2315、去来見山(いざみのやま)1  

2315、去来見山(いざみのやま)1           
これはほぼ通説が出来ていて、今さら問題にすることもなさそうだが、私も昔からいろいろ考えてきて、通説も異説もすべてだめで、別の解釈が出来そうに思えてきた。通説にしてもまともな論拠などないもので、これからも永久に出るはずはないから、私の新解といってもただの推測であることは言うまでもない。とりあえず下ごしらえ。
仙覚註釋、伊勢國也。
拾穂抄、仙曰いさみの山伊勢国
代匠記精、伊勢也
僻案抄、見の山といへる山の名にて
考、伊佐美の山か、佐美の山。
略解、考と同じ。
楢の杣、是は若磯邊の山と云にはあらぬか、いさみといそべと同音にて通ふべし、磯邊は志摩の國に屬《ツキ》たれど、山ひとへのみ隔りたれば、此度の道行ぶりに過る所なるべし、山高みとあるにつきていはゞ、今の磯邊と朝熊《アサマ》山との間に今は山伏嶺と呼高峰在、是やそれか、心あてして云のみ。
燈、伊勢・伊賀・志摩なとのうちにある山
攷證、考の引用のみ。
古義、槻落葉云…二見の浦なる…これぞ佐美の山なるを、…此二見の浦より阿胡にいたりまさんには、此山の東より南に折れて、鳥羽に御船はつべきなれば、二見が浦をいでます程は、大和の國より越ませし山々も、西のかたに迄に見放らるゝに、此山をしも榜廻りまして東南に入ては大和の方の見えずなりぬるをかなしみて、かくはよみ給へるなるべしといへり、
檜嬬手、佐美山にかけたる也。…二見浦近き山也。今も其山の麓の小川を佐美川と云ふとぞ。
安藤新考、古義と同じ。
註疏、古義と同じ。
美夫君志、古義と同じ。
左千夫新釈、佐見の山と云ふ説といざみの山との説と二つあれど判然せぬ、…、何れにしても伊勢の國にある山に相違ない、訳では佐見の山としている。
新考、伊勢國にイザミノ山といふ山あるべし。
口訳萬葉集、かもといふ語が、押韻とおなじ效果を持つてゐる形の傑れた音楽的な歌。
講義、倭訓栞…。宮内黙藏…高見山の一名を「去來見山」とせり。…この山はこの附近にて最も高きと共に、古より今に至るまで吉野と伊勢神宮との交通の要路たり。著者また明治二十九年に鳳鳴義塾の生徒と共にここを越えたることあり。按ずるに、この山かく大和と伊勢との堺として名高く且つ實際に高き山なるによりてかくよめりしならむ。
全釈、大日本地名辭書…高見の別名なりといふ。
總釈、高見山の一名であると云はれてゐる。
私解(花田比露思)、
伊賀の名張より伊勢に越す峠路に於て詠まれたものであつて、歌の意味は「吾妹子をいざかへりみんとて、振り返つて見れば、遙か向ふに山があつて、其の山の高い故にか、あたら大和は見えない。さるにても大和は隨分遠く隔つたことであらうまあ」といふのであらう。
44番歌についてこれほど詳しく考察したものはない。その結論が上記のものだがだいたい首肯できるものである。つまり「いざみの山」というのは、固有名詞ではなく「吾妹子をいざ見の」が「山」を導く序詞だというのである(そう言う言い方はしていないが論理としてそうなる)。これは全く他に見ない説で私もそうだと思う。ただし名張伊賀間の峠(青山峠しかないが)から大和の方を振り返ったというのは、あたらない。著者は実地を見たことがないようだが、それがすぐれた思考の足かせになっている。私は伊賀はくまなく行き、青山峠も青山高原も行き、その向こうの二本木や雲出川源流域も歩き、松坂も歩き、志摩方面も何度も行ったが、花田氏の言われるようなことは、歌からは読み取れない。固有名詞ではないと言うところだけが同意できる。青山峠は伊勢側から登るとかなりの傾斜で、降雪時に車で行ってかなり苦労した。峠までは左右に山が迫りかなり窮屈だ。峠を越すと傾斜は緩やかで、しばらくで、伊賀神戸桔梗が丘あたりの伊賀らしい、丘陵と水田の混じった風景が広がる。低い丘陵がちょっと邪魔するが、大和方面に高い山などはない。つまり大和を遮るような山はない。室生村の笠間方面の低い山が見えるのであって、つまり青山峠あたりからは、大和室生の山々が見えるのである。「大和の見えぬ」どころではない、伊賀の盆地部からは、たいがい大和高原が見える。名張から見る笠間もいいが、上野から見る神野(こうの)山などはなかなか見事だ。
そして、青山峠あたりでは、まだ国が遠いという感じはしない。宇陀郡や大和高原の山々が近くにみえ、大和の続きという感じである。青山トンネルといえば、だれもが知る近鉄一番の長いトンネルだが、名古屋や伊勢志摩へ行く時はこのトンネルがおおきな境界であった。これを出て、伊勢石橋あたりに来ると、まったく雰囲気が違う。関西とは違う感じが強い。川合高岡や伊勢中川あたりの広大な水田地帯は、奈良や大阪ではみられないものだ(行かなくなってずいぶんたつから、今はそうとう都市化しているだろう)。まさに「国遠みかも」である。大和ははるか遠くになってしまったとは、だれもが思うことだろう。
付載さてている、佐々木彌四郎氏の「去來見山の所在に就て」に
いざみの山の歌の趣は阿保から一志郡へ今の伊勢地の三里の山越えをして一志都の平坦部へ出てホツト一息きすると同時に、過ぎ來し方を顧みて都を離れて既に山川幾百里を經た樣な感じを起し伊賀伊勢國境に亘る連山を眺め偖こそ吾妹子をいざ見むの意を寓していざみの山など詠んだのではあるまいか、自分はこんな風に考へて居る、從て去來見の山なる名稱の後世に殘て居らぬが當然だと思て居る。
ちょっと分かりにくいところがあるが、地元の人のいうことだけに実感がある。江戸時代の地誌などをあっさりと否定して「いざみの山」などはどこにもないといわれるのだから、一志郡の平地部から振り返った連山(つまり青山峠を含む布引山地のことだろう、宣長も菅笠日記でこの山地を印象深く描いている)を、「いざみの山」と造語したのだろうというわけだ。これは造語の部分を除けば、花田氏の説よりももっとよい。
精考、荒木田久老は「さみの山」説を取り、…高山たるを要せぬ(多分歌を詠んだ處に近い山であらう)。…「さみの山」への言掛と見るが比較的ふさはしいかと思はれる。
金子評釈、宮内黙藏…高見山の一名を去來見山とし、倭訓栞に…
窪田評釈、高見山であろうという。
全註釈、宮内黙藏…高見山の一名としている。
佐佐木評釈、高見山をさすといはれる。
私注、所在不明。高見山とするのは「高み」と言う語に依るのだろうが、それは間違い。当時は名張経由だったし、伊賀伊勢の途上でも殆ど見られない、とする。
古典大系高見山といわれる。
注釈、非常に詳しいが江戸時代の地誌類や地元の古老の説などいくら詳しくても價値がない。結局伊勢大和国境の高見山というわけだが、伊勢の平原から見える見えないは問題ではなく、勢和国境の名山として詠んだものだとする。沢瀉は伊勢の人だから地元の地理には詳しい。ようするに伊勢平野からはっきりとは高見山は見えないということだ。高見山のすぐ南からは、大台ヶ原に続く高山が連続しており、たとえかすかに見えたところで、殆ど意識にのぼるような山ではない。この山は、高見峠をこえて吉野や和歌山へ往還する人々にだけ印象に残る。その東西の谷沿いで見通しがよい場所では、見事な尖鋒として見える。そこを通ったことがない人には、あるいはそこを通る人からの情報がない場合は、まったく問題にならない山である。
古典全集、高見山かという。
集成、伊勢・大和国境の高見山か。
全訳注原文付、高見山という。この時の行幸は、伊賀を通ったので、伊勢に出て大和方面にこの山を望んだことになる。
伊藤全注、伊勢と大和の国境いにある高見山か。
新編全集、高見山かという。
釈注、伊勢と大和の国境にある高見山であろう。
和歌文学大系、高見山かという。…雄大な山容は各所から遠望されたので国境の山として意識された。持統六年伊勢行幸時には、この道を通ってはいないが、伊勢方面から国境の山を望見しての作。
新大系高見山といわれる.
全歌講義、高見山。…。大和・伊勢の各所から望まれる山。この時は伊賀を通ったので伊勢に出て大和方面を望み詠んだのであろう。国境の山として、旅人に強く意識されていた山と思われる。
全解、高見山(一二四九メートル)のことという。

荒木田久老の説は、槻落葉別記の「○幸2伊勢國1。」にある。内容は古義の引用に尽きる。

万葉地理関係の参考書はみな省略する。注釈書類と似たり寄ったりではなんのための地理かわからない。
古くは、荒木田久老などの説がかなり支持されたが、いろいろと批判され、沢瀉注釈によって決定的に葬られたようだ。その後、宮内黙藏の高見山説などが支持され、山田講義なども自信たっぷりに賛同している。その後批判はあったものの実地踏査による支持などもあって今もおおかた支持されている。しかし、稲岡、阿蘇などの「雄大な山容は各所から遠望されたので国境の山」「大和・伊勢の各所から望まれる山。」などというのは、まったくの空想に過ぎない。犬養などのいうことを真に受けたか、拡大解釈したかであろう。土屋が明言しているように、今の近鉄大阪線ぞいのルートでは、ほとんどどこからも見えない。また奈良盆地のどこからも見えない。「国境の山として、旅人に強く意識されていた山と思われる。」などというのはとんでもないことだ。今でも奈良県人でも高見山などは登山愛好者以外はほとんど知らないだろう。同じ国境でも、葛城山二上山生駒山などと同一視してはならない。犬養の「万葉の旅」は広く研究者に参照されている。特に、稲岡、阿蘇はその傾向が強い。しかし、鵜呑みは極めて危険である。特に写真には要注意だ。あれは犬養が見たい眺めをわざわざ切り取って写したものにすぎず、万葉の歌人達が見た風景とはかなり違うと思わねばならない。たとえば、上巻172頁「六田の淀」では、中央遠くに見事な高見山の先峰が写っているが、これで吉野川櫛田川沿いを行く通行人がみなそういう高見山を見ていたと思ってはならない。だいいちあの写真は、吉野川の河原からとっている。旅人が川原を通路にしたことはあり得ない。それに、レンズのごまかしもあるだろう。肉眼で写真のように見えるかどうかも問題だ。なお、大淀町あたりは開けていて見通しがいいので、桧垣本の高台(町立図書館のあたり)からも高見山は見えるし、そこだと大峰も見える。ただしよく見ないと気づかない程小さい。それが上市に近づくに連れて、両岸が狭まってきて、もうどこまで行っても見えない。次に見えるのは東吉野村の木津(こつ)峠で、これはまさに、スイスのマッターホルンを思わせる圧倒的な山容だ。ただしこの高見峠越えなどというのは、和歌山伊勢を往復するのには近道だが(特に、松阪や宇治山田に用のある人)、奈良盆地の居住者はもちろん、吉野の人でも東吉野から宇陀郡の方へ廻るから、奈良や大阪の人には縁のないルートだ。今は高見峠もトンネルで楽だが、それでも山深い(松阪まで遠い)。こんな山がよく知られた国境の山であるはずがない(特に万葉人の場合)。これをいまだに信じている有名注釈書があるのは嘆かわしい。せめて所在不明程度にするべきだ。
ということで、高見山説はもちろん、沢瀉注釈説も否定される。それにしても伊勢を郷土とする沢瀉が、高見山は伊勢からはほとんど見えないというようなことを言っているのに、それを無視して、大和・伊勢の各所から望まれるなどというのは、無責任極まりない。それはともかく、一応無難なのは、さすがというか、地理に詳しい、土屋私注の所在不明説だ。しかし、これも「いざみの山」を固有名詞として、どこかにあるだろうとは言っていることになる。そこが認めがたい。だいたい、「しおみ」「くにみ」「とおみ」「いそみ」「さみ」「あさま」といった山はあちこちにありそうだが、「いざみ」という山はなさそうだ。伊賀伊勢大和あたりでも、いくら探してもありそうにない。だから、花田説が正解に近いのだが、青山峠あたりから大和を振り返った時に見える高い山という設定は間違いだろう。だからその点は花田説に付載された、佐々木彌四郎氏の雲出川の平地部に出て青山峠一帯(布引山地)を振り返ってのものというのがいいのだが、その山を「いざみの山」と呼んだというのは従えない。それに佐々木氏だけでなく、すべての説がそうだが、「我妹子をさあ見ようという名のいざみ山が高いせいか」という解釈もおかしい。山が高くて妹のいる所が見えないというのなら、「いざみ(さあ見よう)」という名前はふさわしくないだろう。ここは、登って妹のいるあたりを見るための山なのに、山は山でも、今は、妹のいるあたりを見せなくしている高い邪魔な山だ、というのだろう。
 補足、私が若かったころ、梶光夫の「青春の城下町」という歌謡曲がはやった。
流れる雲よ 城山に のぼれば見える 君の家 灯りが窓に ともるまで 見つめていたっけ 逢いたくて ああ 青春の 思い出は わがふるさとの 城下町
山は恋人の家を見るためにもある。また国見のためにもあった。烽火台などは各地にあったようだから、山は遠望のために欠かせない存在だったのだ。
次に、大和が見えないのは、いざみ山が高いからか、國が遠いからか、と二つの疑問を並べたわけだが、一方に固有名詞があり、一方にないというのは、釣り合いが悪い。山が高いからか、国が遠いからか、としたほうが感じがよい。実際雲出川下流に来ると、ずいぶん大和からは離れた気分がするし、越えて来た布引山地も山また山という感じだ。またこの山は青山高原というほどに、なだらかな稜線で、どこといって~山と言えるようなめだった頂上がない。もし、いざみの山が高いからか、というのなら、後の方も、伊勢の国が遠いからか、というべきだろう。それでは歌にならないといっても、そのほうが分かりやすいのは確かだ。とにかく、雲出川下流域で歌を作って披露したのなら、山がどの山で国はどこかなどというのは、一行のだれにでも分かるだろう。
以上、強力な論拠と言う程ではないが、イザミ山=高見山説の到底なり立ちがたいのよりはましであろう。
ところで、
  我妹子をいざみの山
          山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
のように一句と二句の途中までを「山」を導く序詞とするような歌の型があるのだろうか。(続く)