はどうなるのか、といったことがわからない。
要するに、人麻呂個人の文学的な創造や営為をもっと重視しようということであり、それが、持統朝の、「小帝国」文化(特に和歌文学)を興隆させようと言う、政治的な営みでもあった(自覚するしないに拘わらず、そういう結果になる)、と言うことなのだろう。だから天武神話などというのも、人麻呂の表現の獲得、大きく言えば文学的な創造であって、人麻呂作品の内部に留まるということらしい。和歌文学の興隆として評価されるにしても、その天武神話がそのまま国家承認の神話(記紀神話)とはならない。
結局、「わざみ」という地名が高市挽歌の中で果たす機能についてはほとんど得るところがない。天武は不破山を越えたとか、和※[斬/足]の行宮に天降ったとか、瀬田会戦での高市皇子の奮戦などという、書紀の記載内容とは合わない表現は、どうして生じたのか。これも人麻呂の独創だとしたら、人麻呂は書紀の内容を知っていて改変したのか、書紀の内容は知らずに、他の情報源からなのか、神話なら独創も有り得るが、まだ壬申の乱の当事者が多数生存しているときに、書紀の記載と違うことを、公式に発表して、はたして公式の挽歌として通用したのか、通用したとしたら、どういう状況で通用したのか、わからない。そういうちぐはぐな作品が、長歌としてなぜ高く評価されるのかもわからない。

宮廷挽歌の世界-古代王権と万葉和歌-、身崎壽、塙選書96、1994.9.30
前の神野志氏のから、わずか2年後にでたものだが、前者は堂々たる単行本、こちらは小型の選書本で、頁数も少ない。身崎氏といえば、神野志氏にひけをとらない活躍ぶりであったが、今振り返ると、やはり前者の方が優るようだ。後者は量が少ないだけでなく、論点も小さく、かなり通俗的常識的で、読みやすい。それはともかく、ほぼ同時代の人で、同じ時代背景にあった人であるせいか(同じ世代と言っても、坂本氏、廣岡氏などはまた傾向が違うが)、論説が似通っている。上野誠氏が「万葉挽歌のこころ・夢と死の古代学」2012年、で言われたように、「場」の論理で作品を分析する傾向が強い。したがってどちらも歴史的な背景を重視する。本書にも副題に「古代王権」とある。人麻呂の挽歌でも、ほとんど「殯宮」の具体的な在り方の分析でしめられている。歴史的に持統の時代に急激にに殯宮挽歌製作の場が調えられ、しかも線香花火のように人麻呂で終わってしまった、というのなども、神野志氏のいうのと似ている。

結論だけをいえば、この挽歌はいかなる意味においても叙事詩とはいえないし、そこに登場する「やすみしし我が大君」=天武も、また本来この挽歌で中心的にえがかれるべき「我が大君」=高市も、古代的英雄としてえがかれているわけではないのだ。

その表現にこめられた政治的メッセージのありようからみても、この挽歌が持統天皇の領導のもとに執行された高市皇子――太政大臣高市の喪葬儀礼の一環として、皇子の生前の居所たる「香具山の宮」での遺族近親者を中心とした儀礼の<場>に提供・誦詠されたものと推定してあやまらないだろう。

この挽歌の作中主体=話者<われ>のたちばがいかなるものかは、それと明確にしめされてはいないが、持統宮廷につかえ、したがって太政大臣高市につかえる一廷臣・官僚のそれとみることに矛盾はない。

三か所だけ引いてみた。神野志氏との違いは、作中主体を分析したところぐらいだろう。それは挽歌的な抒情の方法として人麻呂の達成したものといえるのだが、これも結論的には神野志氏が言ったのと似たところがある。そして、和※[斬/足]や不破の地名の問題に一切触れることがないことも、同じである。

榎本福寿、日並・高市両皇子の挽歌と天武天皇――神話、歴史に根ざすその成り立ち――、萬葉集研究第三十五集、2014.10.20、所収。
長篇であるが、主題は題名通りであって、二つの挽歌の一部分を、その表現(対句や助詞)の微細な分析と比較によって分析したもので、作品論とも言えないものである。作品論なら、かつて、華々しく議論された、殯宮という場の分析が欠かせないと思われるが、それについては一言も触れない。なお、この論文では、村田、高野、金沢氏らの論文が大きく取り上げられているが、それを読むのは後回しになった。この論文では、高市挽歌の壬申の乱関係の部分の表現構造の分析が大半を占めている。そこから幾つか引用した。

イ、天武天皇の統治と高市皇子の奏政による理想の政治が実現し、それが永続してほしいと願い繁栄していたその折も折、「吾が大王皇子の御門を 神宮に装束ひ奉りて」と高市皇子はあまりにも突然薨去する。史実とは、もちろん別である。天皇と皇子による理想の政治をその薨去が突然奪うというこのかたちを、挽歌はまさに演出したのであろう。
                       
ロ、なぜその行宮に赴くのか、またそれをなぜ「あもり座して」と表現するのかといえば、その直後につづく「天の下治め賜ひ、食《を》す国を定め賜ふと、鶏が鳴く吾妻《あづま》の国の、御車士《みいくさ》を喚《め》し賜ひて」という一節が明確に答える。すなわち天下の統治、全国の平定をめざす戦いに備える戦略上、またその戦いを実際に担う東国の兵士を喚募する上にも、立地その他そこが最適の地であるからという理由による。

ハ、表現にこうして彫琢を特に凝らす反面、壬申の乱の実戦やその事実などをつたえたとみるべき明確な表現はほとんど皆無であろう。

ニ、「これは天武・持統朝をひと続きの時代とみているからであろう。その点を了解事項として、高市はあくまで天武の執政者として描かれている。」と解釈を施す。主張の内容はともかく、「当時の理解」あるいは「了解事項」といった検証不能な言説を持ち出す必要があるのだろうか。天武天皇の統治と高市皇子の奏政とを組み合わせる必然性を、史実などではなく、むしろ文脈や構成あるいは表現などといったそれこそ挽歌そのもののなかに読み解くのが解釈の本道である。この立場から導いた試見は、後述する。

ホ、現実には持統天皇の治世下でありながら、持統天皇のかかわりを積極的に捨象する方向をあえて選択したことも、この挽歌構想と恐らく無縁ではない。しかしまたその危機を最も切実に受けとめたのが持統天皇であることも、多言を要しない。この持統天皇に向けて、人麻呂は二つの挽歌をうたいあげてもいたはずである。

歴史的な記述の形態で表現している部分は、すべて史実ではないという。そうかも知れないが、人麻呂が史実と思っていたとも言える部分もあるかも知れない。正格には、その部分は、書紀の記述とは一致しないということだろう。それはともかく、高市皇子が天武の治世中に急逝したというのは、著者の言うようにあきらかに史実ではない。ただ、それ以外の、地理や戦闘場面での矛盾も明らかに、史実ではないと言えるのか、そこが知りたいのだが、ほとんど触れるところがない。それにしても、高市皇子は、天武が死んでからのちかなりたった、持統の治世中に死んだのだから、あきらかに、著者の言うように演出だろうが、むしろ、明瞭な虚構(はっきり言って見え透いた嘘)である。文脈から窺える表現構造がそうなっているのだから、そう理解すべきだという、ニの引用部分は、著者の指導教官だという神野志氏の主張そのものである。
しかし、これは殯宮挽歌であって、壬申の乱物語といったジャンルではない。政治的な意図をあからさまな演出で表現することが、はたして、殯宮という公的な場で、許されるのか。またそんなものが、高市皇子個人を哀悼する挽歌の表現としてふさわしいものか、疑問である(哀悼すべき個人の死を政治に利用している)。演出というのも、比喩や誇張が大方だというが、比喩はともかく、はでな誇張は、ただの虚構(嘘)である。人麻呂はなぜそのような虚構を挽歌に使ったのか、見え透いた虚構は、高市皇子個人への侮辱ではないかという吉永登氏の批判を解消させるには至っていないと思うのである。よって、和※[斬/足]や不破山越の疑問の答えは出ていないと言える。

東京、長野、近畿の人口

2022年3月
東京都、1397,2039人、8446人減。世帯数4567減。
長野県、202,5780人、1719人減、世帯数215減。
大阪府、878,4059人、6543人減、世帯数640減。
京都府、255,0886人、3303人減、世帯数1295減。
兵庫県、541,6363人、4912人減、世帯数1070減。
滋賀県、140,6886人、1005人減、世帯数265減。
奈良県、131,0654人、1485人減、世帯数477減。増えたのは、広陵180の1つ。
和歌山県、90,9165人、999人減、世帯数159減。ついに実質全市町村減少。北山村だけ増減なしの0。
和歌山市(35,3327)-奈良市(35,2229)=1098
だいたい順調に減っている。

2320、わざみ3

2320、わざみ3
菊池威雄、高市皇子挽歌(巻2・一九九~二〇二)、橋本達雄編、柿本人麻呂《全》、笠間書院、2000.6
質的な重厚さにおいて、奔騰する言葉の迫力において、それを統括する構成力において、当該歌を超えるものはなかった。持統・文武朝の藤原時代の記念碑たる作品である。しかしながらこの挽歌を支えた、人の死にかかわる信仰や習俗と王権との時代的なかかわりなどが、いまだ必ずしも解明されおらず、それらをすべて振り払って存在する文献《テキスト》に対して、文脈や語義の解釈すら揺らいでいる現状である。→前書き的な部分でのこの発言にあるように「人の死にかかわる信仰や習俗と王権との時代的なかかわり」を主に論じたものだ。
全体を3段にした時の第1段は神話的だという。天武天皇に関する関する記述は今までも神話的だといわれており、特に真新しくはない。日並皇子挽歌と比較しながら、天武の地上性を強調し、それは高市皇子を天武の片割れのようにして重ねたからだという。

神話幻想 地上原理に引き下ろされた神話ともいうべき、当該歌の神話性を最もよく示しているのは、おそらく「渡会の斎の宮ゆ、神風にい吹き惑はし、(中略)」の部分であろう。この部分の行為の主体については他説があるが、文脈の流れは、神風を吹かせ闇に覆ったのは高市皇子である。

こうやって引用していくときりがないし、私の主題とは関係がないところが多い。それはともかく、地上原理による神話とはどういうものかよくわからない。説明も詳しくない。ようするに政治的な側面が表に出て来るということだろうが、それなら神話ではなく比喩的なものに過ぎず、英雄的な伝承といってもいいように思える。だから、神話と言いながらすぐに神話性と言い直しているが、それは比喩的と言うことではなく、神話の属性を持っていると言うことだから、あるていど神話として読んでいるということだろう。
以下殯宮論に移っていくが、神話的な叙述がなぜ殯宮の叙述に続くのかここだけではよくわからない。とにかく、以下葬儀や祭式といったことは略す。

この祭りと言葉との関係は、殯宮挽歌の叙述の位相を示唆していると思われる。殯宮挽歌を葬祭という祭祀の中に置いてみたとき、挽歌がまず最初に語らなければならないのが、目前で進行している祭りの本縁でなければならない。死者である皇子の事跡や神性を語ることが、葬祭という祭祀の本縁であることはいうまでもない。祝詞でもこの部分は神話性を帯びてくるが、高市皇子の挽歌の場合も、壬申の乱にかかわる叙述は、上に述べたように神話化された皇子の事跡で埋められる。神として葬る祭祀である以上、皇子は神として語られなければならないのである。

出だしがなぜ神話的であったかと言うことは、ここで明かされる。死者の本縁を語っていると言うことだ。しかし、天武は神話的な面もあったが、高市は英雄的ではあっても神話化された事跡で埋められてはいない。高市を神として葬ったというのは証明されていない。つまり殯宮は祭祀の言葉で語られるいうのは十分には証明されていない。著者も言っていたが、明日香皇女挽歌では死者の神性などは全く描写されない。

天武の着陣の場所・そこへ至る経路、壬申の乱の季節などが壬申紀と食い違っていること、伊勢の神の神助の下りは、壬申紀に見えない虚構であることなどが指摘されてきた。そこには、壬申の乱という史実、その地上性に沿いながらも、皇子の行動を神の振舞いとして捉え直そうとする作者の意図が現れている。史実から遠ざかっている距離だけ、皇子は神に歩み寄ったというべきであろう。

これは先に引用した少し後のものだが、野上→和※[斬/足]、不破山をこえていないのに越えたということ、乱は夏にあったのに、戦闘場面に冬に関する比喩が目立つこと、伊勢の神風が吹いたこと、という矛盾を指摘したものだが、書紀との違いをここでまとめそれを登場人物の神の振る舞いとしたのはいいが、なぜそうなのかは説明されない。それに、始めの二つの地理の矛盾は、明らかに天武天皇のことであって、高市皇子のことではない。このような間違いはこの論文の信用を傷つける。要するに、この高市挽歌に祭祀の言葉の位相を見ようとするのは行き過ぎだということだ。デフォルメである。

西郷信綱、壬申紀を読む 歴史と文化と言語、1993.6.21
西郷のは始めに『万葉私記』を見たが、あれは挽歌としての構造を論じたものだった。これは書紀の壬申紀を丁寧に読んだもので、同じような構成の『天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀』遠山美都男、2014.02.25、などとは比べものにならないほど良くできているし、詳しい。しかしこれも結局、断定はしないながら、「わざみが原」は関ヶ原から野上にかけての一帯で、和※[斬/足]は関ヶ原のことだろうというだけで、青野ヶ原説には全く触れないし、地理的な矛盾についても触れない。なお、天武の美濃あたりの行動を、「英雄的」と評し、「カリスマ性」ともいう。菊池氏のいう「神話的」よりもいいだろう。天武の行動を神話のように描いたのではなく、カリスマ性のある英雄として描いたのである。ついでに言えば、「不破の関に近いワザミに先陣を構え、本陣はその東二キロばかりの野上の地に置き、必要に応じその間を往反することにしたのである。(144頁)」と言っている。西郷が最初に言ったわけでもないだろうが、はっきりと断定している。

萬葉集歌人と作品 上 古代和歌史研究3、伊藤博塙書房、1975.4.10
第五章 柿本人麻呂とその作品
 第三節 人麻呂殯宮挽歌の特異性(1977.2「国語国文」初出「挽歌の誦詠」)
  一 発表ということ
  二 葬儀と挽歌
  三 殯宮挽歌の内容と場面
  四 文芸と非文芸と
伊藤博氏には、高市挽歌の専論はないようで、これが比較的詳しく論じたものだろう。臺にあるように、殯宮という葬儀を歴史的に詳しく追及したもので、菊池氏のよりも説得力がある。仏式への転換の中で、古い伝統の最後の輝きのようなのが、人麿の殯宮挽歌だったというわけだが、ずいぶん長い論文に拘わらず、人麻呂のわずか三首の殯宮挽歌だけで、公的な儀礼上の誦詠を論じるのは、ちょっとわかりにくい。それはともかく、今私の関心があるのは、四の部分で、ここで、長谷川如是閑と茂吉の論争を紹介し、長谷川の御用詩人てきな見方は出発点から間違っているときびしく批判している。しかし、

人麻呂の殯宮挽歌は、その環境(白鳳的儀礼)への共感をいちずに表現した完全に近い「儀礼歌」であった。宮廷歌の限界を類のない高さに拡大した歌であった。とすれば、この挽歌にはそれなりの高い意義と価値を認めねばなるまい。権力を持たぬ人々を代表し権力に反撥してうたったとしても、その表現に「たたかい」がなければ、作品は力作の資格を持ちえないはずだ。
 人麻呂は、特異な歌才をもって宮廷の葬儀に挽歌を唱う習俗の最終的な段階に立ち、そうした挽歌の創られるべき機運のなかに立っていた。そのために彼は類のない公儀の挽歌詩人となり、その殯宮歌は文芸と非文芸の境に立った。

このように主張するのはやや偏った感じがする。完全な儀礼歌や宮廷歌のどこに意義と価値があるのか。しょせんただの貴族文化ではないか。装飾過多でも儀礼への効果があればいいのだろうか。文芸と非文芸の境というが、そんなものが本当の文学か。ようするにこれも茂吉と同じで、和歌の技巧にくらまされた、形式的な鑑賞ではないか。

本稿は、昭和三十年当時人麻呂を迎合の詩人と見る風潮がおこったことに対する一つの批評として、研究者としての主体的な立場を設定する意図をもこめつつ書かれたものである。とくに、吉永登氏の「人麿の献呈挽歌」(万葉――文学と歴史のあいだ)を意識して書かれたと記憶する。だから、本稿が生誕したのは吉永氏の力だといえる。謝意を表した

ここにいう「迎合の詩人」、如是閑流に言えば「御用詩人」という人麻呂観もそれなりに評価すべきだろう。では、次に吉永氏のを読もう。

吉永登、『万葉――文学と歴史のあいだ』、創元社、1967.2.10
六 人麿の献呈挽歌
七 献呈挽歌は殯宮で歌われたものでない
八 天武天皇における天照大神神武天皇――人麿作歌の背景として――
九 高市皇子と瀬田の会戦――人麿の虚構――
十 宮廷歌人の存在を疑う
この五論文にわたって、宮廷歌人人麻呂の問題について論じられており、読み通すだけでも一苦労である。なお吉永氏も「宮廷歌人」と言われているように、御用詩人とか職業歌人とかいう言い方は茂吉と如是閑の論争以外にはあまり出てこない。宮廷歌人の問題については戦後いろいろ論じられたが、今はそれに関わる閑がない。
吉永氏の場合、書名にもあるように、歴史の問題への関心が深く、文学史的な課題の追及が弱いようだが、そう言う時代の人だったからやむを得ないだろう。ところで、この本は私は何十年も前に読んでおり、今改めて読んで、覚えているところが多い。それだけ切れ味の鋭い印象深い論文が多い。今書いているこのノートでも氏と同じことを言っているところがあちこちにある。だれかの論文にあったと言うことは覚えているから、自分の独創ではないが(そんなものはほとんどない)、だれのかということは思い出せない。吉永氏のも今読んで、そういえば吉永氏の説だったのだなと思い返す。
六の序章に
「在来はとかく人麿の盛名のゆえに、伊藤左千夫長谷川如是閑等一、二の批評を除いては、いずれもぐれた作(草壁、高市、明日香の三挽歌のこと、入力者)として認められてきたのであった。
 しかし、それらは、主として構想とか、措辞とかいう外面からの批評であるがが、ここではどのような歴史的事実に基礎をおいた作者の心から生まれたかという作歌動機についての考察を試みたいと考える。」
とあって、私も同じことを言っているのだった。つまり吉永氏も、長谷川、伊藤と同じく人麿の殯宮挽歌を傑作とは言いがたいといおうとしているのだが、作歌動機についての解明(宮廷歌人による作品の文学性の堕落とか)が少なく、歴史的な事実との齟齬の解明で終わっているのが多いのは残念である。
六論は岩波の『文学』(1954.11)に発表されたものでずいぶん長いものだが、大部分は、人麻呂は天武・持統天皇を念頭に置いて作っているということを論証している。人麻呂の時代には歴史的な制約もあって権勢への顧慮などは当然のことであって、庶民への同情と何等矛盾はしないと言う。しかし挽歌の場合、個人的な感動を中心とせず、権勢を顧みて歌った結果叙述に破綻をきたしたらすぐれた歌といえるだろうかと言う。そしてそういう叙述(文脈)の破綻は、茂吉の言うような不即不離の省略法と言ったものではないと言う。そして最後にこれらの挽歌は殯宮で歌われたものではないとする。最後はともかく(吉永氏自身も断定していない)、叙述の破綻は権勢に迎合したためであって、優れた作品とは言えないというのは、当たっていると思う。ただしこれは措辞の面の破綻であって、歴史的な事実に基づいた具体的な構想といった面での破綻については天武・持統への配慮以外には言っていないようだ。それは七論以降を見よということだろう。
七論は、題名の通りで、具体的には、天智挽歌群、明日香皇女挽歌などについて論じている。折口や武田、西郷氏、が殯宮で歌われたと主張したということだが、だいたい民俗学の系統にある。吉永氏の反論はかなり明瞭なものだが、菊池氏などはそれに触れずに殯宮で歌われたものとして論じている。曾倉岑氏は吉永説を引いて、私的な歌だが場は公的だと折衷的である。要するに公的な儀礼の場の歌か、私的な歌かということになるが、私はだいたい曾倉説に近いが、今はこれ以上考える暇がないし、わざみという地名には大きな影響はない。
八論は、壬申の乱における神憑り的な奇蹟は天武が意図的に作りだし流布させたものとする。人麻呂はそれに親しんでいて、高市挽歌に取り込んだとする。つまり、歌作の時の意図的な虚構(創作)ではないとするわけだが、結論は保留する。
九論は、瀬田の会戦に高市皇子は参加していなかったとするもので、それを会戦の主人公のように人麻呂が描いたのは、「考え方によるとこれは死んだ皇子に対する大きな侮辱でさえあろう。」とする。これは全く同感である。このように実感が伴わず、また主語が天武か高市かあいまいなのは、優れた表現とは言えないとし、「人麻呂評価の問題はなかなか困難と言うべきであろう。」というように疑問を呈している。
これは瀬田の会戦だけを問題にしたが、天武の不破山越え、和※[斬/足]行宮についても同じ問題がある。
十論、これも一時うるさく論じられたもので、吉永氏のこの論文はその代表的なものの一つである。御用歌人とかいった一般的な名称でなく、当時の宮廷において、専門的に儀礼用の歌を作る職掌の官人たちがいて、そういうのを宮廷歌人(職業歌人、宮廷詩人とも)という名称で呼ぼうというものだが(折口信夫が言い出した)、吉永氏はそれを疑わしいというわけだ。ここで詳しく吉永氏の説を紹介する閑はない。簡単に言うと、彼等の作った作品に頌歌や挽歌とは思われない内容のものがあること、職業的な宮廷歌人なら当時の貴族達に蔑視されたであろうが、人麻呂も赤人もれっきとした有位の役人であったこと、職業的な宮廷歌人なら、大伴家持が羨望と尊敬の念を持たなかっただろうと言うこと、などをあげておられる。しかしこういうことは、高市皇子挽歌の表現の地理的な矛盾の問題とは余り関係がない。宮廷歌人であろうとなかろうと、人麻呂はあのような挽歌は作れただろうということである。

西郷信綱『齋藤茂吉』2002.10.30、「八 茂吉と人麿――ディオニュソス的ということ――」。
西郷氏はこれで三度目でちょっとしつこいが、ここに例の長谷川如是閑との論争が出てくるので、すこし触れてみたい。西郷氏は、R.Finnegan の Oral Poetry を引いて、「貴族的階層的な秩序を持つ王制では、宮廷詩人(court poets)なるものがほぼどこにも存在し、しかも彼らはしばしば高度な技を身につけており、特殊な訓練も受けていることが指摘されている。我が柿本人麿もたんに日本的現象としてではなく、まずはこうした国際的な視野のなかに据えて眺めてみることが必要なのではなかろうか。」とする。そして、如是閑のように芸術の堕落だというだけでは話しにならないし、茂吉のようにミケランジェロを持ち込むのも見当はずれだとする。近代以前には、「芸術とパトロン」制とでも言うべきものがあって如是閑説も茂吉説も歴史的な視野があまりに狭い、と言う。
西郷氏の言うことももっともだが、人麻呂の長歌でもすべてが、王制讃美ではないし、赤人などは、宮廷歌人とも言いにくい、といった吉永氏の説にはどう答えるのだろうか。貴族的な王制では世界中どこでもそうだというけれど、日本の柿本人麻呂ははたしてそういうものなのか、西郷氏も茂吉と同じように技法のすばらしさを主張するが、そいうものを優れた文学とし、欠点は歴史的な制約といって見逃すのだろうか。如是閑ほどの否定はしないとしても、伊藤左千夫の非難ぐらいは認めてもいいのではないだろうか。吉永氏の非難も有力だと思う。

東京、長野、近畿の人口

2022年2月
東京都、1398,0485人、7644人減。
長野県、202,7499人、2042人減、世帯数452減。
大阪府、879,0602人、6551人減、世帯数2163減。
京都府、255,4189人、2693人減、世帯数1091減。
兵庫県、542,1275人、4566人減、世帯数1727減。
滋賀県、140,7891人、778人減、世帯数405減。
奈良県、131,2139人、1231人減。世帯数403減。増えたのは、香芝8、斑鳩11、三宅15、の3。
和歌山県、91,0164人、1065人減。世帯数269減。増えたのは、高野2。
和歌山市(35,3664)-奈良市(35,2551)=1113
人口世帯数ともにすべて減少。珍しい。和歌山、高野町だけが邪魔して全減少とならず。