2319、わざみ2

2319、わざみ2
西郷信綱、万葉私記。
高市挽歌の構造論といったところ。例の男の挽歌の系統という観点を堅持し、実際の乱の伝承、舎人集団としての立場、漢籍の影響、伝統的な儀礼歌(誄)の要素、などが融合した人麻呂特有の叙事詩風の長歌となったという。融合はいいけれども、あらためて高市挽歌を読んでみると、事実に合わない事が多すぎる。漢籍の部分も実際の壬申の乱の戦闘の事実とはあっていないようだし、神話の部分のちぐはぐさは西郷も認めている。地理も支離滅裂だが、これについては西郷は何も言わない。こんな歌は、壬申の乱の経験者が読んだら、幾ら空虚な儀礼歌的な部分と言われても、違和感が強いのではないか(文学性を阻害する欠点ともいえよう)。
そうはいっても、実戦で活動した人達は、自分の戦線以外のことはほとんど知らなかったのかも知れない。それなら主人公高市皇子の居た美濃の様子などは、高市の舎人達や、村国男依の軍にいた経験者に取材するべきだろうが、そこも書紀の記事とは合わない。あるいは書紀以外に、人麻呂の歌ったような事実が伝えられていたのか。それにしても違いがひどすぎる。こういうのを融合というのなら、虚構の作品としての融合として、もう少し壬申の乱の軍記的な要素を説明するべきだと思うが、何も言わないでとおりすぎてしまう(全体の分量としても簡単だが)。

村田正博、高市皇子挽歌、万葉集を学ぶ第二集、1977.12.15
作品としての價値への、土屋の疑問を紹介したあと、名作だという評価も紹介し、著者は後者に与して、挽歌詩人人麻呂の秀作として、この挽歌の構造をあかそうとする。その点、西郷と似た観点でもあるが、著者は、おもに歌としての表現技巧を取り上げ、高市皇子や人麻呂の足ることを知る謙虚な人格まで描いた傑作だとする。
著者の言うように、文脈や論理に未完成で曖昧な部分があることは、清水、橋本などの論文で知られているが、著者は、完成度の高い構造で十分に検算にに耐えるという。そこから、この挽歌の、事実とは思えないような表現も事実だとみようとする傾向は出て来る。たとえば、天武は野上行宮に行ったのに、歌では、和※[斬/足]行宮とあるのを、異を立てる必要はないといって一蹴している。
人麻呂の演練への努力を高く評価しているが、それを、高市の死に対する真率な悲しみによるとするのは、どうであろうか。事実ではないことによる頌讃というのは、けっきょく諂いであり、かつて言われた、御用詩人としての努力と言うことになろう。そういうものは本当の文学としては欠点であろう。「高市挽歌は、挽歌詩人人麻呂の慟哭によって生み落された絶唱として、はかりしれぬ重みをもつ」とまでいうのはどうかと思う。西郷の言うように、いろんな材料のつぎはぎであった。それの継ぎ目が隠れる程には熟していないし、事実でないことを忘れさせる程に、劇的な虚構が施されているわけでもない。一応辻褄は合っているのだが(歌の技巧は確かだ)、まだ壬申の功臣が沢山いた頃の作品としては、あまりにも嘘っぽいので、感動が空々しくなるということだ。つまり通用したのは、当時だけで、書紀などを普通に読める我々には、そんな虚構は通用しないということ。大学院生のころの原稿らしいが、感情移入と指導教官(伊藤博)へのすりよりが強すぎるようである。

清水克彦、柿本人麻呂――作品研究――、風間書房、1965.10.15、の「殯宮挽歌」の二。
「この挽歌もまた、宮廷儀礼歌の一つとして、天皇や宮廷を讃美する事を主眼としていた。そのために、挽歌の対象である高市皇子に、完全には焦点を絞る事が出来なかった。」と結論する。壬申の乱後の舎人の心情として当然だということのようだが、それは理解できる。また歌の中で、あくまで天武が主役で、高市は脇役にしか過ぎないというのは、事実をありのままに描写したからだというのだが、主役脇役はともかく、長歌全体の筋も事実のように言っていられるようだが、そこがひっかかる。天武の行動としても、例の、不破山越えて、とか、和※[斬/足]が原に天降った、とかいうのは、天武の神性ををあらわしたのはいいとしても、地理的に矛盾しているわけだが、なぜ人麻呂はそこで事実に合わない表現をしたのかが問われるだろう。それについては触れていない。

伊藤左千夫萬葉集新釋、の「柿本人麿論」より。
予が人麿の歌に對する不滿の要點を云へば、 
 (一)文彩餘りあつて質是れに伴はざるもの多き事 
 (二)言語の働きが往々内容に一致せざる事 
 (三)内容の自然的發現を重んぜずして形式に偏した格調を悦べるの風ある事 
 (四)技巧的作爲に往々匠氣を認め得ること 
これは、左千夫の人麻呂評として著名なものだ。近江荒都歌を批判した中に出て来る。徹底的に批判していて、左千夫らしく爽快だ。あと、吉野讃歌、安騎野の歌、でおわり、残念ながら高市挽歌などの挽歌類は全部略されている。なお、近江荒都歌でひどく貶した左千夫が、吉野讃歌を褒めちぎっているのもよく知られている。こちらのほうは、文彩や形式が、全体の調和を保つのに効果的で、凡句がかえってよい働きをするという。所謂声調というもので、配分が絶妙なのだという。このあたり、村田正博氏のいわれた構造の妙というのとよく似ている。
それはともかく、近江荒都歌で左千夫の抱いた不満は、高市挽歌にもかなり当てはまるようだ。地理的な矛盾というのは、(二)に当てはまるだろう。事実を無視した表現は四項目のいずれにも当てはまるだろう。(四)で言う、匠気というものも誇張した表現(事実ではないこと)に感じられる。しかし大長編にも拘わらず、緩急の妙というのがあり、読んで飽きないのは、左千夫が吉野讃歌を絶唱、傑作といい、村田氏が高市挽歌を構慥の巧みさで名作と言われたのに通じるところもある。なんとなく、近松の戯曲を長歌にしたように感じる。

齋藤茂吉の『柿本人麿』から、長谷川如是閑の人麿御用詩人説。
長谷川如是閑氏云。『人麿の方は全く空疎な漢文的誇張で、技巧としても低劣であるが、當時にあつては、漢文の誇張を邦語に寫すこと自體が一つの技巧であつたかも知れない。然し兩者の態度の何づれが、萬葉的であるかといへば無論後者(防人等の歌)であらねばならぬ。人麿の態度は、萬葉的であるよりは、「國史的」である。彼れが「歌聖」などと云はれたのは、かうした態度や、淺薄な、概念的な、然し幽玄らしく見える、かの有名な、「武士の八十氏河のあじろ木にただよふ波の行衛知らずも」式の態度で、環境も體驗もなしに、自由自在にいかなる歌をも詠み得る技術と、要するに、萬葉時代の人々の最も短所とするところを、長所として發揮したこと、そしてその技巧が後世の職業歌人の何人にも勝つてゐたことなどから來たものであらう』。(萬葉集に於ける自然主義。改造、昭和八年一月)『人麿歌聖論も一種の感情論で、しかも甚だ藝術的のそれに遠い感情ではなからうか。それは古今《こきん》以來の貴族生活に於ける、典型化した感情の形式を、盲目的に傳承せしめた階級的教化の奴隷となつた人々の感情ではないだらうかと思はれる』。『人麿の長歌は、いつも實感に乏しいので、單純な感覺を技巧的に表現する場合にも、當時の社會人の感覺からは隔りのある、舶來の支那的感覺を盛らうとする』。『人麿の歌は、此の二つの歌との對比によつて、甚しく御用詩人的淺薄性を鮮明にさせられ、又無内容の修辭家たる本色を暴露させられてゐる』。『私の意圖は、專門歌人の間に人麿の尊重されることは、藝術の本質から見て、墮落であるといふことをいひたかつたのである』。(御用詩人柿本人麿。短歌研究、昭和八年三月)。
これ以外にも附録として長々としつこく長谷川氏を批判している。

齋藤茂吉、柿本人麿、の高市皇子殯宮挽歌の評釈。齋藤茂吉全集 第十六卷、柿本人麿二、
評釋篇卷之上
これ以上ないというほどの長大な評釈で、要点を抜き出すのもやっかいだが、一応次の2箇所を抜いておく。

單に事柄本位の叙事詩的見地からすれば、人麿のこの長歌より複雜なものは支那文學などにも幾らもあるが、この長歌には日本語の長歌としてなければならぬものを具備せしめ、同時にそのために事實の單純化が行はれて居る。事實の報告よりも、響として傳へて居るのだから、人麿は彼一流の力をぼ其處に注ぎ、從つて省略融合の法を隨處に行つて居るのである。

この長歌は約めていへば、氣魄雄壯、詞|盛《さかん》である。眞率精切にして虚浮平鈍でない。讀者の精神を掃蕩せずんば止まないのはそのゆゑであり、人麿の全力的作歌態度がここに遺憾なく發揮せられたのである。

始めの方に省略融合とあって、西郷氏の言う「融合」を連想させるが、茂吉のは語句の融合であって、意味が違う。前後は全体として西郷氏や村田氏の言うことにもつながるようであり、茂吉の鑑賞力の確かさを思わせる。
あとのほうは、要するに全力的な作歌態度というよく知られた茂吉の評価だが、いいかえれば技巧に力を尽くしたと言うことだから、長歌を作ったことのない茂吉からすれば(茂吉は何度も長歌は作ったことがないので、人麻呂長歌の評釈は躊躇したと言っている)、そういう点に感心するしかなかったのだろう。しかしいくら真摯に全力で作っても、それが御用詩人としての職責なら文学的な価値は半減するのではないか。茂吉は、社会主義が嫌いだし、天皇制絶対信奉だから、長谷川如是閑などのいうことは全く受け付けないが、やはりそういう面も考慮すべきだろう。だから、あれほど地理考証に熱心だった茂吉も、この長歌での地理の矛盾は無視している。あっさりと、桑名から不破山を超えて不破(行宮)に入ったと言っている。また、和※[斬/足]が原も、伴信友に従って、簡単に青野ヶ原説を取っているが、それに対する有力な反論を全く考慮していない。また、この長歌で言われている内容は皆事実だと見なしているようだ。如是閑は、環境も体験もないのに達者な技術で造り上げたものだと言っているようだが、そこまでは言わないとしても、事実を曲げてでも劇的な効果の方を重視したといった傾向はあるだろう。
                                                (続く)

2318、わざみ

2318、わざみ
わざみの嶺
10-2348
わざみ野
11-2722
わざみが原
2-199
いざみの山の「い」が「わ」に置き換わったような地名で、これまた一応関ヶ原のあたりという通説はあるが、具体的に今のどこかという比定の問題になると不明と言うしかないほど難解だ。いざみの山は、普通名詞の山を導く序詞の一部だと言ったが、わざみの場合はどうもそうはいかないようで、固有名詞とするしかないようだが、それにしても「嶺」「野」「原」という三つの地形についており、有名な人麻呂の長歌にもあって、難解ながら、興味を引く。これは「そがひ」「いざみの山」のように、私見を出すというのはちょっと期待できない。
2-199、柿本人麻呂
…我ご大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして…

上田秋成、膽大小心録、中央公論社の全集第9巻230頁、156の大友皇子のところに出る。「わさみか原とは、今云関か原なり。天下の定めは必こゝに、とう万伎か詠し哥あり。」とあるだけで、証拠は出していない。
伴信友、長等の山風 附録一 壬申紀証註、「日本思想大系50、平田篤胤伴信友・大國隆正」377頁より。
美濃国(ノ)人云々、「和※[斬/足](ガ)原は今の不破(ノ)郡青野(ガ)原なりと云ひ伝ふ。」といへり。
これだけである。これ以外の論証らしいものはなにもない。解説で関晃氏も言われるように、証拠能力のランク付けが貧弱だ。

註釋、美濃國。
万葉代匠記精、天武紀上…。不破郡なるべし
童蒙抄、美濃國の地名也。日本紀巻第廿八大友皇子と…
考、不破郡にあり、
略解、不破郡なり。…和蹔に皇子のおはしまして、近江の敵をおさへ、天皇は野上の行宮におはしましつるを、其野上よりわざみへ度度幸して、御軍の事聞しめしたる事紀に見ゆ。
攷證、不破部なるべし。書紀…、高市皇子自2和※[斬/足]《ワサミ》1參迎云々とあるこゝ也。こは、天皇の、わざみが原の行宮へ、幸し…
古義、不破郡|和※[斬/足]野の原なり、2348の語釈で、「不破(ノ)郡にあり」
檜嬬手、各務郡也。式に美濃國各務郡和佐美神社有り。
安藤新考、不破郡
註疏、各務郡なるべし。神名式に美濃國各務郡に和佐美神社あり
美夫君志、不破郡なるべし。
新考、上田秋成の膽大小心録に「美濃國わざみが原とは今いふ關が原也」と云へり
折口辞典、関ケ原邊の地であらう。
新講、関ケ原
講義、青野ケ原なりといふ説のみ取りうべきを思ふ。この説は長等の山風に美濃國人の説なりといふ。青野ケ原は野上よりは東方にありて、まことに兵を練るに適する地なり。
全釈、關ケ原の舊名。地理については伊勢から不破山を越えて美濃に入ったと言っている。
土屋總釈、関ケ原に近い青野原であろう。同じ土屋の私注とは違う。
精考、關ヶ原のあたりだといふ事である。
金子評釈、關が原の古名。…その南邊の山は所謂和射見嶺である。松尾山これに當るか。
茂吉、柿本人麻呂、青野ケ原説有力である。
窪田評釈、『講義』は、『長等の山風』…、今の青野が原(赤坂町青野)であろうといっている。また、不破郡関が原町関が原の説もある。
全註釈、今の青野が原附近であろうという。(地理の矛盾について)ここは不破山のあなたにの意にかように言つている。
佐佐木評釈、關が原の地(膽大小心録)とも野上(略解)ともいはれる。
私注、関ヶ原
古典大系岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
注釈、関ヶ原。各種注釈の中では引用が一番詳しい。行程の矛盾については、作者は道順など詳しく考えず、音に聞こえた不破山を持ち出して、その山越えてと言ったのだろうとする。これまた穏当な説である。
古典全集、野上。付録では不破郡関ケ原町関ケ原とある。頭注と矛盾している。
集成、関ヶ原
全訳注原文付、関が原。
稲岡全注、私注の関ヶ原町野上説支持(和歌文学大系と同じ)。地理の矛盾は当時書紀以外にあった道順の説明に由ったのだろうとする。
新編古典全集、岐阜県不破郡関ヶ原関ヶ原の野。不和山越えの矛盾を指摘。
釈注、関ヶ原説と大垣市青野ヶ原説とあるが、…前者が適当。
和歌文学大系、関が原町野上のあたりか。
新大系岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原.書紀・天武元年6月…「和暫」と書かれる.
全歌講義、岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原。不破山を越えて和射見が原に出るのは事実に合わないが、虚構として許されたのだろうという。
全解、○和射見が原-関ヶ原。○行宮-天武の本営は実際には和射見の東約二キロの野上にあった。

最近のになると、ほぼ関ヶ原説に絞られており、一説として、野上説、青野が原説に言及される程度である。
関ヶ原説(秋成)、全解、全歌講義、新大系、釈注、新編全集、全訳注、集成、古典全集附録、注釈、古典大系、私注、金子評釈、精考、全釈、新講、折口辞典、新考、
野上説、和歌文学大系、稲岡全注、古典全集頭注、
青野が原(長等の山風)、全註釈、茂吉柿本人麻呂、土屋総釈、講義、       
関ヶ原、野上を出し態度保留、佐佐木評釈、
関ヶ原、青野が原を出し態度保留、窪田評釈、
稲岡氏が野上説なのはよく分からない。青野が原説は、武田、斎藤、山田といった有力な注釈書が支持しているのは気になるが、特に根拠を示すわけでもない。伴信友という名前を信じたのだろうか。信友は非常に詳しいように見えるが(本編と附録を読み通すだけでうんざりする)、資料批判が弱いし、美濃の人が言っているからでは、江戸期のいい加減な地誌類とかわりない。最近ので、関ヶ原説一本になったのは、関ヶ原は天武の居た野上行宮より西の方で、近江方を迎え撃つ最前線になるが、青野が原では、野上行宮よりはるかに東方で、近江軍への防衛に役立たない(天武の居る野上行宮が手薄になる)といったことが根拠らしい。

直木孝次郎「壬申の乱 増補版」、わざみが原は関ヶ原というのが通説とし、野上行宮あとの考証や、軍陣の配置の説明など、さすがに詳しい。青野ヶ原説など見向きもされない。
歴史の旅 壬申の乱を歩く、倉本一宏、吉川弘文館、2007.7.1
だいたい題名からして啓蒙書であるが、わざみが原については、単に関ヶ原というだけで、異説の紹介もそれとの比較検討も、また万葉集の歌における地理的な表現の仕方にも何一つ触れることが無く、簡単すぎる。そのぶん、写真と地図が大量に挿入されているが、残念ながらほとんど参考にならない。地図は、現在の地形図をそのまま使っているから、宅地、工場、新幹線や高速道路などが所狭しと記入され、古代の地形も分かりにくい。自分で地図を見れば分かることだが、関ヶ原(いわゆるわざみ)から天武の行宮のあった野上まで約三キロで、関ヶ原は一キロ四方の盆地だという。山の崎が出たり入ったりしているから、はっきりしないが、ちょっと狭すぎる。1.5キロ四方はあるだろう。それにしても狭い。天武側の本隊とも言える高市軍が駐屯し訓練するには窮屈だろう。それにたいして、野上の東方3キロほどの青野ヶ原は、垂井町大垣市にまたがる広やかな田園地帯で、濃尾平野の北西部を構成するほどだから、まさしく原であり、高市軍の駐屯地としては適している。野上は南北の山が迫っており、大軍の駐屯には不適であり、稲岡氏などのわざみが原野上説は認めがたい。一寸した谷間だから、天武行宮の守りは、天武直属の精鋭部隊で十分だろう。いざとなれば青野ヶ原へ退却すればよい。近江方への最前線になるのはおかしいと言うが、関ヶ原よりなお狭い、不破山の道は、すでに、多品治によって閉塞され支配下にあるのだから、そう簡単に近江軍が越えてくるわけでもなく、野上からはせいぜい5キロか6キロだから、異変があればすぐに情報が入る。常時本隊の高市軍を狭い関ヶ原(いわゆるわざみ)に駐屯させる意味はないと思われる。野上は伊勢(東海道)方面、東山道方面の情報が集まる垂井(美濃国府があった)にちかく、天武の本営にはぴったりであり、青野ヶ原はその後背地を支えるだけの便宜を持っていたであろう。美濃国分寺もある。というわけで、わたしは、和※[斬/足]が原は、通説の関ヶ原説よりも、伴信友の言い出した青野ヶ原説のほうが優っていると見たい。

岩波古典大系日本書紀下」の「巻第二十八(通称壬申紀)」から参考事項を摘記。
和※[斬/足]という地名はかなり出る。頭注では簡単に関ヶ原とするが、確かにそうと言える根拠はない。不破というのも何度か出るが、特定の地域をさすというより、不破郡全体をさす大地名と言える。野上行宮を不破行宮とも言うし、高市皇子を不破にやったというのも、不破郡に遣ったということのようだ。村国男依が不破山の道(この場合は特定の道を意味している)を閉塞したのは3000人の兵であった。これでもう、近江美濃国境から、関ヶ原一帯は十分閉塞できるのだろう。高市皇子などの本隊が近江への総攻撃をかけたときは10万人とあるから、全部が同じ場所に居たとは限らないとしても、やはり関ヶ原では狭すぎるだろう。青野ヶ原は、野上行宮の東方で、近江への前線ではないと言うが、だいたい当時の高市皇子はまだ19才で、その後も前線で活躍した話は出てこないから、天武天皇の前方に居る必要はなく、後方で、軍隊の訓練や作戦などに励むのでいいだろう。実際の前線での軍事行動などは、もっと有能な人物があたったようだ。
6月26日、朝明郡家につく頃、村国男依、美濃の兵三千人で不破の道を塞いだと報告。
高市皇子を不破に派遣して軍事を監察させる。→この不破は特定の地域(関ヶ原とか)ではなく、不破郡といった大地名だろう。朝明からでは遠い。
27日、高市皇子桑名郡家の天武に近いところに来て欲しいと要請。不破に入る。    →この不破も大地名だろう。途中不破郡家(垂井町野上)に寄っているか    ら、関ヶ原の別名が不破なら、かなりの迂回になる。
野上(不破郡家から北西1キロ程)につくと、高市皇子が和※[斬/足]から来て迎えた。昨夜近江からの急使を捕まえたと報告。→和※[斬/足]から、野上の隘路を見張っていたのだろう。東山道へいくものは必ずそこを通る。
天武が軍議の不安をいうと、高市皇子が諸将を率いて征討するから大丈夫だという。→頭注ではこのとき最年長皇子の高市でさえ十九歳と推定。
天武、軍事の一再を高市に授ける。
      天武、行宮を野上に作る。
  28日、天武、和※[斬/足]に行き、軍事を見る。
29日、天武、和※[斬/足]に行き、高市に軍隊への号令をさせる。→高市に軍    事を委ねたとは言っても、やはり天武が指揮したのだろう。
7月2日、天皇、村国男依…に数万の兵で不破から直接近江に入らせる。→明らかに高市     の指示ではないし、(鈴鹿、伊賀、方面に対して)不破からというのだから、     関ヶ原でも青野ヶ原でもよいが、数万とあるから、関ヶ原に駐屯していた兵だ     けでは無理だ。
          近江方、不破を襲うために犬上川のあたりに陣地を置く。
男依が大将となって、息長の横河、鳥籠の山、安の河、栗太、と勝ち戦を続け瀬田に至る。男依ら近江の将を粟津市に斬る。
26日、将軍等が不破宮に参上した。不破宮というのは野上行宮のこと。
8月25日、高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状をいわせる。→やはり高市は事務だ。
9月8日、帰途に就き桑名に宿る。あと、鈴鹿(9日)、阿閉(10日)、名張(11日)、飛鳥(12日)へと、逆コースをたどる(宇陀からは吉野ではなく初瀬経由で飛鳥に向かった、当然だ)。                                      (以下続く)

2317、そがひ追補

2317、そがひ追補
もう一つぜひ読みたいと言ったのは
奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」萬葉集研究第32集、2011.10.20
であった。しかし読んでみて、すぐにこれではないことが分かった。私が再読したかったのは、暦日などの考察から、池主たちが見た朝日のさす立山の位置などを考察したものであった。もうひとつ私が読んだ可能性のある雑誌があるが、目次の検索が出来そうもないので諦める。だれも引用しないところを見ると特に読む必要もないようだ。それにしても私自身どこにもメモしていないのは情けない。ところで、この奥村氏のも以前読んだものだが何の印象もない。論題からすれば、池主の「朝日射しそがひに見ゆる」は当然論点になるだろうし、論文全体の主張が、赤人との関連を論じているところから、中西進氏が言うように(『大伴家持』)赤人の頻用した「そがひ」を池主の長歌の冒頭も受けているのだから、論じるだろうと期待したが、完全に捨象されている。それだけでもう読む価値がない論文だ。さらに、前半三分の一ほどの大きな論点である、立山神奈備山説も、論拠が貧弱で承服しがたい。片貝川立山からかなり離れていると認識しながら、片貝川神奈備山としての立山の裾を帯のように流れているというところなど、支離滅裂と言わざるをえない。そのもとになった、中西進氏や橋本達雄氏の説なども単なる思い付き程度だ。だいたい、地図を見るか現地に行くかすれば、そんな説が成り立たないことはすぐにわかる。立山から流れ出るのは常願寺川であって、片貝川ではない。片貝川は、立山剣岳から北に離れた毛勝山から流れ出て、立山の方に向かうことは一切なく、真っ直ぐ北方の日本海に注ぐ。それに神奈備山というのも、立山にはふさわしくないだろう。神奈備山は三諸ともいわれるように、低い山の樹叢がふさわしい。明日香や、三輪、竜田のが知られているが、三輪山以外はほとんど山とも呼べない。大和では葛城山ぐらいでも、もう神奈備ではない。まして中腹以上、草と岩と雪しかないような立山は神の山ではあっても、神奈備山とはいえないだろう。中西進氏の根拠のない思い付きに乗りかかってしまった奥村氏の失錯である。

ここで以前の説を少し修正しておく。片貝川の河口付近から見た毛勝山を当時は立山と呼んでいたのだろうと言う説に従ったが、立山本峰とは600メートル程の高度差があり、いくらなんでも、それを無視して毛勝山を立山と呼ぶのはおかしい。伏木あたりにいた家持や池主が、たとえ常願寺川の源流の立山に登山したことが無くとも、そのあたりが主峰だということぐらいは、遠くからの観察でも、また地元の役人たちの報告からでも知っていただろう。では、なぜ毛勝山を立山と言ったか。要するに、立山連峰浄土山から毛勝三山あたりまで)をひっくるめて立山と言ったのであって、毛勝山とか、猫又山とか、剣岳とかいったこまかい呼び分けはしていなかったと言うことだろう。ちょうど、大和平野の葛城連峰のようなもので、今は、金剛山葛城山を一つの名前で呼ぶことなどはあり得ないが、万葉のころは、ただ総称して葛城山といっていた。だから池主たちの意識では、毛勝山ではなく、立山だったのだ。大きな立山立山連峰)を北の方から(そこからは毛勝山しか見えない)見て、立山と呼んだということになる。
金剛山葛城山は大阪から見ると、はっきり別の山だが、奈良側から見ると、かなり南によっていて、金剛山葛城山の背後におおかた重なってしまう(ただし御所市から南でははっきり二山に分離して見える)。その点からも、全体を葛城山と呼んだのは頷ける。ひょっとしたら、金剛山という名も大阪側のほうが親しい。金剛山の山頂は大きく奈良県の行政区域になっているが、そこにあるのは葛木神社であり、そこの神職は葛城氏である。

 

2316、去来見山(いざみのやま)2

2316、去来見山(いざみのやま)2
次の二首が、44番歌ににた技法の歌とされる
73 長皇子御歌
我妹子を早見浜風大和なる我を松椿吹かざるなゆめ
2752 我妹子を聞き都賀野辺のしなひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば
3627 属物發思歌一首并短歌
朝されば 妹が手にまく 鏡なす 御津の浜びに 大船に 眞楫しじ貫き 韓国に 渡り行かむと 直向ふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈引き行けば 沖辺には 白波高み 浦廻より 漕ぎて渡れば 我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隱りぬ さ夜更けて ゆくへを知らに… 
まず、73番歌。
拾穂抄、早見濱見安云名所也或説筑後或は近江云々
代匠記精、早き濱風なるべし、(難波に早見という地名はない)→初も同内容
僻案抄 早見濱《はや(つと?)みはま》は、難波の濱の名なるべし。
考、豐後に速見郡あるが如く、難波わたりにも早見てふ濱ありて、
略解、豐後に速見郡有り。攝津國にも有るか。
楢の杣、早見の濱の名に掛て
燈、猶攝津國にありし濱の名にぞあるべき。
攷證、濱行風のいやはやにてふ歌に依て、地名にあらずといへど、此歌、さては叶はず云々といはれしかど、いかゞ。→つまり非地名説。
古義、攝津(ノ)國の地(ノ)名なるべし、
檜嬬手、津(ノ)國の内ならん。
安藤新考、玉小琴云見濱は御濱にてたゝ濱のことなるへし
註疏、早見濱は津國の地名歟
美夫君志、早き濱風といふを、吾妹子をはやく見むといひかけたるなるべし。早きを早みといひしは、卷十一に泊湍川速見早湍乎結上而…
左千夫新釈、訳、海上から都の方向へあゝ心地よく吹く濱風よ、…
新考、眞淵は…。宣長は…。契沖は十一の卷にハヤキ早瀬といふことをハヤミハヤセといへる類にてハヤキ濱風といふ事なりといへり。是最穩なり。
口訳、…この早見の濱を吹く風よ。…
講義、(考の説)地名のありし證なし。契沖の釋せるうちに卷十一…を證として早き濱風の意とせるあり。この點は從ふべきなり。
全釈、早見濱といふ地名と解する説もあるが、難波邊にその地名がない。…、早い濱風の意らしい。
總釈、はやみは、淨み原、赤み鳥などの例と同じで、形容詞の連體形である。
精考、玉(ノ)小琴は「見濱」は「御濱」でたゞの浦の事、妹を早や見むと言ひかけただけの事と説いてゐる。(これは御津を御濱といつたものと見るのであらう。)…、比較的穩かな見解であらうか。
金子評釈、濱の名の「早見」をいひ懸けた。…地名にあらず…。これも一説ではあるが却つて面白くない。すべていひ懸けは語質の違つたもの程その妙味を増して、しかも簡明になるもので、こゝも地名と「早見む」の語意とを抱合させたのである。さて早見の濱は…難波附近にあつたものか。
窪田評釈、訳、吾妹子を早く見るという名をもっている早み浜風よ。…「早み」で、これは形容詞の連体形で、浄見原、朱鳥などと同じ例である。
全註釈、訳、… その早く吹く濱邊の風よ、…。…ハヤミは、淨み原、赤み鳥などの例と同じく、連體形である。
佐佐木評釈、「早み濱」を地名とする説(奧儀抄、考)に從へば解しよいが、難波附近にさういふ地名はない。早みは朱《あか》み鳥、速み早瀬などと同樣、早きの意で、ここは妻を早く見たいの意に、早く吹く濱風とかけたもの。
私注、…ハヤミハマは地名であらう。…地名でなく(説もあるが)…、歌調からすれば、地名でなくては收まらない句だ。
大系、訳、わが妻を早く見たいと思う私の気持のように早く吹く浜風よ、…
注釈、訳、…早く吹く浜風よ…。
古典全集、訳、…はやての浜風よ…。地名としない。
古典集成、早見を地名とする。
全訳注原文付、訳、…住吉の松を吹く風よ…。早い浜風とする。
全注、釈注と同じ。非地名説を出し、「ここは四四などの例により地名と見る。」とする。
新編全集、訳、わが妻を 一日も早く見たいはやての浜風よ…。早み浜風-早く吹く浜風。
釈注、訳、我が妻を早く見たいと思う、その名の早見浜風よ、…。早見」は大阪市住吉付近の地名であろうが、所在未詳。
和歌文学大系、○吾妹子を早見浜風-吾妹子に早く逢いたいという名の早見浜を吹く風よ。「吾妹子を」は「早見」にかかる枕詞。「我妹子をいざ見の山」(四四歌)というのに類似。ハヤミは早く見たい意と早見浜の地名との掛詞。早見浜は大阪市住吉区付近の地名だろうと思われるが未詳。
新大系、訳、我が妻を早く見たい、その早い浜風よ、…。∇「早み」は、早く見たい意と、早い意の「早み」を掛ける。地名とは見ていない。
全歌講義、訳、私の妻に早く逢いたいと思う、その心せく思いと同じように、早く吹く浜風よ。大和で私を待っている椿のように美しい妻に私のこの思いをきっと伝えておくれ。地名とは見ていない。しかし説明は何もない。
全解、訳、わがいとしい妻を早く見たい早見の浜風よ、大和で私の帰りを待っている松や椿をも吹き忘れるな。けっして。「早見」は住吉の地名らしいが、未詳。

地名説、拾穂抄、僻案抄、考、略解、楢の杣、燈、古義、檜嬬手、註疏、口訳、金子評釈、私注、古典集成、全注、釈注、和歌文学大系、全解(17)
非地名説、代匠記、攷證、安藤新考、美夫君志、左千夫新釈、新考、講義、全釈、總釋、精考、窪田評釈、全註釈、佐佐木評釈、大系、注釈、古典全集、全訳注、新編全集、新大系、全歌講義(20)
四捨五入して2つに分けたが、これで十分だ。拮抗しているように見えるが、地名説は江戸期に多く、それを軽く見れば、非地名説の法が優勢だ。しかし根拠は、代匠記と考以来ほとんど変わっていない。地名説では、最近の私注でも、地名でなければ歌にならないとか、今どこにもないような小さい地名でも歌には詠まれるといった主観的なものだ。あとは、一連の伊藤博のと、稲岡、多田ので、考とかわりない。非地名説は、代匠記が言った、「早み」の「み」は連体形の意味で、集中に「早み早瀬」という用例があるという根拠をずっと受け継いでいる。その間に、表現の技巧を少しずつ挟み込んだりしている。とにかく、近代以降の支持の多さから言えば、非地名説がいいように見える。たしかに、住江あたりに、早見浜といった地名はありそうにない。「み」という連体形に違和感を持つ人もいるが、「早き浜風」と素直に言ったら、妻を早く見たいというのと掛詞にならないし、掛詞にしたいから「吾妹子を」と言ったので、勢いとして「早見・早み」というしかない。ちょっと落ち着きのない感じもするが、諸注のいうように、石上麻呂の44番歌の「吾妹子をいざみの山」を受けているのは間違いなかろう。
(いざ見の)山
(早見)浜風
では、「の」「み」の違いがある。早い浜風は、掛詞からきたとしても、浜風の強さが、妻を早く見たいという心とよくあっている、いっぽう、いざみの山は、さあ妻を見ようというのと、視界を遮る山とがしっくり合わない。つまり長皇子のような調子のよい技巧がなく、ぎくしゃくとしている。その素人臭い、素朴なところや、民謡的なところがいいのだろう。長皇子の歌では、非地名説が優勢だったが、なぜか44番歌は、地名説が定説に近い形だ。こちらのほうも、いざみの山などという山はありそうにないのだから、非地名説がいいだろう。早い浜風に対して、さあ見ようとして(登る)山、一方はただの風であり、一方はただの山、ということだ。後者のは、序詞の部分がややピントがずれていて、歌としての統一感に欠けるが、それが先にいった、素人的、民謡的ということだ。

もう一つ15-3627の例を挙げておいたが(伊藤博の全注巻1が出していたもの)、それは
…(我妹子に) 淡路の島は …(我が心) 明石の浦に…
と訳されるような枕詞で、淡路についで、同歌中に、明石まであるように、掛詞で地名にかかるという普通の技巧であって、「早見」や「いざみ」のような非地名にかかる技巧とは少し違うので、例としては取り消す。要するに、伊藤は、いざみの山も、早見の浜も、みな地名と見ているから、3627番の例も挙げたのだろう。

 

東京、長野、近畿の人口

2022年1月
東京都、1398,8129人、9872人減。
長野県、202,9541人、1415人減、世帯数398増。
大阪府、879,7153人、4108人減、世帯数781減。
京都府、255,6882人、1884人減、世帯数647減。
兵庫県、542,5850人、2847人減、世帯数692減。
滋賀県、140,8669人、418人減、世帯数354減。
奈良県、131,3370人、816人減、世帯数146減。増えたのは、香芝6、平群2、斑鳩5、広陵60、の5。
和歌山県、91,1229人、812人減、世帯数270減。増えたのは、岩出23、上富田6、すさみ4、古座川1の4つ。
和歌山市(35,3985)-奈良市(35,2818)=1167
長野県だけが世帯数増というのは変わっている。調整をするのか数字がころころ変わるので増減が分かりづらい。奈良や長野は先月よりかなり増えているのに、減少とは?

2315、去来見山(いざみのやま)1  

2315、去来見山(いざみのやま)1           
これはほぼ通説が出来ていて、今さら問題にすることもなさそうだが、私も昔からいろいろ考えてきて、通説も異説もすべてだめで、別の解釈が出来そうに思えてきた。通説にしてもまともな論拠などないもので、これからも永久に出るはずはないから、私の新解といってもただの推測であることは言うまでもない。とりあえず下ごしらえ。
仙覚註釋、伊勢國也。
拾穂抄、仙曰いさみの山伊勢国
代匠記精、伊勢也
僻案抄、見の山といへる山の名にて
考、伊佐美の山か、佐美の山。
略解、考と同じ。
楢の杣、是は若磯邊の山と云にはあらぬか、いさみといそべと同音にて通ふべし、磯邊は志摩の國に屬《ツキ》たれど、山ひとへのみ隔りたれば、此度の道行ぶりに過る所なるべし、山高みとあるにつきていはゞ、今の磯邊と朝熊《アサマ》山との間に今は山伏嶺と呼高峰在、是やそれか、心あてして云のみ。
燈、伊勢・伊賀・志摩なとのうちにある山
攷證、考の引用のみ。
古義、槻落葉云…二見の浦なる…これぞ佐美の山なるを、…此二見の浦より阿胡にいたりまさんには、此山の東より南に折れて、鳥羽に御船はつべきなれば、二見が浦をいでます程は、大和の國より越ませし山々も、西のかたに迄に見放らるゝに、此山をしも榜廻りまして東南に入ては大和の方の見えずなりぬるをかなしみて、かくはよみ給へるなるべしといへり、
檜嬬手、佐美山にかけたる也。…二見浦近き山也。今も其山の麓の小川を佐美川と云ふとぞ。
安藤新考、古義と同じ。
註疏、古義と同じ。
美夫君志、古義と同じ。
左千夫新釈、佐見の山と云ふ説といざみの山との説と二つあれど判然せぬ、…、何れにしても伊勢の國にある山に相違ない、訳では佐見の山としている。
新考、伊勢國にイザミノ山といふ山あるべし。
口訳萬葉集、かもといふ語が、押韻とおなじ效果を持つてゐる形の傑れた音楽的な歌。
講義、倭訓栞…。宮内黙藏…高見山の一名を「去來見山」とせり。…この山はこの附近にて最も高きと共に、古より今に至るまで吉野と伊勢神宮との交通の要路たり。著者また明治二十九年に鳳鳴義塾の生徒と共にここを越えたることあり。按ずるに、この山かく大和と伊勢との堺として名高く且つ實際に高き山なるによりてかくよめりしならむ。
全釈、大日本地名辭書…高見の別名なりといふ。
總釈、高見山の一名であると云はれてゐる。
私解(花田比露思)、
伊賀の名張より伊勢に越す峠路に於て詠まれたものであつて、歌の意味は「吾妹子をいざかへりみんとて、振り返つて見れば、遙か向ふに山があつて、其の山の高い故にか、あたら大和は見えない。さるにても大和は隨分遠く隔つたことであらうまあ」といふのであらう。
44番歌についてこれほど詳しく考察したものはない。その結論が上記のものだがだいたい首肯できるものである。つまり「いざみの山」というのは、固有名詞ではなく「吾妹子をいざ見の」が「山」を導く序詞だというのである(そう言う言い方はしていないが論理としてそうなる)。これは全く他に見ない説で私もそうだと思う。ただし名張伊賀間の峠(青山峠しかないが)から大和の方を振り返ったというのは、あたらない。著者は実地を見たことがないようだが、それがすぐれた思考の足かせになっている。私は伊賀はくまなく行き、青山峠も青山高原も行き、その向こうの二本木や雲出川源流域も歩き、松坂も歩き、志摩方面も何度も行ったが、花田氏の言われるようなことは、歌からは読み取れない。固有名詞ではないと言うところだけが同意できる。青山峠は伊勢側から登るとかなりの傾斜で、降雪時に車で行ってかなり苦労した。峠までは左右に山が迫りかなり窮屈だ。峠を越すと傾斜は緩やかで、しばらくで、伊賀神戸桔梗が丘あたりの伊賀らしい、丘陵と水田の混じった風景が広がる。低い丘陵がちょっと邪魔するが、大和方面に高い山などはない。つまり大和を遮るような山はない。室生村の笠間方面の低い山が見えるのであって、つまり青山峠あたりからは、大和室生の山々が見えるのである。「大和の見えぬ」どころではない、伊賀の盆地部からは、たいがい大和高原が見える。名張から見る笠間もいいが、上野から見る神野(こうの)山などはなかなか見事だ。
そして、青山峠あたりでは、まだ国が遠いという感じはしない。宇陀郡や大和高原の山々が近くにみえ、大和の続きという感じである。青山トンネルといえば、だれもが知る近鉄一番の長いトンネルだが、名古屋や伊勢志摩へ行く時はこのトンネルがおおきな境界であった。これを出て、伊勢石橋あたりに来ると、まったく雰囲気が違う。関西とは違う感じが強い。川合高岡や伊勢中川あたりの広大な水田地帯は、奈良や大阪ではみられないものだ(行かなくなってずいぶんたつから、今はそうとう都市化しているだろう)。まさに「国遠みかも」である。大和ははるか遠くになってしまったとは、だれもが思うことだろう。
付載さてている、佐々木彌四郎氏の「去來見山の所在に就て」に
いざみの山の歌の趣は阿保から一志郡へ今の伊勢地の三里の山越えをして一志都の平坦部へ出てホツト一息きすると同時に、過ぎ來し方を顧みて都を離れて既に山川幾百里を經た樣な感じを起し伊賀伊勢國境に亘る連山を眺め偖こそ吾妹子をいざ見むの意を寓していざみの山など詠んだのではあるまいか、自分はこんな風に考へて居る、從て去來見の山なる名稱の後世に殘て居らぬが當然だと思て居る。
ちょっと分かりにくいところがあるが、地元の人のいうことだけに実感がある。江戸時代の地誌などをあっさりと否定して「いざみの山」などはどこにもないといわれるのだから、一志郡の平地部から振り返った連山(つまり青山峠を含む布引山地のことだろう、宣長も菅笠日記でこの山地を印象深く描いている)を、「いざみの山」と造語したのだろうというわけだ。これは造語の部分を除けば、花田氏の説よりももっとよい。
精考、荒木田久老は「さみの山」説を取り、…高山たるを要せぬ(多分歌を詠んだ處に近い山であらう)。…「さみの山」への言掛と見るが比較的ふさはしいかと思はれる。
金子評釈、宮内黙藏…高見山の一名を去來見山とし、倭訓栞に…
窪田評釈、高見山であろうという。
全註釈、宮内黙藏…高見山の一名としている。
佐佐木評釈、高見山をさすといはれる。
私注、所在不明。高見山とするのは「高み」と言う語に依るのだろうが、それは間違い。当時は名張経由だったし、伊賀伊勢の途上でも殆ど見られない、とする。
古典大系高見山といわれる。
注釈、非常に詳しいが江戸時代の地誌類や地元の古老の説などいくら詳しくても價値がない。結局伊勢大和国境の高見山というわけだが、伊勢の平原から見える見えないは問題ではなく、勢和国境の名山として詠んだものだとする。沢瀉は伊勢の人だから地元の地理には詳しい。ようするに伊勢平野からはっきりとは高見山は見えないということだ。高見山のすぐ南からは、大台ヶ原に続く高山が連続しており、たとえかすかに見えたところで、殆ど意識にのぼるような山ではない。この山は、高見峠をこえて吉野や和歌山へ往還する人々にだけ印象に残る。その東西の谷沿いで見通しがよい場所では、見事な尖鋒として見える。そこを通ったことがない人には、あるいはそこを通る人からの情報がない場合は、まったく問題にならない山である。
古典全集、高見山かという。
集成、伊勢・大和国境の高見山か。
全訳注原文付、高見山という。この時の行幸は、伊賀を通ったので、伊勢に出て大和方面にこの山を望んだことになる。
伊藤全注、伊勢と大和の国境いにある高見山か。
新編全集、高見山かという。
釈注、伊勢と大和の国境にある高見山であろう。
和歌文学大系、高見山かという。…雄大な山容は各所から遠望されたので国境の山として意識された。持統六年伊勢行幸時には、この道を通ってはいないが、伊勢方面から国境の山を望見しての作。
新大系高見山といわれる.
全歌講義、高見山。…。大和・伊勢の各所から望まれる山。この時は伊賀を通ったので伊勢に出て大和方面を望み詠んだのであろう。国境の山として、旅人に強く意識されていた山と思われる。
全解、高見山(一二四九メートル)のことという。

荒木田久老の説は、槻落葉別記の「○幸2伊勢國1。」にある。内容は古義の引用に尽きる。

万葉地理関係の参考書はみな省略する。注釈書類と似たり寄ったりではなんのための地理かわからない。
古くは、荒木田久老などの説がかなり支持されたが、いろいろと批判され、沢瀉注釈によって決定的に葬られたようだ。その後、宮内黙藏の高見山説などが支持され、山田講義なども自信たっぷりに賛同している。その後批判はあったものの実地踏査による支持などもあって今もおおかた支持されている。しかし、稲岡、阿蘇などの「雄大な山容は各所から遠望されたので国境の山」「大和・伊勢の各所から望まれる山。」などというのは、まったくの空想に過ぎない。犬養などのいうことを真に受けたか、拡大解釈したかであろう。土屋が明言しているように、今の近鉄大阪線ぞいのルートでは、ほとんどどこからも見えない。また奈良盆地のどこからも見えない。「国境の山として、旅人に強く意識されていた山と思われる。」などというのはとんでもないことだ。今でも奈良県人でも高見山などは登山愛好者以外はほとんど知らないだろう。同じ国境でも、葛城山二上山生駒山などと同一視してはならない。犬養の「万葉の旅」は広く研究者に参照されている。特に、稲岡、阿蘇はその傾向が強い。しかし、鵜呑みは極めて危険である。特に写真には要注意だ。あれは犬養が見たい眺めをわざわざ切り取って写したものにすぎず、万葉の歌人達が見た風景とはかなり違うと思わねばならない。たとえば、上巻172頁「六田の淀」では、中央遠くに見事な高見山の先峰が写っているが、これで吉野川櫛田川沿いを行く通行人がみなそういう高見山を見ていたと思ってはならない。だいいちあの写真は、吉野川の河原からとっている。旅人が川原を通路にしたことはあり得ない。それに、レンズのごまかしもあるだろう。肉眼で写真のように見えるかどうかも問題だ。なお、大淀町あたりは開けていて見通しがいいので、桧垣本の高台(町立図書館のあたり)からも高見山は見えるし、そこだと大峰も見える。ただしよく見ないと気づかない程小さい。それが上市に近づくに連れて、両岸が狭まってきて、もうどこまで行っても見えない。次に見えるのは東吉野村の木津(こつ)峠で、これはまさに、スイスのマッターホルンを思わせる圧倒的な山容だ。ただしこの高見峠越えなどというのは、和歌山伊勢を往復するのには近道だが(特に、松阪や宇治山田に用のある人)、奈良盆地の居住者はもちろん、吉野の人でも東吉野から宇陀郡の方へ廻るから、奈良や大阪の人には縁のないルートだ。今は高見峠もトンネルで楽だが、それでも山深い(松阪まで遠い)。こんな山がよく知られた国境の山であるはずがない(特に万葉人の場合)。これをいまだに信じている有名注釈書があるのは嘆かわしい。せめて所在不明程度にするべきだ。
ということで、高見山説はもちろん、沢瀉注釈説も否定される。それにしても伊勢を郷土とする沢瀉が、高見山は伊勢からはほとんど見えないというようなことを言っているのに、それを無視して、大和・伊勢の各所から望まれるなどというのは、無責任極まりない。それはともかく、一応無難なのは、さすがというか、地理に詳しい、土屋私注の所在不明説だ。しかし、これも「いざみの山」を固有名詞として、どこかにあるだろうとは言っていることになる。そこが認めがたい。だいたい、「しおみ」「くにみ」「とおみ」「いそみ」「さみ」「あさま」といった山はあちこちにありそうだが、「いざみ」という山はなさそうだ。伊賀伊勢大和あたりでも、いくら探してもありそうにない。だから、花田説が正解に近いのだが、青山峠あたりから大和を振り返った時に見える高い山という設定は間違いだろう。だからその点は花田説に付載された、佐々木彌四郎氏の雲出川の平地部に出て青山峠一帯(布引山地)を振り返ってのものというのがいいのだが、その山を「いざみの山」と呼んだというのは従えない。それに佐々木氏だけでなく、すべての説がそうだが、「我妹子をさあ見ようという名のいざみ山が高いせいか」という解釈もおかしい。山が高くて妹のいる所が見えないというのなら、「いざみ(さあ見よう)」という名前はふさわしくないだろう。ここは、登って妹のいるあたりを見るための山なのに、山は山でも、今は、妹のいるあたりを見せなくしている高い邪魔な山だ、というのだろう。
 補足、私が若かったころ、梶光夫の「青春の城下町」という歌謡曲がはやった。
流れる雲よ 城山に のぼれば見える 君の家 灯りが窓に ともるまで 見つめていたっけ 逢いたくて ああ 青春の 思い出は わがふるさとの 城下町
山は恋人の家を見るためにもある。また国見のためにもあった。烽火台などは各地にあったようだから、山は遠望のために欠かせない存在だったのだ。
次に、大和が見えないのは、いざみ山が高いからか、國が遠いからか、と二つの疑問を並べたわけだが、一方に固有名詞があり、一方にないというのは、釣り合いが悪い。山が高いからか、国が遠いからか、としたほうが感じがよい。実際雲出川下流に来ると、ずいぶん大和からは離れた気分がするし、越えて来た布引山地も山また山という感じだ。またこの山は青山高原というほどに、なだらかな稜線で、どこといって~山と言えるようなめだった頂上がない。もし、いざみの山が高いからか、というのなら、後の方も、伊勢の国が遠いからか、というべきだろう。それでは歌にならないといっても、そのほうが分かりやすいのは確かだ。とにかく、雲出川下流域で歌を作って披露したのなら、山がどの山で国はどこかなどというのは、一行のだれにでも分かるだろう。
以上、強力な論拠と言う程ではないが、イザミ山=高見山説の到底なり立ちがたいのよりはましであろう。
ところで、
  我妹子をいざみの山
          山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
のように一句と二句の途中までを「山」を導く序詞とするような歌の型があるのだろうか。(続く)

東京、長野、近畿の人口

2021年12月
東京都、1399,8001人、4562人減。
長野県、201,7971人、1550人減、世帯数479減。
大阪府、880,1261人、3358人減、世帯数249増
京都府、255,8766人、1122人減、世帯数61減。
兵庫県、542,8675人、1862人減、世帯数は92減
滋賀県、140,9087人、155人減、世帯数は58減
奈良県、131,2683人、652人減。世帯数は77増。増えたのは、生駒、香芝55、葛城36、田原本2、王寺20、広陵65、河合9、上北山2、の8。
和歌山県、91,2041人、792人減。世帯数74減。増えたのは、岩出26、日高22、上富田18、の3。
和歌山市(35,4237)-奈良市(35,1348)=2889
人口世帯数ともに減少幅が縮小。なぜか奈良県と大阪が世帯数増加。東京再び1300万人台。奈良県は、田原本、北葛の線で増加が烈しい。