2324、わざみ7

2324、わざみ7
金沢氏は森朝男氏の露文も簡単ながら引用していた(セミナーの前掲論文)。

叢刊・日本の文学6 古代文学と時間 森朝男、新典社、1989.9.30.
天降る大王――高市皇子殯宮挽歌の叙事構造

イ、人麿のこの画期的な、天武天皇の神話化・聖化のロジックにはあったのである。いわばこれは反歴史的態度だともいえる。系譜的な日継の歴史性を捨象して、いきなり身近な時代の特定天皇を神代に結合させたものともいえるからである。

ロ、あたかも天武天皇の在位治世中に、「天の下申し賜」う執政官の長(太政大臣)として、高市皇子を描き出そうとしている。これは事実に合わないが、もともと壬申の戦闘部分においても、「壬申紀」の伝えるところを事実とすれば、この挽歌の表現は、はじめから事実になど合ってはいないのである。この歌の文脈をなるべく「壬申紀」的事実に即応させて解釈しようとする注釈の姿勢は多く見られるが、ひどく空しさを感じさせる場合がある。一方逆にそこに人麿の史実との緊張関係を保った虚構を見ようとする論もあるが(5)、それがどのような種類の虚構であり、どのような構造を持った虚構であるかは、いまなお十分に論じられていず、本章のささやかな企図は、その不満に端を発している。
(5) 伊藤博注(1)前掲論文。阿蘇瑞枝「壬申の乱の周辺」(雄山閣刊『万葉の虚構』

ハ、天武・高市壬申の乱を、初代の支配者の天降りの後の国土平定の戦闘に見立て、神話化するという操作の中で、高市は、天皇を補佐する実質政務担当の長としてその縁起を説かれ、運命づけられるのである。この歌の壬申の乱の叙述は、文脈の中で縁起譚的意義を担う、明らかな<神話>なのであった。

金沢氏が引用したのはロの終わり方にある。虚構と言っても、具体的には、高市が天武の時に太政大臣になったという虚構(言うまでもなく、持統の時代である)を指摘するだけで、地理的な虚構については、初めから事実に合っていないということですます。注の阿蘇氏の論は、読んだが記録していないし、何も覚えていない。伊藤氏のは次回に読む。しかし、その虚構の掘り下げが不十分だという意見は賛成だ。だから、「わざみ」と題して長々と調べている。イ、ハ、要するに、高市挽歌の前半は「明らかな<神話>なの」だということで、それは叙事構造から分かるというのだ。こういうことが、榎本氏の最近の論文で否定されていくわけだ。なおついでにいうと、この前半について、叙事的、叙事性と、森氏は言うが、恐らく、高木、西郷などの英雄叙事詩を念頭に置いているのだろう。しかし、大岡昇平叙事詩的錯誤について」、全集16評論Ⅲ、筑摩書房、1996.5.24、所収、のいうように、西洋でいうエピックなどというのは、曖昧な概念の術語であって、安易に、柿本人麻呂長歌などに援用することはできない。挽歌的な抒情の後半にいたるまでの、伝承とか故人の行跡とかいった程度のもので、抒情に対する叙事といったたいそうなものではないと言うことである。だからか、最近はあまり叙事と言うことを言わない。

伊藤博、「人麻呂の表現と史実」、萬葉集歌人と作品 上 古代和歌史研究3、塙書房、1975.4.10、所収、初出、万葉二三号、1957.4

イ、二句「天下所知食世者」と「天下申賜者」をめぐる表現と史実との関係については、なお疑いの存する点やはっきりされていない面が少なからずある。もとより、文芸の表現は史実を基準にしその立場だけから解かれるべきではないが、それと史実とのあいだに矛盾するものや不明瞭な点が見出されたばあいは、その関係を追究してみる労力を惜しんではならないであろう。

ロ、「定めてし瑞穂の国を神ながら太しきまして〔神な~傍点〕」のなかに持統天皇の時代を集約してしまったのであって(新考以下)、史実にもとりつつ史実を含むという凝縮をこらしたということなのである。この一種虚構的な集約的表現によって、高市皇子の面目はより輝かしい光芒を放つと考えられるのだが、虚構にも似た集約的表現といっても、今のばあい、持統天皇自身壬申の乱に参加しており、その御代は壬申の乱によって開けた時代であり、高木市之助氏(吉野の鮎)によれば、人麻呂たちの「わが大君」という表現の背後には、その真の主として天武天皇という偉大な映像が存していたと思われるような時代であったことを思うべきである。すなわち、その集約はウソではけっしてなかったのである。

高市皇子挽歌の主語の議論については、これなどは、初出が1957年だから、相当に古い。人麻呂の表現には史実と一致しない所があるという議論も伊藤のは古いが、ここで早くも、副題にあるように、日並皇子挽歌との違いから、高市皇子と天武との主語の曖昧さを論じ、それを虚構的な集約表現とみなす。こういう議論も以降受け継がれていくわけで、そしてここで、高市皇子の戦闘場面の虚構や不破山越え、和※[斬/足]行宮などの地理的な矛盾、などが全く触れられないのも、大方以下の議論に引き継がれる。それにしても、高市と天武の集約とか、以下の議論にあった、重層とか、既に少し触れたが、分かりにくいことである。天武でもあり、高市でもあるなどというのは、普通は考えられないことである。だから、ロにある「史実にもとりつつ史実を含むという凝縮をこらしたということなのである。」というのもわかりにくい。要するに榎本氏の言われるように、演出であり、そこに歴史性はあっても、そういう歴史に見せかけた表現であって、史実に反しながら史実を含むなどという分けの分からないものではないだろう。だいたい伊藤博という人は、弁解が多く、それでいてしつこくねばるという、どうも食えない人で、読んでいていい気分ではない。引用はしなかったが、人麻呂のこの高市挽歌は、歴史的な限界はあるものの傑作だという。茂吉の言ったのと同じことを言っている(恐らく茂吉の受け売りだろう)。しかしありもしないことをでっちあげて、ほめ、それをうけて大げさに哀悼する、というようなものが、なぜ傑作なのか。白鳳の盛期に昂揚した人麻呂の精神とかなんとかいうが、白鳳の盛期などという伊藤博の認識じたいが限界なのではないか。盛期でもなんでもない。中央集権的天皇独裁体制の強化に過ぎないではないか。

清水克彦、萬葉論序説、櫻楓社、1987.1.25、「人麻呂長歌の位置――口誦歌と記載歌――」

イ、ここでは高市皇子によって戦われた乱――すなわち焦点を高市皇子に置いた戦乱としてではなく、むしろ高市皇子から遊離した、戦乱一般としての叙述がなされている。この事は、この部分に、皇子に対する敬語が全くないという事によっても了解されよう。この部分は一首の中で前提部を占めるに過ぎないのであるが、高市皇子をいたむという一首の主眼から遊離しており、しかも一首の中で非常に多くの部分を占めている為に、土屋氏の言われたように煩瑣な感を与え、また、構成の面から言っても、一部分が不当に膨脹したものとも見られる。土屋氏が『総釈』において、「人麿の傑作とはいへないかも知れぬが」と述べて居られるのも、このような理由によるのであろうか。

ロ、口頭語は同じ内容を幾度か反復する事によって、はじめて反復のない記載言語と同様の効果を挙げうるのであり、口頭語における反復強調は、口頭語をそのまま記載したものを読む場合に感ずるような煩瑣の感を与えるものではない。壬申の乱における高市皇子の奮闘を聞き手に印象づける為には、これだけの語句を必要としたと考えるべきではあるまいか。
 長い前提部に切れ目がなく、しかもそれが曲線的であって、意味の把握が困難である事を先に述べたが、この部分の意味が論理的に把捉される事は、実は作者自身要求していなかったのではないだろうか。それはこの部分が前提部であり、修飾語になっている事によって推定される。かかる文章は意味を論理的に把握する事を困難にするが、むしろその事の故に、論理的な意味に濁される事なく、純粋に情緒として印象づけられうる。しかも、この長歌の享受者たちに無用な論理的把握を断念させる為には、読ませるよりは聞かせるという方法の方が有効ではなかったろうか。

ハ、発表するしないにかかわらず、人麻呂においては、歌とはすなわち口頭で発表すべきものであったのではなかろうか。

ニ、人麻呂の長歌は、口誦歌から記載歌の派生する過渡期の作品としてふさわしい実体を持つものである。

柿本人麻呂の作風――丈夫の文学――」

ホ、人麻呂の公的な内容の長歌においては、主として宮廷讃美の精神が歌われていたが、人麻呂はその讃美の感情を、天皇や皇子の人間的に優れた言動を通してではなく、天皇や皇子に、天皇家の輝かしい神話や歴史を覆いかぶせ、これを「神」として把握する事によって述べた。従って、その叙述はすこぶる非人間的である。かかる長歌の中にも、言語や、リズムの美しさを感じさせる部分が随所にあるにもかかわらず、これらの歌がわれわれに与える感銘度が非常に薄いのも、その内容が、以上に述べたごとく、すこぶる非人間的であるという点に原因があるのだと思う。非人間的な叙述は、人間にとって空しいのである。

「わざみ」にはあまり関係ないのに、非常に長い引用になったのは、この人は万葉学者には珍しく、論理的に明快な魅力ある文章を書くので、原文で読む方が役立つからだ。
なぜ、書紀の記述に対して矛盾があるか、それは、作者が意図的に非論理的に詠んだのであり、口誦だから出来た表現法だという。前置きだから情緒が分かればいいと言うことだが、本体の部分も死者を悼む情緒そのものだから、結局長い歌でも、情緒だけで味わうように詠まれているということになるが、それでは文学としての中身が長さに釣り合わない。だから傑作ではないということだろう。
さらに二つ目の論文で、感銘の薄い長歌だと断定している。如是閑の職業詩人説からの新たな展開と言えよう。なお非人間的で感銘が薄いということでは、文選の誄との比較が有効だ。文選の誄では、あくまでも人間に即して現実的にことこまかく、詳しく描写する。

品田悦一、古代における天皇神格化の真相 文武天皇即位宣命をめぐって、萬葉集研究第39集、2019.11.25、所収。
ずいぶん長い論文だが、最後に簡潔の要約してあるので、そこを引用すれば済む。

改めて言おう。七世紀後半から八世紀にかけて構築された神聖王権のイデオロギーは、天皇が天神の子孫であることや、祖先の神と祭祀によって交通し、神意を体現しつつ統治することをもって正統性の根拠とするものであって、天皇自身が神であること(天皇即神)を主張するものではなかった。『古事記』『日本書紀』には、天皇が神意に導かれて神さながらの振舞いをなす場面はあっても、本性が神であるとの記述は一切見られない。『万葉集』にはそれが見られるかのように長らく考えられてきたが、これも誤りである(30)。
 天皇即神の装いは、史上初めて少年天皇となる軽皇子の将来を危ぶんだ持統天皇と、律令国家の天皇に実権は要らないと考えていた藤原不比等と、この二人の思惑が交錯したところで慌ただしく上乗せされた構想だったと考えられる。この装いは、後々の天皇にも適用されていったが、長期にわたって徐々に編み上げられた記・紀神話のような体系性を備えてはいなかったし、だからこそ、天皇が敬虔な仏教徒となる八世紀中葉には早くも形骸化を余儀なくされたのであった。

これは、ほぼ、折口信夫が言ったのと同じで、「神ながら」の語義と、神野志説の検討と、宣命の解釈とを、詳細に行って、折口説をはるかに超える確論としたものだ。折口説は、きちんと紹介されているが、まずその部分を引用する。

壬申の乱に勝利して強大な権力を手にした天武天皇が、非常に崇められたあげくに神とまで遇されたというわけだ。この見方は日本史学界では長く通説でありつづけたが(6)、国文学界では早くから折口信夫天皇即神観の存在を否認し(7)、その一環として「大君は神にしませば」は天皇を神格化する表現ではないと説いていた。

主要参考文献に、
折口信夫「宮廷生活の幻想」初出一九四七年七月、折口信夫全集第20巻。
注に、
(6) たとえば吉村一九九八は、北山書より四五年後の時点で①の二首に言及し、「壬申の乱を戦い抜いて勝利した天武天皇から神格化が始まったことを確認したい」と述べた。
(7) 折口は戦前からこの見地に立っていた。西村亨編『折口信夫事典』(増補版一九九八年、大修館書店)の「天皇霊」の項(津田博幸執筆)を参照のこと。

「神ながら」の語義と、宣命の解釈は、論の中心をなしており、紹介したいが、長くなるので略す。最近の榎本氏の論(2014.10.20)まで、高市皇子挽歌の天武の部分などは、天皇即神観によるものとされているようだが、2019.11.25のこの品田氏の論文は、榎本、金沢、村田氏などのことは一言も言わない。直接、高市皇子殯宮挽歌を論じていないからだろうか。逆に榎本氏は、2019年のは無理としても、2014年以前にも品田氏のよく似た論文は出ているのだが、一言も触れていない。高市挽歌、日並挽歌論には関係ないというのだろうか、あるいは論が拡散するのを避けたのだろうか。それにしても、折口説の紹介ぐらいはあってもよかった。