2329、わざみ12

2329、わざみ12
地理的な矛盾ということで「わざみ」としてきたが、前回あたりから、矛盾と言うよりは、人麻呂の地理上の虚構といった観点になっている。しかししばらくは「わざみ」にしておく。次は、いわゆる石中死人歌(220、221、222)である。
讃岐國、中乃水門、狭岑之嶋、作美乃山
讃岐、中、は和名抄にもある知られた地名。沢瀉注釈は、サミの島をサミネといい、のちにサミネの島と呼んだという、山田講義の説を語原として認め、「岑」の表記と反歌の語(武田全註釈説)から、人麻呂は砂彌の嶺の島の意と考えていただろうという。前に考えたように、人麻呂は人の知らないような小地名は、歌にふさわしいような表記に変えることが多いので、語原というより、地元では、サミ+ネ、と呼んでいたものを、人麻呂の工夫で、サ+ミネ、と表記替えしたものであろう。反歌の、作美の山を、沢瀉は「即ち砂彌嶺である」とあっさり決めつけているが、題詞や長歌の「狭岑(さみね)」は「さ+みね」であって、「さみ+ね」ではない。このあたり安易である。反歌では、地元の呼び名である「サミ」をとって「作美(さみ)の山」としたのだろう。つまり、島の名と、その島にある山の名とは別だということになる。「サミ+ネ(島)」にある小さい山の「サミの山」を美化して「サミネ(小さい山)の島」と呼び替えたのであろう。ちょっと回りくどい気もするが。
稲岡全注2、説明ほとんどなし。犬養説を紹介する程度。
私注、特になし。伊藤釋注、説明なし。地理には関心を示さない伊藤らしい。
金子評釈、○狹岑島 反歌には佐美乃《サミノ》山とある。サミネ、サミ、當時兩樣に稱へてゐたものと見たい。今は沙美島《サミシマ》といつてゐる。是非に稱呼を一定する必要はない。但一言すれば「佐美乃山」は、なほサミネヤマ〔五字傍線〕と訓んでもよい。「乃」は呉音ナイだから、ネ〔傍点〕の音に充てられぬこともない。この島は讃岐那珂郡(今仲多度郡)に屬し、中の水門(金倉)よりは東北二里餘、坂出よりは北一里の海中にあり、長さ十町横三町ばかりの小島である。島中の高處は僅に二十九米突弱で、それがいはゆる佐美乃山である。サミを本名として、ネを或は峯《ミネ》の義と解し、或は島の義と解する説など、詰り無用の辯である。○石中 岩の間の意。岩穴の中の意ではない。 
長く引用したが、伊藤などに比べて地理への関心が深い。ただし当時両様に呼んだとか、反歌のも、サミネヤマと読んでもよいとかいうのは、安易だ。
新大系、「沙弥の山」は「狭岑の島の山」の意。
新編全集、○沙弥の山-沙弥島の山地。この山には東方に新地山(二八㍍)など四つの小さな山がある。
阿蘇全歌講義、例によって犬養説丸写し。自分で実地踏査しないからと言って、ここまで鵜呑みにしてはよくない。
これらの最近の注釈でも、ほとんど、犬養説そのままである。犬養の実感主義(体験主義)もいいけれども、個人的な好みや体験に依拠し過ぎている。それに、沢瀉が指摘したような、人麻呂の文字表記や、微妙な地名の差異について言及しないのも物足りない。
実際に坂出市の沙弥島(しやみじま)まで、行くのはもう無理だし、埋め立てや観光施設で旧態を存していない万葉の故地など、実地踏査する価値もないだろう(今や全国どこでもそうだから――明日香や吉野もひどいことになっている――)、万葉地理の実地踏査は研究方法として、犬養がやっていた頃の有効性はない(まさに、犬養以前に犬養無く、犬養以後に犬養無し、だ)。そこで地図を見るのだが、国土地理院のは、たえず改訂されるので、埋め立て前の古いものを見るのが厄介で、こういう点でも、遠隔地に住む貧乏な人間にはつらい時代だ。島内には、4つの20メートル台の高まりがあり、製塩遺跡のある、なかんだの浜の左右の小丘が、人麻呂の歌の「作美(さみ)の山」だろうという程度で満足するべきだ。権現山とか何とか、そんな名が人麻呂の時代にあるわけもなく、また人麻呂の時代に名前があったとして(製塩遺跡があるのだから、製塩をする人がいる限り、無人島ではない)、そんな小さい島の小さい山の名前など人麻呂が知るわけもない。サミ+ネ(島)にある山だから、「サミの山」と呼んだと見なしておくしかない。それよりも、そういう、誰も知らない、瀬戸内の小島の名を、詠むこと自体が、人麻呂の歌の方法として重要だと言うことである。著名な大地名から無名の小地名へ、いわばズームアップの手法である。なお犬養を初めとして、「さみじま」という人が多いが、現地では「しゃみじま」というようだ(坂出市のHPなど)。どちらが正しいのだろうか。

※[獣偏+葛]路の小野(239、240)
※[獣偏+葛]路の小野。長くはないが、一連の人麻呂の皇子関係の歌に類した内容で、長皇子の遊猟の時作ったとあるが、当然、長皇子に献呈したものだろう。内容の派手なのに比して地名がただ一つで、しかも比定地不明である。「かりぢ」と読むのは間違いないと思われるが、それに近い地名がない。桜井市多武峰の鹿路(ろくろ)が一応比定されているが、大きな池も猟場もあり得ない狭い所だ。歌に「馬並めて」とあるから、吉野ならちょうどいいが、吉野に大きな池があったとも思えない。とすると、宇智郡か宇陀郡だが、宇智郡も大きな池はなさそうなので、宇陀郡が最適である。それにしても、短いといってもかなりの長さはあるので、よく知られた大地名を詠まないというのは、人麻呂としては珍しい。吉野、宇智などは郡名だから、宇陀郡なら、宇陀という地名ぐらいはあっても良い。それが無理でも初瀬の山を越えてぐらいは詠むべきだろう。巻三までくると、宮廷の公的な場面の歌が少なくなるので、長皇子の私的な生活圏内の歌で、ごく少数の人たちにわかればいいのだろう。長皇子の別荘近くに、※[獣偏+葛]路の池があり、そこに猟場になるような小野があったのだろう。
参照、鳴上善治氏、「「猟路の池」榛原の説」萬葉85号、1974.9
羈旅歌八首(249~256)
これは長歌ではないし、連作でもないようだが、地名を辿ると、三津の埼、敏馬、野嶋、粟路(淡路)、野嶋(再出)、藤江の浦、稲日野、加古の嶋、明(明石)大門、明(明石)門、倭(大和)嶋、飼飯の海、となって、全部に地名が詠まれており、一首に二つ出るのもあり、また再出するのもあり、如何にも旅の歌らしい。今はそれほど知られていない地名もあるが、当時に於いては、著名な地名ばかりの中で、最後の256番歌の、飼飯の海だけが、瀬戸内の通常の行路からずれており、また当時も今も、ほとんど知られていない。そのためか、敦賀の気比説もあるぐらいだ。今、淡路島の、西海岸の南寄りに、慶野松原というところがあり、地元では有名だし、景色のいい所だが、ほとんど知る人はいないだろう。私は若い頃行ったことがあり、そこで泊まったことがある。夜に見た夜光虫が印象的だった。それはともかく、最後に、こういうほとんど知られていない地名を詠む所は如何にも人麻呂らしい。沙弥島から、小豆島の南方をたどってくれば、淡路の慶野松原に出るだろう。連作ではなくとも、何か特に私的な思い出のある所を最後に置いたように見える。
献新田部皇子歌(261、262)
これは人麻呂長歌で最も短く、地名も、反歌に、矢釣山が出るだけ。ほとんど即興に近い。八釣というのは、橿原の下八釣も明日香の上八釣も、知っている人はある程度居るだろうが、それも地元の狭い範囲だろう。そういう地名だけを出してくるところは、人麻呂の私的な親しみの感情を表すのに効果的だ。やはり人麻呂はすぐれた歌詠みだということになる。
伊藤釋注、人麻呂…最小の長反歌…。…。人麻呂にはめずらしい、初期万葉の時代に普遍の小型長歌で、儀礼性が最も強い。…。何かの祝いが行なわれたのが、折しも雪の降り積もる日だったのであろう。反歌では、長歌で譬喩に用た雪そのものに眼を向け、雪の繁きさまに皇子の繁栄を匂わせている。麻呂も客人の一人として参加していて、あたかも降る雪に即興を託したものか。
西宮全注、雪のしきりに降ることを譬喩にして、天武天皇直系の皇子の讃歌としたものであるが、人麻呂にしては著しく簡素な讃歌と言える。  西宮の評も簡素だ。
武田全註釈、多分即興の作なるべく、簡潔に意をつくしているのは、作者としては晩年圓熟の境に入つていることが思われる。これが奈良時代に入つての作なるべきことは、次の歌において述べる。  反歌の八釣山を生駒山のこととするので奈良時代と言う。無理だ。
茂吉、柿本人麻呂評釈篇、『矢釣山木立も見えず降りみだる雪』といふ寫實は、單純で然かも急所を突いてをり、實に旨いものではあるまいか。どうしても名人の力量ではあるまいか。  長歌と共に良い歌だというばかり。茂吉の「白き山」の大石田での歌には似たのがいろいろある。

柿本人麻呂以外の長歌
藤原宮役民の歌(50)
藤原、淡海、田上山、氏河、巨勢、泉。中編ぐらいの長さで6つの地名が出る。どれもよく知られた地名で、中心になる地名とか、誰も知らないような小地名とかがない。こういうところは人麻呂の長歌とは大きく違う。それだけ平板で散文的で、ただの頌歌となる。

藤原宮御井の歌(51、52)
藤井が原、埴安、日本、香具山、畝火、耳為、吉野の山、藤原。先ほどのと同じほどの長さで、8つの地名がある。藤井が原以外は、よく知られた地名で(埴安は今は亡びて比定地不明たが)、前の歌と同じことが言える。

吉野行幸歌、笠金村(907、908、909)
御舟の山、芳野、蜻蛉の宮、吉野。反歌を入れて4つというのは人麻呂と似たようなものだが、序詞とはいえ、初めに、御舟の山などという小地名を出すのは、説明に過ぎ、荘重な感じを殺ぐ。真ん中あたりで、肝心の「芳野の蜻蛉の宮」が出ても、あとはおきまりのほめことばで終わりで、人麻呂のような迫力に欠ける。

吉野行幸歌、車持千年(913、914)
芳野、三船の山。短いので、この2つだけというのは当然かも知れないが平凡。

紀伊国行幸歌、山部赤人(917、918、919)
左日鹿野、奥嶋(2)、玉津嶋山、若浦。前の千年の歌よりまだ短いのに4つというのは多い。しかし、紀伊のような大和からして遠く離れたところで、一応有名な地名だとしても、しょせん小地名にすぎないものを、ただ並べただけで、その位置関係が分かりにくいのは、赤人の欠点だ。人麻呂と違って、地名にめりはりがない。それに短い長歌で、これだけの地名に秩序をつけるのは困難だ。焦点がぼやける。材料負けといったところか。

吉野行幸歌、笠金村(920、921、922)
芳野の河、芳野、吉野。短いとはいいながら、長短それぞれに吉野を繰り返しただけ。内容もただの讃歌というだけで平凡。

吉野行幸歌、山部赤人(923、924、925)
芳野の宮、吉野、象山。これも平凡だが、宮をよんだところはやや人麻呂に近い。反歌で、紀伊の時の若浦のような働きをする象山を出したのは赤人らしい。しかもどちらも鳥の声を詠んでいる。やはり評判通り短歌にすぐれたところがあるが、それは魅力ある地名を詠んだからだろう。

同(926、927)
吉野、飽津。地名的には平凡だが、秋津を飽津と表記したのは工夫だろうか。もう吉野には飽いた、という寓意もあると言った説があるが、信じがたい。自然が飽きるほどあるとも見える。

難波行幸歌、笠金村(928、929、930)
難波の国、長柄の宮、味経の原。大地名から小地名へとバランスよく配置されているが、地名の面白さとか魅力とかが感じられない。デノテーションばかりで、コノテーションがない。枕詞も効いていない(工夫がない)。

難波行幸歌、車持千年(931、932)
住吉の濱、住吉の岸。行幸歌とも思えない。わざわざ長歌で言う地名ではない。

難波行幸歌、山部赤人(933、934)
難波の宮、淡路、野嶋(2)。難波とは言いながら、淡路の野島の海人が主役で、赤人らしい瀬戸内好みが出ていて、私的な関心に寄っている。人麻呂のころには難波行幸がなかったようで、人麻呂のはない。人麻呂ならどう詠んだか、興味深い。

印南野行幸歌、笠金村(935、936、937)
名寸隅、淡路島、松帆の浦、名寸隅。名寸隅を長歌反歌で繰り返しており、長歌の初めに出て来て、これが作者のいる場所であり、中心である。地元では知られていても、中央にまで知られた有名な場所ではない。旅情を醸す地名してはそつがない。同じ作者の敦賀の海での歌と似た感触だ。地理には詳しかったのだろう。

印南野行幸歌、山部赤人(938、939、940、941)
稲見野、大海の原、藤井の浦、藤江の浦、不欲見野、明方(明石潟)。反歌が三首と言うのも多いが、そのどれにも地名があり、のべ6という煩雑さ。しかも同一地名らしいのが二組みありながら、一つは音が違い、一つは表記が違う。玉津島の場合と同じで、地元では知られた地名かも知れないが、これらの地名の配置が分かりにくく、しかも関連性も掴みにくい。赤人は地理感覚が貧弱なようだ。地名の魅力が感じられない。しかも、不欲見野など、見たくないという意味が籠められているようで、土地に反感を持っているようにも見える。

辛荷の嶋の歌、山部赤人(942、943、944、945)
淡路、野嶋、伊奈美嬬、辛荷の嶋(2)、倭、都太。一つ前のと同じく反歌が三首で、それぞれに地名があり、のべ7という煩雑さ。出だしはよく知られた地名でわかりやすいが、あとは倭以外は小地名で、分かりにくい上に、伊奈美嬬と辛荷の嶋との位置関係が事実に合わないようであり、赤人らしい地理感覚のいい加減さである。地名が多い割に、その地名が有効に働いて居らず、地理の魅力としては金村より劣る。

敏馬の浦の歌、山部赤人(946、947)
淡路の嶋、三犬女の浦、為間。長歌ただの15句で、人麻呂の最短の長歌の11句に近い。反歌も一首だから、地名が3つなのは順当で(やや多いぐらいだ)、配置もまあまあだが、長歌で敏馬の浦を歌いながら、反歌でそこから遠く離れた、須磨を歌うのは奇妙だ。まさか須磨の海人が敏馬に出張しているのではあるまい。それに敏馬を三犬女と書いたり、須磨を為間と書いたりするのも奇妙だ。特にに前者は、不欲見野と似たようなもので、赤人の卑俗さを示すのではないか。美景を詠んだ清明な叙景詩人のように思えるが、案外ひねくれた暗いものを持っている。

散禁授刀寮歌、作者未詳(948、949)
だいたい宮廷歌人長歌を見てきたので、これは例外だし、万葉の長歌全部を見るのはちょっと無理だが、巻6の冒頭の宮廷歌人群の長歌に接しているので、とりあげてみた。
春日の山、高圓、佐保川、佐保の内。かなりの長さなので4つでるのは順当だが、ただ散文的に場所を示すだけで、しかも奈良の人間にとってはあまりにありふれた場所で、人麻呂のようなめりはりもなく、地理的な面白味もない。その場所の景観をめでたのでもない。ただ春の郊外の公園的なピクニック的な楽しさを言い、それが裏目に出たことをいっているだけだ。

宇合西海道節度使の歌、高橋虫麻呂(971、972)
虫麻呂は宮廷歌人ではないが、多くの長歌があり独特なので読んでみる。
龍田の山、筑紫、龍田道。長さの割りには少なく、龍田、筑紫、というのも、必要最小限のもので、また内容的にそれで十分だ。しかし、龍田という土地の魅力はよく出ている。土地の景観的な魅力をよくつかんだ歌人で、風土の歌人とも言える。

吉野行幸歌、山部赤人(1005、1006)
芳野宮(2)。長歌反歌にひとつずつ。何の取り柄もない。赤人とも思えない凡作。

寧樂故郷を悲しむ歌、田辺福麻呂(1047、1048、1049)
日本國、平城京師、春日山、御笠、射駒山、飛火がをか、奈良の京(2)。かなり長いとは言いながら、地名がのべ8というのは、やはり多い。前半に集中して俯瞰的に描かれている。奈良の都が3度出るのは、主題とはいいながら、ややしつこい。生駒山の飛火が岡を出したのは異色で、工夫したところだろう。

久迩新京を讃える歌、田辺福麻呂(1050、1051、1052)
山代、鹿脊山、布當の宮、布當の原、三日の原、布當の野辺。のべ6。奈良のより句数が減った分、地名も減ったが、ほぼ同じ。布當が三度でるのも前のと同種のしつこさだが、肝心の久迩が一度も出ないのはやや不思議。ただしその繰り返された布當がどこを指すのかはっきりしない。

久迩新京を讃える歌、田辺福麻呂(1053、1054、1055、1056、1057、1058)
布當の宮、泉川、布當山、鹿脊の山(2)、狛山。のべ6。長歌は短いが反歌が5首とおおい。同じ題なので、長歌は、布當の宮の一つだけ。かわりに反歌すべてに地名があり、泉川、狛山などで変化を付けている。

三香の原荒墟を悲傷する歌、田辺福麻呂(1059、1060、1061)
三香の原、久迩の京師、鹿脊山、三香の原、久迩の京。のべ5。長歌反歌で同じ地名が繰り返されており、前の二組のと同じ地名ばかりで新鮮さがない。それにしてもここでは、三香の原、鹿脊山は出るが、布當がでない。「ふたぎ」とはなんだ。

難波宮田辺福麻呂(1062、1063、1064)
名庭の宮、味原の宮、難波の宮。のべ3つ。そう長くないので3つはまあいいとして、「なには」が長反で繰り返されており、しかも、「なには」の宮と味原の宮との関係が不明。どうも地理的には面白味がない。

敏馬の浦の歌、田辺福麻呂(1065、1066、1067)
三犬女の浦、見宿女の浦、大和太の濱。長くはないので、のべ3つは妥当なところだが。浦と浜だけで、やや単調。「みぬめの浦」と「おおわだの浜」は大地名小地名の関係だろう。それにしても題詞には敏馬とあるのに、歌では「三犬女」、「見宿女」と女にこだわるのはどういうことか。前者は赤人にもあった。白砂の浜の綺麗な港だそうだが、船が必ず泊まる港と言うからには、なにか遊女でもいたのだろう。地理的には小品的な魅力はある。以上で、巻6最後に連続した田辺福麻呂歌集の歌は終わり。敏馬だけが都とは関係ないが、何か行幸でもあったのだろうか。

しばらく、吉井巖の全注巻6の田辺福麻呂歌集のところを読んでいた。大方訓詁を中心とした読解で、地理的な収穫はほとんどない。