2330、わざみ13 2331、わざみ14(風土の万葉)

2330、わざみ13
人麻呂の長歌からはじまって、巻6の田辺福麻呂まで、主な宮廷歌人長歌を見てきたが、彼等以外ので、見ておきたい長歌もあるので、もういちど巻1からそれらを見てみよう。
軍王見山の歌(5、6)
網の浦。そう短いものではないのに(塙本で、反歌合わせて5行)、ただ一つ。それも長歌の最後の方にでるだけで、題詞がなければどこの地名とも分からない。こういう地名の用い方は、人麻呂以降にはあまりないもので、やはり初期万葉的だ。

藤原京より寧樂京に遷る歌(79、80)
泊瀬の川、楢の京師、佐保川、寧樂。中編(塙本で、反歌合わせて5行)で4つは標準的で、長歌反歌で1つの地名を(今の場合奈良)繰り返すのも、文武から、元明にかけての時代には普通だろう。二つの川もよく知られた地名で、親しみやすく案配されている。気楽な旅の歌といっても良い。

齋會の夜の夢の中の歌、持統天皇(162)
明日香、清御原の宮、伊勢の國。反歌なし、3行で3つは、やや多い。簡潔に二つの地名で天武を描いた。叙事として秀逸だが、未完成。

志貴親王薨時の歌、笠金村(230、231、232)
高圓山、高圓、御笠山。長歌4行と反歌2首で3つはやや少ない。高圓山に焦点を絞り、反歌の二首目で御笠山を詠んで変化を付けた。長歌を葬送の夜景に絞るのに、高圓山という地名だけを出したのは、さすがである。後日談的な反歌でもう一度高圓を出し、御笠山で締めくくったのもうまい。

鴨君足人香具山の歌(257、258、259)
天の芳來山、香山。長反5行で短いが、地名も少ない。香具山を主題にした題詠のようなものだからそれでいいが、その表記が中国風だ。仙郷というか廃園の美。

不盡山を望む歌、山部赤人(317、318)
駿河、布士の高嶺、不盡の高嶺、田兒の浦、不盡の高嶺。長反4行でのべ5は多いが、うち富士が3回、それもすべてが高嶺だから、しつこい。こういう粘り着くようなしつこさが赤人にはある。それに天地開闢から詠みだして駿河ときたら、ちょっと形にこだわりすぎだ。

不盡山を詠む歌、高橋虫麻呂(319、320、321)
甲斐の国、駿河の国、不盡の高嶺、石花海、不盡河、山跡の國、不盡の高峯、不盡嶺、布士の嶺。長反で7行だから、ちょっと長篇だが、それでものべ9というのは賑やかだ。しかし解説すぎて、地理的風土的な興味や面白さには欠ける。富士川の地理が間違っているのでも分かるように、実際に登山したり歩き回ったりしたのではなく、文書から得た知識も、混じっているようだ。地理には詳しくても深くはない。

伊豫温泉の歌、山部赤人(322、323)
伊豫の高嶺、射狹庭の岡、飽田津。4行で3つ。短編だから3つはやむを得ないが、富士の高嶺の富士を伊豫に代えただけで、しかも富士山と違って、地理的に朦朧としているから――石鎚山といわれるが結局不明――、効果がないし、射狹庭の岡というのもはっきりしない。富士の歌では反歌田子の浦を出したが、今度は熟田津で、山に対して海というのも、同工異曲である。叙景ではなく叙事風の歌だから仕方がないとしても、やはり風土感のないのは惜しまれる。吉野の歌で、秋津を飽津と書いたが、ここでは熟田津を飽田津と書いている。吉野のところで飽津の飽はもう飽き飽きだという意味だという説を否定したが、ここの飽などは、熟の意味で書いたのだろうから、私の批判は当たっているだろう。それにしてもなんとなく俗っぽい感じがする。地理以外の描写は、過去への追憶など奥行きがあるのだが。

神岳に登る歌、山部赤人(322、323)
神名備山、明日香、明日香川。4行で4つ。赤人らしい簡素な地理。明日香、奈良などの歌は熟知した土地だからか、けれんみがない。

羈旅歌、若宮年魚麻呂誦(388、389)
淡路島(2)、伊与、開(あかし)、敏馬、日本(やまと)。5行で6つ。やや多い。題詞通り素直な旅の歌。淡路を中心にうまくまとめているが、散文的で、詩としての興味は薄い。

石田王卒時丹生王の歌(420、421、422)
始瀬の山、石上、振。8行で3つ、しかも石上、振は反歌の序詞。叙事性のない物語のようなもの。よって地理的風土的な興味もない。

石田王卒時山前王の哀傷歌(423)
石村。4行で1つ。これも、ちょっと出だしに、死者の生前歩いた土地を示しただけ。

勝鹿真間娘子墓の歌、山部赤人(431、432、433)
勝壮鹿、真間、勝壮鹿、間々、勝壮鹿、真々。5行で6つ。といっても、長歌反歌2首で、葛飾と真間を繰り返しただけで、長歌も2行とちょっとで、単調なもの。真間の表記をちょっとづつ変えたのが技巧といえば技巧か。淡泊な歌。

龍麻呂自経死の歌、大伴三中(443、444、445)
難波の國。9行で1つ。憶良のようで、全く風土性というものがない。悲しい物語。

尼理願死去の歌、大伴坂上郎女(460、461)
新羅の國、佐保、佐保河、春日野、有間山。8行で5つ。長篇だが、地名がほぼまんべんなく配置されて、さすがにうまい。挽歌らしい叙事性があるし、奈良らしさも出ている。

亡妾作歌、大伴家持(466、467、468、469)
7行で地名なし。相聞か挽歌の短歌を引き延ばしたようだ。

安積皇子薨のときの歌、大伴家持(475、476、477)
大日本、久迩の京、和豆香山、和豆香蘇麻山。6行で4つ。平均の地名数で、場所はよくわかるが、大日本とか、和豆香蘇麻山とか小細工をするのが玉に瑕。

同、大伴家持(478、479、480)
活道山、活道。8行で2つ。かなり長いのに、活道(いくぢ)だけだが、今ではだれも知らない小地名で、もう少し他の地名も出してどういうところか分かるようにすればよいのに、こういうところが散文とは違うところだ、もっとも家持はあまり叙事的ではない。

死妻を悲傷する歌、高橋朝臣(481、482、483)
山代、相樂山。8行で2つ。前の家持のと同じ傾向。山代というのはいいけれど、相樂山とだけいわれてもイメージなどは湧かないし、なぜそこなのか必然性もない。奈良山の京都側(もと木津町)にそういう名前の神社があって、そこのあたりの山だと考証した万葉学者がいたが、それでどうということもない。だいたい山らしい山もない。京都側でも、奈良山とか奈良山の北とか言った方がいいぐらいだ。要するに地理と言うものに無関心なのだろう。

筑紫の國に下る歌、丹比笠麻呂(509、510)
見津の濱邊、葛木山、淡路、粟嶋、稲日つま、家の嶋。7行で6つ。これは地名が多い。今までの中で一番多いのではないか。どれもよく知られた地名ばかりで(ただし、粟嶋、稲日つま、は今のどこかはっきりしないが、万葉のころは有名だった)、紀行のようなもの。

安貴王の歌、(534、535)
4行で地名なし。短編だし、長歌の正述心緒のようなもの。

紀伊の國行幸の時娘子に注文されて作った歌、笠金村(543、544、545)
軽の路、畝火、木道、真土山、木の國、妹背の山、木(紀伊)。7行で7つ。笠麻呂を越えた。軽から紀伊の関所(妹背の山と和歌山の間か)までの区間に絞ってあるのは、当時和歌山へ行くとしたら、そのあたりがまず誰の頭にも浮かんだのだろう。それより以降は行ったことのない人にはイメージが浮かびにくい。よく知られた地名ばかりでそつなくしあげたところ、金村の技巧だろう。地理的な興味もあるのも、金村らしい。

三香原離宮行幸で娘子を得た歌、笠金村(546、547、548)
三香の原。5行で1つ。短編で無しでもいいような内容なのに、几帳面に舞台を示したのは金村らしい。記者根性のようなものか。

大伴坂上郎女怨恨歌、(619、620)
難波。6行で1つは少ないが、全く心情だけのものだし、難波もその菅を取って序詞にしたもので地理性風土性はなにもない。

大伴坂上郎女跡見庄から大嬢に送った歌、(723、724)
4行で無し。全く心情だけのもので、身内への手紙のようなものだから地理不要。

日本挽歌、山上憶良(794、795、796、797、798、799)
筑紫の國、大野山。反歌5首という珍しいもの。10行で2つ。長さの割りに少ないが、大地名と小地名がうまく組み合わされている。

或情をかえさせる歌、山上憶良(800、801)
7行で無し。自分の思想を主張したのだから、地名不要。地理性なし。

子等を思ふ歌、山上憶良(802、803)
3行で無し。

世間の住難を哀む歌、山上憶良(804、805)
12行で無し。憶良の本領発揮。地理など無用。

子負の原の歌、山上憶良(813、814)
韓国、深江、子負の原。6行で3つ。憶良でも土地に関わる伝説なら、叙事性があるから当然地名を詠む。それでも簡潔だ。

熊凝の歌、山上憶良(886、887、888、889、890、891)
11行で無し。反歌のようなのが6首というのも多い。題詞のような序に熊凝の出生地と死去の地とだけは書いてあるから、歌の中に地名は不要なのかも知れないが、序にしても6行で2つだから愛想がない。もとになった麻田陽春のは短歌2首だが、ここにも地名がない。中西進のいうように、憶良は風土のない歌人だ。インターナショナルか。古代のメンシェビキか。

貧窮問答歌山上憶良(892、893)
13行で無し。これはもう初めから期待しない。具体的にどこでのことという歌ではないのだから。

好去好来歌、山上憶良(894、895、896)
倭の國、唐(もろこし)、倭、智可の岫(さき)、大伴の御津(2)、難波津。11行でのべ7つ。憶良にしては多いが、具体的に場所を押さえるのが、礼儀というものだろうから、そういう挨拶歌としてのぬかりはない。長年役人をしただけのことはある。

老身重病子らを思う歌、山上憶良(897、898、899、900,901、902、903)
12行で無し。熊凝の歌と同じような形。こちらは序もないから全くなし。

古日を恋うる歌、山上憶良(904、905、906)
12行で無し。憶良は本当に風土性がない。

末の珠名を詠む歌、高橋虫麻呂(1738、1739)
安房、末。5行で2つ。初めの主人公の紹介でちょっと出るだけ。必要最小限の固有名詞だから、風土性はない。

浦嶋子を詠む歌、高橋虫麻呂(1740、1741)
墨の江、水の江(2)、墨吉。13行でのべ4。かなり長いのに墨吉と水江のふたつだけ。朦朧とした感じが出ている。

河内大橋を去く娘子を見る歌、高橋虫麻呂(1742、1743)
足羽川。3行で1つ。題詞がなかったらどこの橋かもわからないような漠然とした背景。

春三月難波に下る時の歌、高橋虫麻呂(1747、1748)
龍田の山、小※[木+安]の嶺。4行で2つ。虫麻呂の長歌の型だろう。初めに場所を競っている地名が出るだけ。動画の一シーン。

春三月難波に下る時の歌その二、高橋虫麻呂(1749、1750)
立田の山。3行で1つ。前のと同じ。前のもこれも春の龍田の雰囲気は出ている。

難波から還り来る時の歌、高橋虫麻呂(1751、1752)
4行で地名なし。長歌の連作のようなもので、題詞もあるから、無しでも龍田山とわかる。

大伴卿が筑波山に登る歌、高橋虫麻呂(1753、1754)
常陸國、筑波の山、筑波嶺(2)。5行でのべ4。常陸の名山ということはよく分かる。

霍公鳥を詠む歌、高橋虫麻呂(1755、1756)
4行で無し。鳥の詠物だから地名なしで順当。

筑波山に登る歌、高橋虫麻呂(1757、1758)
筑波嶺(3)、師付、新治、鳥羽の淡海。4行でのべ6。本領発揮というか、地理がよく出ている。山登りも好きだったのだろう。

筑波嶺の?歌會の日の歌、高橋虫麻呂(1759、1760)
筑波の山、裳羽服津。4行で2つ。なじみのない小地名を出すところ、筑波山の地形に詳しいことを思わせる。何度も登ったのだろう。

鹿島群苅野橋で大伴卿に別れる歌、高橋虫麻呂(1780、1781)
三宅の潟、鹿嶋の崎、海上。4行で3つ。橋を舞台に詠んだのは虫麻呂だけかな。歌のなかに橋は出ないがどうしたわけか。私などは全然知らないところだが、潟、崎、津などが指示されていて地理的な興味は出ている。

秋八月の歌、笠金村(1785、1786)
み越路。4行で1つ。かろうじて反歌にひとつ出して、叙事性を持たせた。

冬十二月の歌、笠金村(1787、1788、1789)
日本の國、石上、振、振山。5行で、4つ。さっきのよりは多い。それにしても、八月とか十二月とか変な題詞だが、中身は相聞で月とは関係ない。たかが天理の布留をいうのに、日本国とは大げさだが、金村には以前にもこういうのがあった。地理を細かく言う傾向がある。大げさなところがあるのだろう。虫麻呂とは違う。

遣唐使の船が出航するとき母が子に贈った歌、(1790、1791)
3行で無し。遣唐使の出発だし、題詞に難波とあるからわざと場所を言わなかったのか。

娘子を思う歌、田辺福麻呂(1792、1793、1794)
下檜山。5行で1つ。それもどこにあるかも分からない山で、さらに序詞。相聞だから正述心緒的。

足柄の坂で死人を見る歌、田辺福麻呂(1800)
東の國、神のみ坂。4行で2つ。珍しく反歌がない。万葉というのは、形式も題材もなんでもありだ。古今以後とは大きく違う。足柄の坂を、神のみ坂といったのだろうか。普通名詞に思える。といっても、題詞に足柄とあるから、はっきり足柄を指す普通名詞だ。これは、人麻呂が香具山で死人を見たのと同じで、その見た場所さえ分かればいいので、特に長歌である必要がない。だから長歌らしさをもたらす反歌がないのだろう。それにしても、足柄の坂というのは、恐ろしいところだったのだろうか。それなら風土性もあるが。

芦屋の処女墓を過ぎるときの歌、田辺福麻呂(1801、1802、1803)
芦の屋。6行で1つ。この福麻呂というのも、赤人並みに東西に旅している。伝説が題材だから、その場所を示す地名が一つでいいのだろう。地理性がないのはどうしようもない。

弟の死去を哀しむ歌、田辺福麻呂(1804、1805、1806)
6行で無し。後世の哀傷歌のようなものだから、地名なしは仕方ないとしても、墓地をただ荒山中というだけでは、万葉の挽歌らしくない。あまり風土性のない作家なのだろう。

勝鹿真間娘子を詠む歌、高橋虫麻呂(1807、1808)
吾妻の國、勝壯鹿(2)、真間(2)。7行でのべ5。如何にも、物語というか小説的だ。いつどこというのを最初に言う。

菟原処女の墓を見る歌、高橋虫麻呂(1809、1810、1811)
葦の屋(2)。12行で2つは少ない。人名として、うなひ処女、ちぬ壮士、うなひ壮士が何度か出るので、物語的な興味はあるが、それはしょせん実際の土地ではないから、地理性、風土性とかはほとんど関係ない。芦屋の伝説という内容に集中している。

巻13長歌
1~3行程度で地名のないものは除く。
3223、3224。甘南備、神名火。4行で2つ。このカムナビは殆ど普通名詞。われわれが、お宮さん、とか、お寺、というとき、具体的なある一つの寺社を意味する場合が多いが、その土地に関係しない人間には、殆ど普通名詞である。

3225、3226。長谷の河、長谷河。3行で2つ。ほとんど初瀬川民謡。

3227、3228、3229。甘南備、三諸の山(2)、甘甞備、三諸、明日香の川。6行で延べ6。これは多いが、カムナビのミモロを繰り返しているだけのミモロ讃歌。明日香の住民にとっては、心のよりどころとなる神聖なところだったのだろう。ある程度風土性はある。

3230、3231。楢、穂積、坂手、甘南備山、吉野、三諸の山。3行で6つ。所謂道行きの歌で、地名の割合が非常に高い。しかも、奈良から吉野までの地名とルートが今でもたどれるほどには、明瞭だ。しかし地名以外の描写が明日香の旧都への簡単な慕情以外に何もなく、路線図を見ているような味気なさがあって、とうてい地理的な文学ではない。

3232、3234。丹生、吉野(2)。3行で3つ。同じ長さで地名は前の半分。吉野丹生地方の民謡のような歌だ。林業の盛んな吉野の地理性が出ている。

3234、3235。伊勢の國、山の邊(2)、五十師の原、五十師。6行で4つ。平均的な長歌だが、題材が宮ぼめ的だから、構成も整っているが、肝心の五十師の原がはっきりしない。

3236。倭の國。常山(ならやま)、山代、筒木の原、于遅の渡、瀧の屋、阿後尼の原、山科、石田(いはた)の社、相坂山。反歌なしの3行で10こ。これは地名の割合では最高だろう。距離的には、奈良から吉野へ行くのと、逢坂山へ行くのとではほとんど変わりがないだろうが、地形的な変化が多い。大和平野の平坦なのに対し、原や大きな川がある。ただし、2、3所在地不明のものがあるのは残念だ。味気なさは3230、3231歌と同じ。

3237、3238。平山、氏川、相坂山、相海の海、相坂、淡海の海。3行で6つ。前のよりは少ないが。それでも多い。それにしても巻13は地名の表記が異常だ。奈良にしても、楢、常、平、と三回出たのがみな表記が違うし、しかも普通ではない。この歌の相海(あふみ)にしても変わっている。なんとなく素人が好き勝手に歌を書いているようだ。

3239。近江の海。3行で1つ。道行きではないので急に少なくなった。反歌もないし、内容も記紀歌謡的。それを言うなら、道行きも記紀歌謡的だった。

3240、3241。楢山、泉の川、氏の渡、近江道、相坂山、志我、韓埼(2)、伊香胡山、思我。5行で10こ。3236には及ばないが、これも多い。奈良から近江北端までの長い道行き。これは記紀歌謡的でなく。人麻呂の歌などから名文句を借りてきた、合成もの。

3242。三野の國、高北、八十一隣の宮、奥十山、三野の山(2)、奧礒山。2行で7つ。これも多いが、道行きではなく、繰り返しが多い。美濃とおきそが繰り返される。どうも大和の人間にとって、美濃とかは親近感が全然ないから、地名の実感がないが、名古屋当たりの人間でもよく分からないらしい。「行靡闕矣」という、有名な訓義不明の語句もあり、どう考えても独りよがりの歌だ。反歌もないから、何か地元の民謡のようなのを採集したのか。

3243、3244。長門の浦、阿胡の海(2)。5行で3つ。これも、大和の人間にはどこのことかさっぱり分からない地名で、内容も、海の生活を土台にした相聞のようだが、海浜生活の興味はあっても、場所が不明だと、風土性は感じられない。

3247。沼名川。1行に1字の短いもので1つ。地名も不明で、民謡的な短歌と変わらない。

3248、3249。山跡の土(くに)(2)。3行で2つ。国を土と書くのは珍しい。とにかく、巻13は表記も形式も変わっていて、専門歌人などの歌とは違い、保守的で、個性も感動も薄い。

3250、3251、3253。倭の國。6行で1つ。3248から相聞になっているが、やはり相聞は地名の重要性が少ない。

3253、3254、柿本朝臣人麻呂歌集。倭の國。3行で1つ。同上。

3255、3256、3257。5行で地名なし。同上。

3258、3259。4行で地名なし。同上。

3260、3261。小治田、年魚道。3行で2つ。短い割りに地名がはっきり出ているが、遺憾ながら、所在地が不明。よってイメージが湧かないし、風土性もない。天武の耳が嶺も所在不明だったが、大地名の吉野を冠しているので風土性が出た。

3263、3264。泊瀬の河。4行で1つ。泊瀬とはいっても、古事記歌謡とほぼ同じく、伝承のものだから、風土性がない。

3266、3267。神名火山、明日香の河、明日香河。4行で3つ。マンネリ。

3268、3269。三諸、神奈備山、真神の原。3行で3つ。何となく明日香らしい風土は出ているが、3行は短い。

3272、3273。5行で地名なし。記紀歌謡の単語だけ万葉風にしたようなもの。

3274、3275。4行で地名なし。同上。

3276、3277。山田の道。6行で1つ。ずいぶん長いのに、冒頭に、枕詞つきで山田の道が出るだけ。私のように明日香の近くに住む人間なら、山田と聞いて、あああそこかとイメージが湧くが、当時でもたいして有名ではなく、万葉でもおそらくここだけ。内容も説くに山田でなければならいようなものではない。結局これも同上。

3280。4行で地名なし。小説的。

3281、3282、3283。5行で地名なし。或本とあるだけあって、前のとほとんど同じ。

3289、3290。劔の池、清澄の池。3行で2つ。枕草子のものづくしのような歌。

3291、3292。芳野、5行で1つ。序詞の中で出て来た地名だが、吉野の山の青菅などは歌枕とは言えないから、吉野に詳しい人の用いた序詞だろう。しかし風土性はない。

3293、3294。吉野、御金の高、吉野の高。3行で3つ。天武の歌の類歌。これも吉野の地元の人の歌だろう。天武の歌を真似たか。

3295、3296。三宅の原、日本(やまと)、三宅道。4行で3つ。大和平野で三宅といえば、今でも磯城郡三宅町というのがあって、けっこう知られているが、古代にあって、大和平野中南部以外の人には、ほとんど知られていないだろう(今でも同じ)。たまたまそのあたりに詳しい歌好きが作ったものだろうが、夏草の繁茂など、風土性はある。

3300。難波の埼。2行で1つ。記紀歌謡の類歌。

3301。伊勢の海。2行で1つ。歌謡的。

3302。紀伊の國、室の江、出立。4行で3つ。歌謡的。

3303、3304。神名火。3行で1つ。明日香の歌謡か。

3310、3311。泊瀬の國、泊瀬小國。3行で2つ。3305から問答になっているが、相聞と同じで地名は貧弱。記紀歌謡の類歌。泊瀬というのは、盆地部の人間からは、一時代前を思わせる隠れ里のようなものだったらしい。それが風土性。

3312、3313。長谷小國、3行で1つ。同上。

3314、3315。山背道、泉川。4行で2つ。山城は街道関係の歌が多い。それも風土性。

3318、3319、3320、3321、3322。木の國、妹の山、背の山、巨勢道、木。8行で5つ。反歌が4つというのは、大変多いが、問答というのはどういうことか。紀伊関係も旅の歌が多い。これも風土性。山城も紀伊も、大和の歌好きが旅の相聞風に詠んだのだろう

3323。都久麻、佐野方、息長(2)、遠智(2)。2行で6つ。非常に地名が多いが、所在の不明なのが多く、実感が湧かない。此も地元に詳しい人のものだろう。大和の人間が読んで面白いとは思えない。

3324、3325。藤原、殖槻、城於、石村、石村の山。12行で5つ。ここから挽歌。長いから5つでは多いともいえないが、人麻呂でもこれより少なめだった。藤原の時代の皇子の挽歌のようで、人麻呂を真似た感じだが、なんといっても殖槻という見慣れない地名がひっかかる。それに、城於と石村との位置関係も理解しがたい。独りよがりの歌だ。

3326。日本の國、城上(の宮)。4行で2つ。先のと似たようなものだが短い。城上の宮とあるから、人麻呂以外にも高市皇子挽歌を作るものが居たのだろう。

3329。7行で地名なし。此だけの長さで無いのは珍しい。死んだ月の叙述が目立つ。

3330。長谷の川。4行で1つ。城上に対して長谷といったようにコンビとなっていたのだろう。やや古風な土地感覚で、歌も記紀歌謡的。

3331。長谷の山、忍坂の山。2行で2つ。前のと同じような雰囲気。

3333、3334。倭、大伴、御津、盡の山。4行で4つ。以下海の挽歌のようで、道行き的。

3335。3行で無し。海の行路死人歌。

3336。所聞《かしま》の海。6行で1つ。人麻呂のさみねの島の挽歌の通俗化したもの。

3339、3340、3341、3342、3343。9行で無し。3335から一連の挽歌のようで、ここの題詞に備後國神嶋の濱とある。瀬戸内海では有名だったのだろうが、なにか遠い話だ。実話というより、小説かドラマのよう。

3344、3345。5行で無し。同上。

3346、3347。十羽の松原、3行で1つ。同上だが、とばの松原などというのは聞いたことがない。小説かドラマとすれば、別に分からなくても言い訳だ。虚構でいいのだから。

巻13の長歌群については、
 萬葉集全注 巻第十三、曾倉岑、有斐閣、367頁、2005.11.20
が、大変詳しく、私が言ってきたようなことも、たいがい出ている(見ないで書いて、今拾い読みしている)。

ところどころで、地理的風土的な内容の面白さとか、そういうものがよく出ている歌とか言ってきたが、具体的にどうなのかと言われるとなかなかいいにくい。世には風土論と銘打った万葉研究書も多々あるが、大概は、地名考証とか、歌枕研究とか、歴史地理的な論考とかで、風土を感じさせる論文などめったにない。和辻の風土にすら及ばない。だいたい風土と言って、一番理解しやすいものは、映画やドラマだろう。写真でもいい。砂漠や雪山、大洋、熱帯林などなど、いくら文章で細かく叙述しても、優れた映画一つに及ばない。写真の重要性は、鴻巣全釈、金子評釈などから、いろいろと言われているが、たいがいはただの記念写真か観光写真で、それによって、万葉の歌がどこまで分かるものか、疑わしい。犬養孝の「万葉の旅」などは、写真が主役といったものだが、必ず前景を入れ、また望遠レンズを使ったりして、典型的な写真のための写真で、文学としての万葉の歌とは殆ど関係がない。これがなぜ高く評価されるのか疑問だ。
だいたい風土というのは、地名を比定するだけで分かるものではない。といって、四季や動植物や気象などの自然を詳しく調べても分かるものではない。風土というのは、気候や植生や動物相、また、地形や地質などの地学的なものや、交通、産業、人口などの人文地理学的なものの総体だろう。それを総合的に叙述するなど至難の業で、だから、大宅壮一が「現代スリル論」(1936.7、全集第4巻)でいっているけれど、小説はとうてい映画には勝てない。いくら、地図や写真や図を駆使しても、地理学の各論にはなっても、風土論にはならない。それより小さい議論のはずの、風土文芸論も成果を上げるのはむつかしい。以前、長谷章久という人が居たが、平安文学の歌枕考察の類であった。
万葉集においても方法などなかなか見出せるものではない。大和ではモミジは黄葉だ(赤いのは少ない)といっても、実際は赤いのも多い(桜や柿など)から、それで風土文芸学だなどとはなかなか言えない。和歌山は南へ行くほど黒潮に近づき、豪快に、また南国的になるなどと犬養孝は言うが、おおかた犬養自身の主観であって、実際の万葉集がそういう姿を見せるかどうかは別問題だ。とにかく、風土といっても、地理的な現象(自然、人文両方を含めて)から見つけ出してくるしかないのであり、それを皮膚感覚的に読解することになる。その点からすると、土着の人間が一番感じ取りやすい。私などは、根っからの、大和平野中南部高市郡)の人間だから、大和平野の中部以南(田原本以南)から、吉野、宇陀にかけては、山の稜線、空の雲、川の流れ、かつての集落や街道の様子、などなどふかく感得できるが、大和平野北部、特に、斑鳩から生駒にかけて、そして大和高原の北部(都祁、天理以北)、については印象が薄い。まして奈良県以外となると、何度も行った、伊勢南部や和歌山、大阪、京都などを除いて、数回旅行した程度であり、とても、土着の人には及ばない。さいわい、万葉集は、大和の歌を中心に、大和以外へ旅した人たちの旅の歌を集めたものだから、私などには、それほどの違和感はない。
そういう歌の中から、風土性をよく感じさせて、面白い歌だ、というのを具体的に見つけ出していくのが、万葉集を風土論的に読んでいくことだろう。もちろん、万葉集は風土だけを歌ったものではないが、風土を感じさせる歌が多いのも事実なのだ。
地理や地質、天文などが好きだった内村鑑三には、数は少ないが風土を感じさせるすぐれた小編があるが、そういうものが万葉にもあるのである。なにも環境決定論的に万葉集は質的にどのように風土から影響を受けているかなどと大きく構える必要はない。久松潜一のようなことをしても成績は上がらない。

2331、わざみ14(風土の万葉)
古挽歌、丹比大夫(3625、3626)。6行で無し。長門の浦を出た後の歌だとは分かるが、題詞にも地名が無く、序詞に海辺の景物が詠まれているのが風土を感じさせる程度。

属物発思、(3627、3628)。美津のはま、からくに、みぬめ、あはぢのしま、あかしのうら、いへしま、たまのうら(2)。15行で8つ。相当に長いが、それにしても8つは多いだろう。既に倉橋島あたりまで来て、難波から岡山県内と言われる、たまのうら、までの道行きを詠むのものんきなものだ。全体に、若宮年魚麻呂の誦詠歌に似ている。

雪連宅満死去の時の歌(3688、3689、3690)。から國、やまと、いはた野。7行で3つ。題詞に壱岐島に着いてとあるからいいものの、ただ「いはた野」だけではおくわからず、しかも、そこの環境もただ「いはがねの あらきしまね」とあるだけでは、7行もあるのに簡単すぎる。旅の途中での風土などというのは、余程の名人でないと歌えないのだろう。

葛井連子老の挽歌、(3691、3692、3693)。8行で無し。場所は前歌に委ねてひたすら悲しみを述べたが、故郷を遠く離れた壱岐の自然はこっちの方が少しは出ている。平凡だが。

竹取翁の歌、(3791、3792、3793)。墨の江、遠里小野、飛鳥。16行で3つ。僅かな地名だが、それすら、舞台になった地名ではない。まあ、とにかく物産や外国品の多い、難波の住吉が話題になっており、芸謡的な雰囲気の舞台は感じられる。

夫君を恋する歌、車持氏の娘(3811、3812)。5行で無し。正述心緒。

(3875)。押垂小野。3行で1つ。ただの相聞だが、機能不明の地名。

乞食者の詠、(3885)。韓國、平群、7行で2つ。芸謡で、長さの割りに地名は少ないから風土性はない。

乞食者の詠、(3886)。難波(2)、飛鳥、置勿、つくぬ。7行で4つ。前のよりふえたが、ふえた部分の地名は、どこかさっぱり分からず、結局前のとおなじ。それにしても、平群、難波、住吉と言った、大和の西辺から、河内、摂津、に至るあたりは、説話や芸謡が目立つようだ。やはり、中国、朝鮮との繋がりの濃さが影響するのだろうか。

三香の原新都を讃える歌、境部老麻呂(3907、3908)。山背、久迩、泉の河、いづみのかは。4行で4つ。宮都讃歌の焼き直し。平凡。

長逝した弟を哀傷する歌、大伴家持(3957、3958、3959)。奈良やま、泉河、佐保のうち、こしのうみ。11行で4つ。一応必要最小限の地名は押さえているが、長いのに、インパクトのない地名が4つでは、物足りないし、個性的な風土描写もない。

死に臨んだときの悲しみの歌、大伴家持(3962、3963、3964)。12行で無し。この長さで地名なしは憶良並だ。越中とでも言うのかと思ったら、ただ「ひな」というだけ、平凡な日記のような味気なさ。

更に贈った歌、大伴家持(3969、3970、3971、3972)。こし。13行で1つ。前の「ひな」を具体的に「こし(越)」と言っただけ、ほかは同上。

大伴池主(3973、3974、3975)。奈良ぢ。10行で1つ。家持に贈った日記的な手紙。同上。

恋の思いを述べる歌、大伴家持(3978、3979、3980、3981、3982)。淡海路、奈良。15行で2つ。辛うじて2つ出たが、15行の長さでは焼け石に水。短歌4首はしつこい。

二上山賦、大伴家持(3985、3986、3987)。いみづかは、ふたがみ山(2)、しぶたに(2)。7行で5つ。一応地名は整っているが、人麻呂の亜流のような型どおりの叙述で、地理的風土的な感興に乏しい。川があり海岸があり、花鳥があるというだけでは、二上山の半分も分からない。

布勢水海遊覧の賦、大伴家持(3991、3992)。しぶたに、まつだえ、ながはま、うなひがは、布勢のうみ(2)、ふたがみやま。8行で7つ。地名は道行き的に多いが、遠足のような叙述で、山がない。賦というものを形式的にまねただけのようなものだ。

和した歌、大伴池主(3993、3994)。いみづかは、しぶたに、布勢のみづうみ、をふのさき。11行で4つ。家持より長いのに地名はほぼ半減。ただし、長い分、布勢水海の描写が詳しい。けっこう風土的なものがでている。芭蕉の象潟のような。


立山賦、大伴家持(4000、4001、4002)。こしのなか、にひかは、たちやま(2)、かたかひがは。8行で5つ。家持のいつも通りの地名配分のようだが、以前にも言ったように、片貝川立山との関係が地理的に無理がある。だから、家持の体験が伝わらない。案外地理には暗かったのか。

敬和立山賦、大伴池主(4003、4004、4005)。たちやま(2)、かたかひがは。9行で3つ。家持作で大地名は出ているので省いたか。その分描写が増えたが、概念的で地理的な具体性に欠ける。

入京が近づき憂うる歌、大伴家持(4006、4007)。ふたがみやま、いみづかは。11行で2つ。申し訳程度に地名を出した。別れの辛さを歌うのだから、地理は無用であったようだ。

それにこたえた歌、大伴池主(4008、4009、4010)。奈良、となみやま。10行で2つ。家持のとほとんど同じ構成。贈る立場で言っただけのこと。ベクトルがちがうだけ。

逃げた鷹を夢にて喜ぶ歌、大伴家持(4011、4012、4013、4014、4015)。越、三嶋野、二上の山、まつだえ、ひみの江、たこのしま、みしま野、二上、すかのやま。22行で9つ。非常な長篇だから9つというのは、妥当なところだが、ただ地名が羅列されるだけで、地理や風土はあまり浮かんでこない。三嶋野とか、まつだ江とか、たこの島とか、家持にはそれで充分なのだろうが、方向とか距離とか地形とかの説明が少ないのでイメージが湧きにくい。これは家持だけの問題ではなく、和歌文学、また散文の未発達な古文の通有性でもあろう。

一人はるかな霍公鳥の啼く声を聞く歌、大伴家持(4089、4090、4091、4092)。8行で無し。詠物だから無しでもやむを得ない。

陸奥の出金を讃える歌、大伴家持(4094、4095、4096、4097)。東國、みちのく、小田、あづま、みちのくやま。19行で5つ。長篇だから5つでは少ないが、どこから出たということだけ言えばいいのだから、やむを得ない。東北の地理風土など知らないだろうから。

芳野行幸の儲作歌、大伴家持(4098、4099、4100)。よしの、よしののみや、よしのがは。7行で3つ。吉野という地名だけでは風土もなにもない。観念的。

真珠を願う歌、大伴家持(4101、4102、4103、4104、4105)。珠洲、おきつしま(2)。9行で3つ。なんで珠洲なんだろう、輪島ではないのか。家持だから信用できない。

少咋を諭す歌、大伴家持(4106、4107、4108、4109)。射水河、なごのうみ、奈良。12行で3つ。と言っても前の二つは比喩だから、実質一つ。こういう無風土性は憶良ばり。

橘の歌、大伴家持(4111、4112)。10行で無し。期待できないとはいえ、やはり失望。

庭の花、大伴家持(4113、4114、4115)。こし。7行で1つ。地理的な自然への関心薄い。

久米廣縄歓迎の宴の歌、大伴家持(4113、4114、4115)。射水河、奈呉江。10行で2つ。どちらも比喩。言葉の技巧で出した地名だから、風土性はない。

旱の時の雲の歌、大伴家持(4122、4123)。8行で無し。平凡な挨拶歌のようなもの。

七夕の歌、大伴家持(4125、4126、4127)。8行で無し。題からして期待できない。

白い大鷹を詠む歌、大伴家持(4154、4155)。こし、石瀬野。7行で2つ。以前の鷹の歌では三嶋野だった。しょせん鷹狩りの場所などというのは山間原野だろうから、わからなくてもいいわけだ。それにしても、家持はよく「こし」というが、冨山辺を「こし」とだけ言っていいのだろうか。これでは、越前、越後などは「こし」の中の辺地となるが。

鵜飼の歌、大伴家持(4156、4157)。辟田の河、辟田河、さきた河。5行で3つ。3度も繰り返すのは珍しいが、せめてそのあたりの多くの人が知る地名でも混ぜてくれたらよかった。やはり家持は地理的な詳しさには関心がないようだ。彼は、鷹、霍公鳥、鶯、鵜、雲雀、なでしこ、橘、などの動植物、特に鳥類が好きだったようだ。

世間の無常を哀しむ歌、大伴家持(4160、4161、4162)。7行で無し。地理は無関係。

勇士の名を振うのを慕う歌、大伴家持(4164、4165)。5行で無し。同上。

霍公鳥と時の花を詠む歌、大伴家持(4166、4167、4168)。7行で無し。同上。

在京の母に贈る歌の代作、大伴家持(4169、4170)。奈呉。5行で1つ。奈呉はそこの海女の採る真珠を比喩に使ったものだが、この海は家持の居た伏木のすぐ前の海だから、すぐに思い付く地名で、特に意味はない。

池主に贈る霍公鳥への思いの歌、大伴家持(4177、4178、4179)。利波山、丹生の山邊。6行で2つ。家持にしては地理が具体的だが、まだ偶然に出た地名といった程度。だいたい家持の居た伏木から礪波山を越えても、池主の居るところには行かないと言った程度の曖昧さが残っている。

山吹の花を詠む歌、大伴家持(4185、4186)。4行で無し。例によって詠物的概念的。

布勢の水海に遊ぶ歌、大伴家持(4187、4188)。布勢の海(2)、をふの浦、垂姫。5行で4つ。地名は多いが、あまり効果的ではない。もう人麻呂のように、地名に枕詞を付けるわけではないから、散文的で、地形の印象も出ていない。

池主に鵜を贈る歌、大伴家持(4189、4190、4191)。叔羅河(2)。6行で2つ。これもただ叔羅河では風土性地理性はない。

霍公鳥と藤の花を詠む歌、大伴家持(4192、4193)。盖上山。5行で1つ。かなり細かいが、それでも二上山の風土が出ているとまでは言えない。

久米廣縄に贈る霍公鳥を怨む歌、大伴家持(4207、4208)。5行で無し。惜しい。もう少し具体的に地理を描写すれば面白い歌になった。

霍公鳥を詠む歌、久米廣縄(4209、4210)。4行で無し。ほとんど散文。

処女墓に追同する歌、大伴家持(4211、4212)。7行で無し。但し人名に含む。ちぬをとこ、うなひをとこ。ちぬは和泉、うなひは摂津。小説的に出来ている。

挽歌、大伴家持(4214、4215、4216)。10行で無し。他人の語句のつづり合わせ。

都から贈ってきた歌、大伴坂上郎女(4220、4221)。こし。6行で1つ。普通の相聞。

死んだ妻を悲傷する歌、遊行女婦蒲生の誦した歌(4236、4237)。4行で無し。挽歌。

入唐使に贈る歌、作主未詳(4245、4246)。山跡の國、平城の京、難波、住吉の三津、墨吉。5行で5つ。殆どの地名に枕詞が着いており、やや古風な形式的な歌。

京に向かう路上、あらかじめ作る、侍宴して応詔する歌、大伴家持(4254、4255)。山跡國。7行で1つ。平凡な頌歌。地名1つでは張り合いもない。

入唐使藤原清河に酒を賜う歌、(4264、4265)。山跡の國。3行で1つ。ただの挨拶歌。

詔に応じるためあらかじめ作った歌、大伴家持(4266、4267)。奈良の京師。5行で1つ。

防人の悲別の心を追って痛んだ歌、大伴家持(4331、4332)。筑紫國、あづま(2)、難波のみつ。12行で4つ。最小限の説明的な地名のみ。風土性はもともと期待できない。

私の拙懐を陳べる歌、大伴家持(4360、4361)。難波のくに、難波宮、難波の海、なには。12行で4つ。多くはないが、難波のいろんな面をいい、難波の風土が出ている。佳作。

倭文部可良麻呂(4372)。あしがら、ふはのせき、つくしのさき。3行で3つ。短い乍らに防人にとって印象的な地名が出ている。

防人の情のために思いを陳べる歌、大伴家持(4398、4399、4400)。難波、10行で1つ。センチメンタルな歌はさすがにうまい。それにしても1つとは愛想がない。それだけ日本はまだまだ手つかずの自然が多く、大きな町や、名所などの地名が少なかったのだろう。

防人の悲別の情を陳べる歌、大伴家持(4408、4409、4410、4411、4412)。すみのえ、なにはつ。18行で2つ。非常に長いのに平凡な地名が二つでは無いに等しい。語句は防人の歌から取ってきたようなのが多い。家持の悪い面が出ている。散文的類歌的。

族を諭す歌、大伴家持(4465、4466、4467)。たかちほのたけ、やまとのくに(2)、かしはら、うねびの宮。13行で5つ。神話的な伝承の中の地名だから、実感がない。ただ長いだけで、風土的なものはない。

以上で万葉の長歌はほぼみな見た。家持は数も多く、また北陸での生活も長かったが、風土的地理的な興味を感じさせるようなものは少ない。難波での歌に、風土性のよく出たのがあった。やはり見慣れたところでもあり、また大和のすぐ近くで、大和の裏庭的なものだから、地理や風土も熟知していて、安心して詠めたのだろう。

2331、わざみ14(風土の万葉)
古挽歌、丹比大夫(3625、3626)。6行で無し。長門の浦を出た後の歌だとは分かるが、題詞にも地名が無く、序詞に海辺の景物が詠まれているのが風土を感じさせる程度。

属物発思、(3627、3628)。美津のはま、からくに、みぬめ、あはぢのしま、あかしのうら、いへしま、たまのうら(2)。15行で8つ。相当に長いが、それにしても8つは多いだろう。既に倉橋島あたりまで来て、難波から岡山県内と言われる、たまのうら、までの道行きを詠むのものんきなものだ。全体に、若宮年魚麻呂の誦詠歌に似ている。

雪連宅満死去の時の歌(3688、3689、3690)。から國、やまと、いはた野。7行で3つ。題詞に壱岐島に着いてとあるからいいものの、ただ「いはた野」だけではおくわからず、しかも、そこの環境もただ「いはがねの あらきしまね」とあるだけでは、7行もあるのに簡単すぎる。旅の途中での風土などというのは、余程の名人でないと歌えないのだろう。

葛井連子老の挽歌、(3691、3692、3693)。8行で無し。場所は前歌に委ねてひたすら悲しみを述べたが、故郷を遠く離れた壱岐の自然はこっちの方が少しは出ている。平凡だが。

竹取翁の歌、(3791、3792、3793)。墨の江、遠里小野、飛鳥。16行で3つ。僅かな地名だが、それすら、舞台になった地名ではない。まあ、とにかく物産や外国品の多い、難波の住吉が話題になっており、芸謡的な雰囲気の舞台は感じられる。

夫君を恋する歌、車持氏の娘(3811、3812)。5行で無し。正述心緒。

(3875)。押垂小野。3行で1つ。ただの相聞だが、機能不明の地名。

乞食者の詠、(3885)。韓國、平群、7行で2つ。芸謡で、長さの割りに地名は少ないから風土性はない。

乞食者の詠、(3886)。難波(2)、飛鳥、置勿、つくぬ。7行で4つ。前のよりふえたが、ふえた部分の地名は、どこかさっぱり分からず、結局前のとおなじ。それにしても、平群、難波、住吉と言った、大和の西辺から、河内、摂津、に至るあたりは、説話や芸謡が目立つようだ。やはり、中国、朝鮮との繋がりの濃さが影響するのだろうか。

三香の原新都を讃える歌、境部老麻呂(3907、3908)。山背、久迩、泉の河、いづみのかは。4行で4つ。宮都讃歌の焼き直し。平凡。

長逝した弟を哀傷する歌、大伴家持(3957、3958、3959)。奈良やま、泉河、佐保のうち、こしのうみ。11行で4つ。一応必要最小限の地名は押さえているが、長いのに、インパクトのない地名が4つでは、物足りないし、個性的な風土描写もない。

死に臨んだときの悲しみの歌、大伴家持(3962、3963、3964)。12行で無し。この長さで地名なしは憶良並だ。越中とでも言うのかと思ったら、ただ「ひな」というだけ、平凡な日記のような味気なさ。

更に贈った歌、大伴家持(3969、3970、3971、3972)。こし。13行で1つ。前の「ひな」を具体的に「こし(越)」と言っただけ、ほかは同上。

大伴池主(3973、3974、3975)。奈良ぢ。10行で1つ。家持に贈った日記的な手紙。同上。

恋の思いを述べる歌、大伴家持(3978、3979、3980、3981、3982)。淡海路、奈良。15行で2つ。辛うじて2つ出たが、15行の長さでは焼け石に水。短歌4首はしつこい。

二上山賦、大伴家持(3985、3986、3987)。いみづかは、ふたがみ山(2)、しぶたに(2)。7行で5つ。一応地名は整っているが、人麻呂の亜流のような型どおりの叙述で、地理的風土的な感興に乏しい。川があり海岸があり、花鳥があるというだけでは、二上山の半分も分からない。

布勢水海遊覧の賦、大伴家持(3991、3992)。しぶたに、まつだえ、ながはま、うなひがは、布勢のうみ(2)、ふたがみやま。8行で7つ。地名は道行き的に多いが、遠足のような叙述で、山がない。賦というものを形式的にまねただけのようなものだ。

和した歌、大伴池主(3993、3994)。いみづかは、しぶたに、布勢のみづうみ、をふのさき。11行で4つ。家持より長いのに地名はほぼ半減。ただし、長い分、布勢水海の描写が詳しい。けっこう風土的なものがでている。芭蕉の象潟のような。


立山賦、大伴家持(4000、4001、4002)。こしのなか、にひかは、たちやま(2)、かたかひがは。8行で5つ。家持のいつも通りの地名配分のようだが、以前にも言ったように、片貝川立山との関係が地理的に無理がある。だから、家持の体験が伝わらない。案外地理には暗かったのか。

敬和立山賦、大伴池主(4003、4004、4005)。たちやま(2)、かたかひがは。9行で3つ。家持作で大地名は出ているので省いたか。その分描写が増えたが、概念的で地理的な具体性に欠ける。

入京が近づき憂うる歌、大伴家持(4006、4007)。ふたがみやま、いみづかは。11行で2つ。申し訳程度に地名を出した。別れの辛さを歌うのだから、地理は無用であったようだ。

それにこたえた歌、大伴池主(4008、4009、4010)。奈良、となみやま。10行で2つ。家持のとほとんど同じ構成。贈る立場で言っただけのこと。ベクトルがちがうだけ。

逃げた鷹を夢にて喜ぶ歌、大伴家持(4011、4012、4013、4014、4015)。越、三嶋野、二上の山、まつだえ、ひみの江、たこのしま、みしま野、二上、すかのやま。22行で9つ。非常な長篇だから9つというのは、妥当なところだが、ただ地名が羅列されるだけで、地理や風土はあまり浮かんでこない。三嶋野とか、まつだ江とか、たこの島とか、家持にはそれで充分なのだろうが、方向とか距離とか地形とかの説明が少ないのでイメージが湧きにくい。これは家持だけの問題ではなく、和歌文学、また散文の未発達な古文の通有性でもあろう。

一人はるかな霍公鳥の啼く声を聞く歌、大伴家持(4089、4090、4091、4092)。8行で無し。詠物だから無しでもやむを得ない。

陸奥の出金を讃える歌、大伴家持(4094、4095、4096、4097)。東國、みちのく、小田、あづま、みちのくやま。19行で5つ。長篇だから5つでは少ないが、どこから出たということだけ言えばいいのだから、やむを得ない。東北の地理風土など知らないだろうから。

芳野行幸の儲作歌、大伴家持(4098、4099、4100)。よしの、よしののみや、よしのがは。7行で3つ。吉野という地名だけでは風土もなにもない。観念的。

真珠を願う歌、大伴家持(4101、4102、4103、4104、4105)。珠洲、おきつしま(2)。9行で3つ。なんで珠洲なんだろう、輪島ではないのか。家持だから信用できない。

少咋を諭す歌、大伴家持(4106、4107、4108、4109)。射水河、なごのうみ、奈良。12行で3つ。と言っても前の二つは比喩だから、実質一つ。こういう無風土性は憶良ばり。

橘の歌、大伴家持(4111、4112)。10行で無し。期待できないとはいえ、やはり失望。

庭の花、大伴家持(4113、4114、4115)。こし。7行で1つ。地理的な自然への関心薄い。

久米廣縄歓迎の宴の歌、大伴家持(4113、4114、4115)。射水河、奈呉江。10行で2つ。どちらも比喩。言葉の技巧で出した地名だから、風土性はない。

旱の時の雲の歌、大伴家持(4122、4123)。8行で無し。平凡な挨拶歌のようなもの。

七夕の歌、大伴家持(4125、4126、4127)。8行で無し。題からして期待できない。

白い大鷹を詠む歌、大伴家持(4154、4155)。こし、石瀬野。7行で2つ。以前の鷹の歌では三嶋野だった。しょせん鷹狩りの場所などというのは山間原野だろうから、わからなくてもいいわけだ。それにしても、家持はよく「こし」というが、冨山辺を「こし」とだけ言っていいのだろうか。これでは、越前、越後などは「こし」の中の辺地となるが。

鵜飼の歌、大伴家持(4156、4157)。辟田の河、辟田河、さきた河。5行で3つ。3度も繰り返すのは珍しいが、せめてそのあたりの多くの人が知る地名でも混ぜてくれたらよかった。やはり家持は地理的な詳しさには関心がないようだ。彼は、鷹、霍公鳥、鶯、鵜、雲雀、なでしこ、橘、などの動植物、特に鳥類が好きだったようだ。

世間の無常を哀しむ歌、大伴家持(4160、4161、4162)。7行で無し。地理は無関係。

勇士の名を振うのを慕う歌、大伴家持(4164、4165)。5行で無し。同上。

霍公鳥と時の花を詠む歌、大伴家持(4166、4167、4168)。7行で無し。同上。

在京の母に贈る歌の代作、大伴家持(4169、4170)。奈呉。5行で1つ。奈呉はそこの海女の採る真珠を比喩に使ったものだが、この海は家持の居た伏木のすぐ前の海だから、すぐに思い付く地名で、特に意味はない。

池主に贈る霍公鳥への思いの歌、大伴家持(4177、4178、4179)。利波山、丹生の山邊。6行で2つ。家持にしては地理が具体的だが、まだ偶然に出た地名といった程度。だいたい家持の居た伏木から礪波山を越えても、池主の居るところには行かないと言った程度の曖昧さが残っている。

山吹の花を詠む歌、大伴家持(4185、4186)。4行で無し。例によって詠物的概念的。

布勢の水海に遊ぶ歌、大伴家持(4187、4188)。布勢の海(2)、をふの浦、垂姫。5行で4つ。地名は多いが、あまり効果的ではない。もう人麻呂のように、地名に枕詞を付けるわけではないから、散文的で、地形の印象も出ていない。

池主に鵜を贈る歌、大伴家持(4189、4190、4191)。叔羅河(2)。6行で2つ。これもただ叔羅河では風土性地理性はない。

霍公鳥と藤の花を詠む歌、大伴家持(4192、4193)。盖上山。5行で1つ。かなり細かいが、それでも二上山の風土が出ているとまでは言えない。

久米廣縄に贈る霍公鳥を怨む歌、大伴家持(4207、4208)。5行で無し。惜しい。もう少し具体的に地理を描写すれば面白い歌になった。

霍公鳥を詠む歌、久米廣縄(4209、4210)。4行で無し。ほとんど散文。

処女墓に追同する歌、大伴家持(4211、4212)。7行で無し。但し人名に含む。ちぬをとこ、うなひをとこ。ちぬは和泉、うなひは摂津。小説的に出来ている。

挽歌、大伴家持(4214、4215、4216)。10行で無し。他人の語句のつづり合わせ。

都から贈ってきた歌、大伴坂上郎女(4220、4221)。こし。6行で1つ。普通の相聞。

死んだ妻を悲傷する歌、遊行女婦蒲生の誦した歌(4236、4237)。4行で無し。挽歌。

入唐使に贈る歌、作主未詳(4245、4246)。山跡の國、平城の京、難波、住吉の三津、墨吉。5行で5つ。殆どの地名に枕詞が着いており、やや古風な形式的な歌。

京に向かう路上、あらかじめ作る、侍宴して応詔する歌、大伴家持(4254、4255)。山跡國。7行で1つ。平凡な頌歌。地名1つでは張り合いもない。

入唐使藤原清河に酒を賜う歌、(4264、4265)。山跡の國。3行で1つ。ただの挨拶歌。

詔に応じるためあらかじめ作った歌、大伴家持(4266、4267)。奈良の京師。5行で1つ。

防人の悲別の心を追って痛んだ歌、大伴家持(4331、4332)。筑紫國、あづま(2)、難波のみつ。12行で4つ。最小限の説明的な地名のみ。風土性はもともと期待できない。

私の拙懐を陳べる歌、大伴家持(4360、4361)。難波のくに、難波宮、難波の海、なには。12行で4つ。多くはないが、難波のいろんな面をいい、難波の風土が出ている。佳作。

倭文部可良麻呂(4372)。あしがら、ふはのせき、つくしのさき。3行で3つ。短い乍らに防人にとって印象的な地名が出ている。

防人の情のために思いを陳べる歌、大伴家持(4398、4399、4400)。難波、10行で1つ。センチメンタルな歌はさすがにうまい。それにしても1つとは愛想がない。それだけ日本はまだまだ手つかずの自然が多く、大きな町や、名所などの地名が少なかったのだろう。

防人の悲別の情を陳べる歌、大伴家持(4408、4409、4410、4411、4412)。すみのえ、なにはつ。18行で2つ。非常に長いのに平凡な地名が二つでは無いに等しい。語句は防人の歌から取ってきたようなのが多い。家持の悪い面が出ている。散文的類歌的。

族を諭す歌、大伴家持(4465、4466、4467)。たかちほのたけ、やまとのくに(2)、かしはら、うねびの宮。13行で5つ。神話的な伝承の中の地名だから、実感がない。ただ長いだけで、風土的なものはない。

以上で万葉の長歌はほぼみな見た。家持は数も多く、また北陸での生活も長かったが、風土的地理的な興味を感じさせるようなものは少ない。難波での歌に、風土性のよく出たのがあった。やはり見慣れたところでもあり、また大和のすぐ近くで、大和の裏庭的なものだから、地理や風土も熟知していて、安心して詠めたのだろう。

 

1、わざみ14(風土の万葉)
古挽歌、丹比大夫(3625、3626)。6行で無し。長門の浦を出た後の歌だとは分かるが、題詞にも地名が無く、序詞に海辺の景物が詠まれているのが風土を感じさせる程度。

属物発思、(3627、3628)。美津のはま、からくに、みぬめ、あはぢのしま、あかしのうら、いへしま、たまのうら(2)。15行で8つ。相当に長いが、それにしても8つは多いだろう。既に倉橋島あたりまで来て、難波から岡山県内と言われる、たまのうら、までの道行きを詠むのものんきなものだ。全体に、若宮年魚麻呂の誦詠歌に似ている。

雪連宅満死去の時の歌(3688、3689、3690)。から國、やまと、いはた野。7行で3つ。題詞に壱岐島に着いてとあるからいいものの、ただ「いはた野」だけではおくわからず、しかも、そこの環境もただ「いはがねの あらきしまね」とあるだけでは、7行もあるのに簡単すぎる。旅の途中での風土などというのは、余程の名人でないと歌えないのだろう。

葛井連子老の挽歌、(3691、3692、3693)。8行で無し。場所は前歌に委ねてひたすら悲しみを述べたが、故郷を遠く離れた壱岐の自然はこっちの方が少しは出ている。平凡だが。

竹取翁の歌、(3791、3792、3793)。墨の江、遠里小野、飛鳥。16行で3つ。僅かな地名だが、それすら、舞台になった地名ではない。まあ、とにかく物産や外国品の多い、難波の住吉が話題になっており、芸謡的な雰囲気の舞台は感じられる。

夫君を恋する歌、車持氏の娘(3811、3812)。5行で無し。正述心緒。

(3875)。押垂小野。3行で1つ。ただの相聞だが、機能不明の地名。

乞食者の詠、(3885)。韓國、平群、7行で2つ。芸謡で、長さの割りに地名は少ないから風土性はない。

乞食者の詠、(3886)。難波(2)、飛鳥、置勿、つくぬ。7行で4つ。前のよりふえたが、ふえた部分の地名は、どこかさっぱり分からず、結局前のとおなじ。それにしても、平群、難波、住吉と言った、大和の西辺から、河内、摂津、に至るあたりは、説話や芸謡が目立つようだ。やはり、中国、朝鮮との繋がりの濃さが影響するのだろうか。

三香の原新都を讃える歌、境部老麻呂(3907、3908)。山背、久迩、泉の河、いづみのかは。4行で4つ。宮都讃歌の焼き直し。平凡。

長逝した弟を哀傷する歌、大伴家持(3957、3958、3959)。奈良やま、泉河、佐保のうち、こしのうみ。11行で4つ。一応必要最小限の地名は押さえているが、長いのに、インパクトのない地名が4つでは、物足りないし、個性的な風土描写もない。

死に臨んだときの悲しみの歌、大伴家持(3962、3963、3964)。12行で無し。この長さで地名なしは憶良並だ。越中とでも言うのかと思ったら、ただ「ひな」というだけ、平凡な日記のような味気なさ。

更に贈った歌、大伴家持(3969、3970、3971、3972)。こし。13行で1つ。前の「ひな」を具体的に「こし(越)」と言っただけ、ほかは同上。

大伴池主(3973、3974、3975)。奈良ぢ。10行で1つ。家持に贈った日記的な手紙。同上。

恋の思いを述べる歌、大伴家持(3978、3979、3980、3981、3982)。淡海路、奈良。15行で2つ。辛うじて2つ出たが、15行の長さでは焼け石に水。短歌4首はしつこい。

二上山賦、大伴家持(3985、3986、3987)。いみづかは、ふたがみ山(2)、しぶたに(2)。7行で5つ。一応地名は整っているが、人麻呂の亜流のような型どおりの叙述で、地理的風土的な感興に乏しい。川があり海岸があり、花鳥があるというだけでは、二上山の半分も分からない。

布勢水海遊覧の賦、大伴家持(3991、3992)。しぶたに、まつだえ、ながはま、うなひがは、布勢のうみ(2)、ふたがみやま。8行で7つ。地名は道行き的に多いが、遠足のような叙述で、山がない。賦というものを形式的にまねただけのようなものだ。

和した歌、大伴池主(3993、3994)。いみづかは、しぶたに、布勢のみづうみ、をふのさき。11行で4つ。家持より長いのに地名はほぼ半減。ただし、長い分、布勢水海の描写が詳しい。けっこう風土的なものがでている。芭蕉の象潟のような。


立山賦、大伴家持(4000、4001、4002)。こしのなか、にひかは、たちやま(2)、かたかひがは。8行で5つ。家持のいつも通りの地名配分のようだが、以前にも言ったように、片貝川立山との関係が地理的に無理がある。だから、家持の体験が伝わらない。案外地理には暗かったのか。

敬和立山賦、大伴池主(4003、4004、4005)。たちやま(2)、かたかひがは。9行で3つ。家持作で大地名は出ているので省いたか。その分描写が増えたが、概念的で地理的な具体性に欠ける。

入京が近づき憂うる歌、大伴家持(4006、4007)。ふたがみやま、いみづかは。11行で2つ。申し訳程度に地名を出した。別れの辛さを歌うのだから、地理は無用であったようだ。

それにこたえた歌、大伴池主(4008、4009、4010)。奈良、となみやま。10行で2つ。家持のとほとんど同じ構成。贈る立場で言っただけのこと。ベクトルがちがうだけ。

逃げた鷹を夢にて喜ぶ歌、大伴家持(4011、4012、4013、4014、4015)。越、三嶋野、二上の山、まつだえ、ひみの江、たこのしま、みしま野、二上、すかのやま。22行で9つ。非常な長篇だから9つというのは、妥当なところだが、ただ地名が羅列されるだけで、地理や風土はあまり浮かんでこない。三嶋野とか、まつだ江とか、たこの島とか、家持にはそれで充分なのだろうが、方向とか距離とか地形とかの説明が少ないのでイメージが湧きにくい。これは家持だけの問題ではなく、和歌文学、また散文の未発達な古文の通有性でもあろう。

一人はるかな霍公鳥の啼く声を聞く歌、大伴家持(4089、4090、4091、4092)。8行で無し。詠物だから無しでもやむを得ない。

陸奥の出金を讃える歌、大伴家持(4094、4095、4096、4097)。東國、みちのく、小田、あづま、みちのくやま。19行で5つ。長篇だから5つでは少ないが、どこから出たということだけ言えばいいのだから、やむを得ない。東北の地理風土など知らないだろうから。

芳野行幸の儲作歌、大伴家持(4098、4099、4100)。よしの、よしののみや、よしのがは。7行で3つ。吉野という地名だけでは風土もなにもない。観念的。

真珠を願う歌、大伴家持(4101、4102、4103、4104、4105)。珠洲、おきつしま(2)。9行で3つ。なんで珠洲なんだろう、輪島ではないのか。家持だから信用できない。

少咋を諭す歌、大伴家持(4106、4107、4108、4109)。射水河、なごのうみ、奈良。12行で3つ。と言っても前の二つは比喩だから、実質一つ。こういう無風土性は憶良ばり。

橘の歌、大伴家持(4111、4112)。10行で無し。期待できないとはいえ、やはり失望。

庭の花、大伴家持(4113、4114、4115)。こし。7行で1つ。地理的な自然への関心薄い。

久米廣縄歓迎の宴の歌、大伴家持(4113、4114、4115)。射水河、奈呉江。10行で2つ。どちらも比喩。言葉の技巧で出した地名だから、風土性はない。

旱の時の雲の歌、大伴家持(4122、4123)。8行で無し。平凡な挨拶歌のようなもの。

七夕の歌、大伴家持(4125、4126、4127)。8行で無し。題からして期待できない。

白い大鷹を詠む歌、大伴家持(4154、4155)。こし、石瀬野。7行で2つ。以前の鷹の歌では三嶋野だった。しょせん鷹狩りの場所などというのは山間原野だろうから、わからなくてもいいわけだ。それにしても、家持はよく「こし」というが、冨山辺を「こし」とだけ言っていいのだろうか。これでは、越前、越後などは「こし」の中の辺地となるが。

鵜飼の歌、大伴家持(4156、4157)。辟田の河、辟田河、さきた河。5行で3つ。3度も繰り返すのは珍しいが、せめてそのあたりの多くの人が知る地名でも混ぜてくれたらよかった。やはり家持は地理的な詳しさには関心がないようだ。彼は、鷹、霍公鳥、鶯、鵜、雲雀、なでしこ、橘、などの動植物、特に鳥類が好きだったようだ。

世間の無常を哀しむ歌、大伴家持(4160、4161、4162)。7行で無し。地理は無関係。

勇士の名を振うのを慕う歌、大伴家持(4164、4165)。5行で無し。同上。

霍公鳥と時の花を詠む歌、大伴家持(4166、4167、4168)。7行で無し。同上。

在京の母に贈る歌の代作、大伴家持(4169、4170)。奈呉。5行で1つ。奈呉はそこの海女の採る真珠を比喩に使ったものだが、この海は家持の居た伏木のすぐ前の海だから、すぐに思い付く地名で、特に意味はない。

池主に贈る霍公鳥への思いの歌、大伴家持(4177、4178、4179)。利波山、丹生の山邊。6行で2つ。家持にしては地理が具体的だが、まだ偶然に出た地名といった程度。だいたい家持の居た伏木から礪波山を越えても、池主の居るところには行かないと言った程度の曖昧さが残っている。

山吹の花を詠む歌、大伴家持(4185、4186)。4行で無し。例によって詠物的概念的。

布勢の水海に遊ぶ歌、大伴家持(4187、4188)。布勢の海(2)、をふの浦、垂姫。5行で4つ。地名は多いが、あまり効果的ではない。もう人麻呂のように、地名に枕詞を付けるわけではないから、散文的で、地形の印象も出ていない。

池主に鵜を贈る歌、大伴家持(4189、4190、4191)。叔羅河(2)。6行で2つ。これもただ叔羅河では風土性地理性はない。

霍公鳥と藤の花を詠む歌、大伴家持(4192、4193)。盖上山。5行で1つ。かなり細かいが、それでも二上山の風土が出ているとまでは言えない。

久米廣縄に贈る霍公鳥を怨む歌、大伴家持(4207、4208)。5行で無し。惜しい。もう少し具体的に地理を描写すれば面白い歌になった。

霍公鳥を詠む歌、久米廣縄(4209、4210)。4行で無し。ほとんど散文。

処女墓に追同する歌、大伴家持(4211、4212)。7行で無し。但し人名に含む。ちぬをとこ、うなひをとこ。ちぬは和泉、うなひは摂津。小説的に出来ている。

挽歌、大伴家持(4214、4215、4216)。10行で無し。他人の語句のつづり合わせ。

都から贈ってきた歌、大伴坂上郎女(4220、4221)。こし。6行で1つ。普通の相聞。

死んだ妻を悲傷する歌、遊行女婦蒲生の誦した歌(4236、4237)。4行で無し。挽歌。

入唐使に贈る歌、作主未詳(4245、4246)。山跡の國、平城の京、難波、住吉の三津、墨吉。5行で5つ。殆どの地名に枕詞が着いており、やや古風な形式的な歌。

京に向かう路上、あらかじめ作る、侍宴して応詔する歌、大伴家持(4254、4255)。山跡國。7行で1つ。平凡な頌歌。地名1つでは張り合いもない。

入唐使藤原清河に酒を賜う歌、(4264、4265)。山跡の國。3行で1つ。ただの挨拶歌。

詔に応じるためあらかじめ作った歌、大伴家持(4266、4267)。奈良の京師。5行で1つ。

防人の悲別の心を追って痛んだ歌、大伴家持(4331、4332)。筑紫國、あづま(2)、難波のみつ。12行で4つ。最小限の説明的な地名のみ。風土性はもともと期待できない。

私の拙懐を陳べる歌、大伴家持(4360、4361)。難波のくに、難波宮、難波の海、なには。12行で4つ。多くはないが、難波のいろんな面をいい、難波の風土が出ている。佳作。

倭文部可良麻呂(4372)。あしがら、ふはのせき、つくしのさき。3行で3つ。短い乍らに防人にとって印象的な地名が出ている。

防人の情のために思いを陳べる歌、大伴家持(4398、4399、4400)。難波、10行で1つ。センチメンタルな歌はさすがにうまい。それにしても1つとは愛想がない。それだけ日本はまだまだ手つかずの自然が多く、大きな町や、名所などの地名が少なかったのだろう。

防人の悲別の情を陳べる歌、大伴家持(4408、4409、4410、4411、4412)。すみのえ、なにはつ。18行で2つ。非常に長いのに平凡な地名が二つでは無いに等しい。語句は防人の歌から取ってきたようなのが多い。家持の悪い面が出ている。散文的類歌的。

族を諭す歌、大伴家持(4465、4466、4467)。たかちほのたけ、やまとのくに(2)、かしはら、うねびの宮。13行で5つ。神話的な伝承の中の地名だから、実感がない。ただ長いだけで、風土的なものはない。

以上で万葉の長歌はほぼみな見た。家持は数も多く、また北陸での生活も長かったが、風土的地理的な興味を感じさせるようなものは少ない。難波での歌に、風土性のよく出たのがあった。やはり見慣れたところでもあり、また大和のすぐ近くで、大和の裏庭的なものだから、地理や風土も熟知していて、安心して詠めたのだろう。

 

2329、わざみ12(風土の万葉)
地理的な矛盾ということで「わざみ」としてきたが、前回あたりから、矛盾と言うよりは、人麻呂の地理上の虚構といった観点になっている。しかししばらくは「わざみ」にしておく。次は、いわゆる石中死人歌(220、221、222)である。
讃岐國、中乃水門、狭岑之嶋、作美乃山
讃岐、中、は和名抄にもある知られた地名。沢瀉注釈は、サミの島をサミネといい、のちにサミネの島と呼んだという、山田講義の説を語原として認め、「岑」の表記と反歌の語(武田全註釈説)から、人麻呂は砂彌の嶺の島の意と考えていただろうという。前に考えたように、人麻呂は人の知らないような小地名は、歌にふさわしいような表記に変えることが多いので、語原というより、地元では、サミ+ネ、と呼んでいたものを、人麻呂の工夫で、サ+ミネ、と表記替えしたものであろう。反歌の、作美の山を、沢瀉は「即ち砂彌嶺である」とあっさり決めつけているが、題詞や長歌の「狭岑(さみね)」は「さ+みね」であって、「さみ+ね」ではない。このあたり安易である。反歌では、地元の呼び名である「サミ」をとって「作美(さみ)の山」としたのだろう。つまり、島の名と、その島にある山の名とは別だということになる。「サミ+ネ(島)」にある小さい山の「サミの山」を美化して「サミネ(小さい山)の島」と呼び替えたのであろう。ちょっと回りくどい気もするが。
稲岡全注2、説明ほとんどなし。犬養説を紹介する程度。
私注、特になし。伊藤釋注、説明なし。地理には関心を示さない伊藤らしい。
金子評釈、○狹岑島 反歌には佐美乃《サミノ》山とある。サミネ、サミ、當時兩樣に稱へてゐたものと見たい。今は沙美島《サミシマ》といつてゐる。是非に稱呼を一定する必要はない。但一言すれば「佐美乃山」は、なほサミネヤマ〔五字傍線〕と訓んでもよい。「乃」は呉音ナイだから、ネ〔傍点〕の音に充てられぬこともない。この島は讃岐那珂郡(今仲多度郡)に屬し、中の水門(金倉)よりは東北二里餘、坂出よりは北一里の海中にあり、長さ十町横三町ばかりの小島である。島中の高處は僅に二十九米突弱で、それがいはゆる佐美乃山である。サミを本名として、ネを或は峯《ミネ》の義と解し、或は島の義と解する説など、詰り無用の辯である。○石中 岩の間の意。岩穴の中の意ではない。 
長く引用したが、伊藤などに比べて地理への関心が深い。ただし当時両様に呼んだとか、反歌のも、サミネヤマと読んでもよいとかいうのは、安易だ。
新大系、「沙弥の山」は「狭岑の島の山」の意。
新編全集、○沙弥の山-沙弥島の山地。この山には東方に新地山(二八㍍)など四つの小さな山がある。
阿蘇全歌講義、例によって犬養説丸写し。自分で実地踏査しないからと言って、ここまで鵜呑みにしてはよくない。
これらの最近の注釈でも、ほとんど、犬養説そのままである。犬養の実感主義(体験主義)もいいけれども、個人的な好みや体験に依拠し過ぎている。それに、沢瀉が指摘したような、人麻呂の文字表記や、微妙な地名の差異について言及しないのも物足りない。
実際に坂出市の沙弥島(しやみじま)まで、行くのはもう無理だし、埋め立てや観光施設で旧態を存していない万葉の故地など、実地踏査する価値もないだろう(今や全国どこでもそうだから――明日香や吉野もひどいことになっている――)、万葉地理の実地踏査は研究方法として、犬養がやっていた頃の有効性はない(まさに、犬養以前に犬養無く、犬養以後に犬養無し、だ)。そこで地図を見るのだが、国土地理院のは、たえず改訂されるので、埋め立て前の古いものを見るのが厄介で、こういう点でも、遠隔地に住む貧乏な人間にはつらい時代だ。島内には、4つの20メートル台の高まりがあり、製塩遺跡のある、なかんだの浜の左右の小丘が、人麻呂の歌の「作美(さみ)の山」だろうという程度で満足するべきだ。権現山とか何とか、そんな名が人麻呂の時代にあるわけもなく、また人麻呂の時代に名前があったとして(製塩遺跡があるのだから、製塩をする人がいる限り、無人島ではない)、そんな小さい島の小さい山の名前など人麻呂が知るわけもない。サミ+ネ(島)にある山だから、「サミの山」と呼んだと見なしておくしかない。それよりも、そういう、誰も知らない、瀬戸内の小島の名を、詠むこと自体が、人麻呂の歌の方法として重要だと言うことである。著名な大地名から無名の小地名へ、いわばズームアップの手法である。なお犬養を初めとして、「さみじま」という人が多いが、現地では「しゃみじま」というようだ(坂出市のHPなど)。どちらが正しいのだろうか。

※[獣偏+葛]路の小野(239、240)
※[獣偏+葛]路の小野。長くはないが、一連の人麻呂の皇子関係の歌に類した内容で、長皇子の遊猟の時作ったとあるが、当然、長皇子に献呈したものだろう。内容の派手なのに比して地名がただ一つで、しかも比定地不明である。「かりぢ」と読むのは間違いないと思われるが、それに近い地名がない。桜井市多武峰の鹿路(ろくろ)が一応比定されているが、大きな池も猟場もあり得ない狭い所だ。歌に「馬並めて」とあるから、吉野ならちょうどいいが、吉野に大きな池があったとも思えない。とすると、宇智郡か宇陀郡だが、宇智郡も大きな池はなさそうなので、宇陀郡が最適である。それにしても、短いといってもかなりの長さはあるので、よく知られた大地名を詠まないというのは、人麻呂としては珍しい。吉野、宇智などは郡名だから、宇陀郡なら、宇陀という地名ぐらいはあっても良い。それが無理でも初瀬の山を越えてぐらいは詠むべきだろう。巻三までくると、宮廷の公的な場面の歌が少なくなるので、長皇子の私的な生活圏内の歌で、ごく少数の人たちにわかればいいのだろう。長皇子の別荘近くに、※[獣偏+葛]路の池があり、そこに猟場になるような小野があったのだろう。
参照、鳴上善治氏、「「猟路の池」榛原の説」萬葉85号、1974.9
羈旅歌八首(249~256)
これは長歌ではないし、連作でもないようだが、地名を辿ると、三津の埼、敏馬、野嶋、粟路(淡路)、野嶋(再出)、藤江の浦、稲日野、加古の嶋、明(明石)大門、明(明石)門、倭(大和)嶋、飼飯の海、となって、全部に地名が詠まれており、一首に二つ出るのもあり、また再出するのもあり、如何にも旅の歌らしい。今はそれほど知られていない地名もあるが、当時に於いては、著名な地名ばかりの中で、最後の256番歌の、飼飯の海だけが、瀬戸内の通常の行路からずれており、また当時も今も、ほとんど知られていない。そのためか、敦賀の気比説もあるぐらいだ。今、淡路島の、西海岸の南寄りに、慶野松原というところがあり、地元では有名だし、景色のいい所だが、ほとんど知る人はいないだろう。私は若い頃行ったことがあり、そこで泊まったことがある。夜に見た夜光虫が印象的だった。それはともかく、最後に、こういうほとんど知られていない地名を詠む所は如何にも人麻呂らしい。沙弥島から、小豆島の南方をたどってくれば、淡路の慶野松原に出るだろう。連作ではなくとも、何か特に私的な思い出のある所を最後に置いたように見える。
献新田部皇子歌(261、262)
これは人麻呂長歌で最も短く、地名も、反歌に、矢釣山が出るだけ。ほとんど即興に近い。八釣というのは、橿原の下八釣も明日香の上八釣も、知っている人はある程度居るだろうが、それも地元の狭い範囲だろう。そういう地名だけを出してくるところは、人麻呂の私的な親しみの感情を表すのに効果的だ。やはり人麻呂はすぐれた歌詠みだということになる。
伊藤釋注、人麻呂…最小の長反歌…。…。人麻呂にはめずらしい、初期万葉の時代に普遍の小型長歌で、儀礼性が最も強い。…。何かの祝いが行なわれたのが、折しも雪の降り積もる日だったのであろう。反歌では、長歌で譬喩に用た雪そのものに眼を向け、雪の繁きさまに皇子の繁栄を匂わせている。麻呂も客人の一人として参加していて、あたかも降る雪に即興を託したものか。
西宮全注、雪のしきりに降ることを譬喩にして、天武天皇直系の皇子の讃歌としたものであるが、人麻呂にしては著しく簡素な讃歌と言える。  西宮の評も簡素だ。
武田全註釈、多分即興の作なるべく、簡潔に意をつくしているのは、作者としては晩年圓熟の境に入つていることが思われる。これが奈良時代に入つての作なるべきことは、次の歌において述べる。  反歌の八釣山を生駒山のこととするので奈良時代と言う。無理だ。
茂吉、柿本人麻呂評釈篇、『矢釣山木立も見えず降りみだる雪』といふ寫實は、單純で然かも急所を突いてをり、實に旨いものではあるまいか。どうしても名人の力量ではあるまいか。  長歌と共に良い歌だというばかり。茂吉の「白き山」の大石田での歌には似たのがいろいろある。

柿本人麻呂以外の長歌
藤原宮役民の歌(50)
藤原、淡海、田上山、氏河、巨勢、泉。中編ぐらいの長さで6つの地名が出る。どれもよく知られた地名で、中心になる地名とか、誰も知らないような小地名とかがない。こういうところは人麻呂の長歌とは大きく違う。それだけ平板で散文的で、ただの頌歌となる。

藤原宮御井の歌(51、52)
藤井が原、埴安、日本、香具山、畝火、耳為、吉野の山、藤原。先ほどのと同じほどの長さで、8つの地名がある。藤井が原以外は、よく知られた地名で(埴安は今は亡びて比定地不明たが)、前の歌と同じことが言える。

吉野行幸歌、笠金村(907、908、909)
御舟の山、芳野、蜻蛉の宮、吉野。反歌を入れて4つというのは人麻呂と似たようなものだが、序詞とはいえ、初めに、御舟の山などという小地名を出すのは、説明に過ぎ、荘重な感じを殺ぐ。真ん中あたりで、肝心の「芳野の蜻蛉の宮」が出ても、あとはおきまりのほめことばで終わりで、人麻呂のような迫力に欠ける。

吉野行幸歌、車持千年(913、914)
芳野、三船の山。短いので、この2つだけというのは当然かも知れないが平凡。

紀伊国行幸歌、山部赤人(917、918、919)
左日鹿野、奥嶋(2)、玉津嶋山、若浦。前の千年の歌よりまだ短いのに4つというのは多い。しかし、紀伊のような大和からして遠く離れたところで、一応有名な地名だとしても、しょせん小地名にすぎないものを、ただ並べただけで、その位置関係が分かりにくいのは、赤人の欠点だ。人麻呂と違って、地名にめりはりがない。それに短い長歌で、これだけの地名に秩序をつけるのは困難だ。焦点がぼやける。材料負けといったところか。

吉野行幸歌、笠金村(920、921、922)
芳野の河、芳野、吉野。短いとはいいながら、長短それぞれに吉野を繰り返しただけ。内容もただの讃歌というだけで平凡。

吉野行幸歌、山部赤人(923、924、925)
芳野の宮、吉野、象山。これも平凡だが、宮をよんだところはやや人麻呂に近い。反歌で、紀伊の時の若浦のような働きをする象山を出したのは赤人らしい。しかもどちらも鳥の声を詠んでいる。やはり評判通り短歌にすぐれたところがあるが、それは魅力ある地名を詠んだからだろう。

同(926、927)
吉野、飽津。地名的には平凡だが、秋津を飽津と表記したのは工夫だろうか。もう吉野には飽いた、という寓意もあると言った説があるが、信じがたい。自然が飽きるほどあるとも見える。

難波行幸歌、笠金村(928、929、930)
難波の国、長柄の宮、味経の原。大地名から小地名へとバランスよく配置されているが、地名の面白さとか魅力とかが感じられない。デノテーションばかりで、コノテーションがない。枕詞も効いていない(工夫がない)。

難波行幸歌、車持千年(931、932)
住吉の濱、住吉の岸。行幸歌とも思えない。わざわざ長歌で言う地名ではない。

難波行幸歌、山部赤人(933、934)
難波の宮、淡路、野嶋(2)。難波とは言いながら、淡路の野島の海人が主役で、赤人らしい瀬戸内好みが出ていて、私的な関心に寄っている。人麻呂のころには難波行幸がなかったようで、人麻呂のはない。人麻呂ならどう詠んだか、興味深い。

印南野行幸歌、笠金村(935、936、937)
名寸隅、淡路島、松帆の浦、名寸隅。名寸隅を長歌反歌で繰り返しており、長歌の初めに出て来て、これが作者のいる場所であり、中心である。地元では知られていても、中央にまで知られた有名な場所ではない。旅情を醸す地名してはそつがない。同じ作者の敦賀の海での歌と似た感触だ。地理には詳しかったのだろう。

印南野行幸歌、山部赤人(938、939、940、941)
稲見野、大海の原、藤井の浦、藤江の浦、不欲見野、明方(明石潟)。反歌が三首と言うのも多いが、そのどれにも地名があり、のべ6という煩雑さ。しかも同一地名らしいのが二組みありながら、一つは音が違い、一つは表記が違う。玉津島の場合と同じで、地元では知られた地名かも知れないが、これらの地名の配置が分かりにくく、しかも関連性も掴みにくい。赤人は地理感覚が貧弱なようだ。地名の魅力が感じられない。しかも、不欲見野など、見たくないという意味が籠められているようで、土地に反感を持っているようにも見える。

辛荷の嶋の歌、山部赤人(942、943、944、945)
淡路、野嶋、伊奈美嬬、辛荷の嶋(2)、倭、都太。一つ前のと同じく反歌が三首で、それぞれに地名があり、のべ7という煩雑さ。出だしはよく知られた地名でわかりやすいが、あとは倭以外は小地名で、分かりにくい上に、伊奈美嬬と辛荷の嶋との位置関係が事実に合わないようであり、赤人らしい地理感覚のいい加減さである。地名が多い割に、その地名が有効に働いて居らず、地理の魅力としては金村より劣る。

敏馬の浦の歌、山部赤人(946、947)
淡路の嶋、三犬女の浦、為間。長歌ただの15句で、人麻呂の最短の長歌の11句に近い。反歌も一首だから、地名が3つなのは順当で(やや多いぐらいだ)、配置もまあまあだが、長歌で敏馬の浦を歌いながら、反歌でそこから遠く離れた、須磨を歌うのは奇妙だ。まさか須磨の海人が敏馬に出張しているのではあるまい。それに敏馬を三犬女と書いたり、須磨を為間と書いたりするのも奇妙だ。特にに前者は、不欲見野と似たようなもので、赤人の卑俗さを示すのではないか。美景を詠んだ清明な叙景詩人のように思えるが、案外ひねくれた暗いものを持っている。

散禁授刀寮歌、作者未詳(948、949)
だいたい宮廷歌人長歌を見てきたので、これは例外だし、万葉の長歌全部を見るのはちょっと無理だが、巻6の冒頭の宮廷歌人群の長歌に接しているので、とりあげてみた。
春日の山、高圓、佐保川、佐保の内。かなりの長さなので4つでるのは順当だが、ただ散文的に場所を示すだけで、しかも奈良の人間にとってはあまりにありふれた場所で、人麻呂のようなめりはりもなく、地理的な面白味もない。その場所の景観をめでたのでもない。ただ春の郊外の公園的なピクニック的な楽しさを言い、それが裏目に出たことをいっているだけだ。

宇合西海道節度使の歌、高橋虫麻呂(971、972)
虫麻呂は宮廷歌人ではないが、多くの長歌があり独特なので読んでみる。
龍田の山、筑紫、龍田道。長さの割りには少なく、龍田、筑紫、というのも、必要最小限のもので、また内容的にそれで十分だ。しかし、龍田という土地の魅力はよく出ている。土地の景観的な魅力をよくつかんだ歌人で、風土の歌人とも言える。

吉野行幸歌、山部赤人(1005、1006)
芳野宮(2)。長歌反歌にひとつずつ。何の取り柄もない。赤人とも思えない凡作。

寧樂故郷を悲しむ歌、田辺福麻呂(1047、1048、1049)
日本國、平城京師、春日山、御笠、射駒山、飛火がをか、奈良の京(2)。かなり長いとは言いながら、地名がのべ8というのは、やはり多い。前半に集中して俯瞰的に描かれている。奈良の都が3度出るのは、主題とはいいながら、ややしつこい。生駒山の飛火が岡を出したのは異色で、工夫したところだろう。

久迩新京を讃える歌、田辺福麻呂(1050、1051、1052)
山代、鹿脊山、布當の宮、布當の原、三日の原、布當の野辺。のべ6。奈良のより句数が減った分、地名も減ったが、ほぼ同じ。布當が三度でるのも前のと同種のしつこさだが、肝心の久迩が一度も出ないのはやや不思議。ただしその繰り返された布當がどこを指すのかはっきりしない。

久迩新京を讃える歌、田辺福麻呂(1053、1054、1055、1056、1057、1058)
布當の宮、泉川、布當山、鹿脊の山(2)、狛山。のべ6。長歌は短いが反歌が5首とおおい。同じ題なので、長歌は、布當の宮の一つだけ。かわりに反歌すべてに地名があり、泉川、狛山などで変化を付けている。

三香の原荒墟を悲傷する歌、田辺福麻呂(1059、1060、1061)
三香の原、久迩の京師、鹿脊山、三香の原、久迩の京。のべ5。長歌反歌で同じ地名が繰り返されており、前の二組のと同じ地名ばかりで新鮮さがない。それにしてもここでは、三香の原、鹿脊山は出るが、布當がでない。「ふたぎ」とはなんだ。

難波宮田辺福麻呂(1062、1063、1064)
名庭の宮、味原の宮、難波の宮。のべ3つ。そう長くないので3つはまあいいとして、「なには」が長反で繰り返されており、しかも、「なには」の宮と味原の宮との関係が不明。どうも地理的には面白味がない。

敏馬の浦の歌、田辺福麻呂(1065、1066、1067)
三犬女の浦、見宿女の浦、大和太の濱。長くはないので、のべ3つは妥当なところだが。浦と浜だけで、やや単調。「みぬめの浦」と「おおわだの浜」は大地名小地名の関係だろう。それにしても題詞には敏馬とあるのに、歌では「三犬女」、「見宿女」と女にこだわるのはどういうことか。前者は赤人にもあった。白砂の浜の綺麗な港だそうだが、船が必ず泊まる港と言うからには、なにか遊女でもいたのだろう。地理的には小品的な魅力はある。以上で、巻6最後に連続した田辺福麻呂歌集の歌は終わり。敏馬だけが都とは関係ないが、何か行幸でもあったのだろうか。

しばらく、吉井巖の全注巻6の田辺福麻呂歌集のところを読んでいた。大方訓詁を中心とした読解で、地理的な収穫はほとんどない。

2330、わざみ13
人麻呂の長歌からはじまって、巻6の田辺福麻呂まで、主な宮廷歌人長歌を見てきたが、彼等以外ので、見ておきたい長歌もあるので、もういちど巻1からそれらを見てみよう。
軍王見山の歌(5、6)
網の浦。そう短いものではないのに(塙本で、反歌合わせて5行)、ただ一つ。それも長歌の最後の方にでるだけで、題詞がなければどこの地名とも分からない。こういう地名の用い方は、人麻呂以降にはあまりないもので、やはり初期万葉的だ。

藤原京より寧樂京に遷る歌(79、80)
泊瀬の川、楢の京師、佐保川、寧樂。中編(塙本で、反歌合わせて5行)で4つは標準的で、長歌反歌で1つの地名を(今の場合奈良)繰り返すのも、文武から、元明にかけての時代には普通だろう。二つの川もよく知られた地名で、親しみやすく案配されている。気楽な旅の歌といっても良い。

齋會の夜の夢の中の歌、持統天皇(162)
明日香、清御原の宮、伊勢の國。反歌なし、3行で3つは、やや多い。簡潔に二つの地名で天武を描いた。叙事として秀逸だが、未完成。

志貴親王薨時の歌、笠金村(230、231、232)
高圓山、高圓、御笠山。長歌4行と反歌2首で3つはやや少ない。高圓山に焦点を絞り、反歌の二首目で御笠山を詠んで変化を付けた。長歌を葬送の夜景に絞るのに、高圓山という地名だけを出したのは、さすがである。後日談的な反歌でもう一度高圓を出し、御笠山で締めくくったのもうまい。

鴨君足人香具山の歌(257、258、259)
天の芳來山、香山。長反5行で短いが、地名も少ない。香具山を主題にした題詠のようなものだからそれでいいが、その表記が中国風だ。仙郷というか廃園の美。

不盡山を望む歌、山部赤人(317、318)
駿河、布士の高嶺、不盡の高嶺、田兒の浦、不盡の高嶺。長反4行でのべ5は多いが、うち富士が3回、それもすべてが高嶺だから、しつこい。こういう粘り着くようなしつこさが赤人にはある。それに天地開闢から詠みだして駿河ときたら、ちょっと形にこだわりすぎだ。

不盡山を詠む歌、高橋虫麻呂(319、320、321)
甲斐の国、駿河の国、不盡の高嶺、石花海、不盡河、山跡の國、不盡の高峯、不盡嶺、布士の嶺。長反で7行だから、ちょっと長篇だが、それでものべ9というのは賑やかだ。しかし解説すぎて、地理的風土的な興味や面白さには欠ける。富士川の地理が間違っているのでも分かるように、実際に登山したり歩き回ったりしたのではなく、文書から得た知識も、混じっているようだ。地理には詳しくても深くはない。

伊豫温泉の歌、山部赤人(322、323)
伊豫の高嶺、射狹庭の岡、飽田津。4行で3つ。短編だから3つはやむを得ないが、富士の高嶺の富士を伊豫に代えただけで、しかも富士山と違って、地理的に朦朧としているから――石鎚山といわれるが結局不明――、効果がないし、射狹庭の岡というのもはっきりしない。富士の歌では反歌田子の浦を出したが、今度は熟田津で、山に対して海というのも、同工異曲である。叙景ではなく叙事風の歌だから仕方がないとしても、やはり風土感のないのは惜しまれる。吉野の歌で、秋津を飽津と書いたが、ここでは熟田津を飽田津と書いている。吉野のところで飽津の飽はもう飽き飽きだという意味だという説を否定したが、ここの飽などは、熟の意味で書いたのだろうから、私の批判は当たっているだろう。それにしてもなんとなく俗っぽい感じがする。地理以外の描写は、過去への追憶など奥行きがあるのだが。

神岳に登る歌、山部赤人(322、323)
神名備山、明日香、明日香川。4行で4つ。赤人らしい簡素な地理。明日香、奈良などの歌は熟知した土地だからか、けれんみがない。

羈旅歌、若宮年魚麻呂誦(388、389)
淡路島(2)、伊与、開(あかし)、敏馬、日本(やまと)。5行で6つ。やや多い。題詞通り素直な旅の歌。淡路を中心にうまくまとめているが、散文的で、詩としての興味は薄い。

石田王卒時丹生王の歌(420、421、422)
始瀬の山、石上、振。8行で3つ、しかも石上、振は反歌の序詞。叙事性のない物語のようなもの。よって地理的風土的な興味もない。

石田王卒時山前王の哀傷歌(423)
石村。4行で1つ。これも、ちょっと出だしに、死者の生前歩いた土地を示しただけ。

勝鹿真間娘子墓の歌、山部赤人(431、432、433)
勝壮鹿、真間、勝壮鹿、間々、勝壮鹿、真々。5行で6つ。といっても、長歌反歌2首で、葛飾と真間を繰り返しただけで、長歌も2行とちょっとで、単調なもの。真間の表記をちょっとづつ変えたのが技巧といえば技巧か。淡泊な歌。

龍麻呂自経死の歌、大伴三中(443、444、445)
難波の國。9行で1つ。憶良のようで、全く風土性というものがない。悲しい物語。

尼理願死去の歌、大伴坂上郎女(460、461)
新羅の國、佐保、佐保河、春日野、有間山。8行で5つ。長篇だが、地名がほぼまんべんなく配置されて、さすがにうまい。挽歌らしい叙事性があるし、奈良らしさも出ている。

亡妾作歌、大伴家持(466、467、468、469)
7行で地名なし。相聞か挽歌の短歌を引き延ばしたようだ。

安積皇子薨のときの歌、大伴家持(475、476、477)
大日本、久迩の京、和豆香山、和豆香蘇麻山。6行で4つ。平均の地名数で、場所はよくわかるが、大日本とか、和豆香蘇麻山とか小細工をするのが玉に瑕。

同、大伴家持(478、479、480)
活道山、活道。8行で2つ。かなり長いのに、活道(いくぢ)だけだが、今ではだれも知らない小地名で、もう少し他の地名も出してどういうところか分かるようにすればよいのに、こういうところが散文とは違うところだ、もっとも家持はあまり叙事的ではない。

死妻を悲傷する歌、高橋朝臣(481、482、483)
山代、相樂山。8行で2つ。前の家持のと同じ傾向。山代というのはいいけれど、相樂山とだけいわれてもイメージなどは湧かないし、なぜそこなのか必然性もない。奈良山の京都側(もと木津町)にそういう名前の神社があって、そこのあたりの山だと考証した万葉学者がいたが、それでどうということもない。だいたい山らしい山もない。京都側でも、奈良山とか奈良山の北とか言った方がいいぐらいだ。要するに地理と言うものに無関心なのだろう。

筑紫の國に下る歌、丹比笠麻呂(509、510)
見津の濱邊、葛木山、淡路、粟嶋、稲日つま、家の嶋。7行で6つ。これは地名が多い。今までの中で一番多いのではないか。どれもよく知られた地名ばかりで(ただし、粟嶋、稲日つま、は今のどこかはっきりしないが、万葉のころは有名だった)、紀行のようなもの。

安貴王の歌、(534、535)
4行で地名なし。短編だし、長歌の正述心緒のようなもの。

紀伊の國行幸の時娘子に注文されて作った歌、笠金村(543、544、545)
軽の路、畝火、木道、真土山、木の國、妹背の山、木(紀伊)。7行で7つ。笠麻呂を越えた。軽から紀伊の関所(妹背の山と和歌山の間か)までの区間に絞ってあるのは、当時和歌山へ行くとしたら、そのあたりがまず誰の頭にも浮かんだのだろう。それより以降は行ったことのない人にはイメージが浮かびにくい。よく知られた地名ばかりでそつなくしあげたところ、金村の技巧だろう。地理的な興味もあるのも、金村らしい。

三香原離宮行幸で娘子を得た歌、笠金村(546、547、548)
三香の原。5行で1つ。短編で無しでもいいような内容なのに、几帳面に舞台を示したのは金村らしい。記者根性のようなものか。

大伴坂上郎女怨恨歌、(619、620)
難波。6行で1つは少ないが、全く心情だけのものだし、難波もその菅を取って序詞にしたもので地理性風土性はなにもない。

大伴坂上郎女跡見庄から大嬢に送った歌、(723、724)
4行で無し。全く心情だけのもので、身内への手紙のようなものだから地理不要。

日本挽歌、山上憶良(794、795、796、797、798、799)
筑紫の國、大野山。反歌5首という珍しいもの。10行で2つ。長さの割りに少ないが、大地名と小地名がうまく組み合わされている。

或情をかえさせる歌、山上憶良(800、801)
7行で無し。自分の思想を主張したのだから、地名不要。地理性なし。

子等を思ふ歌、山上憶良(802、803)
3行で無し。

世間の住難を哀む歌、山上憶良(804、805)
12行で無し。憶良の本領発揮。地理など無用。

子負の原の歌、山上憶良(813、814)
韓国、深江、子負の原。6行で3つ。憶良でも土地に関わる伝説なら、叙事性があるから当然地名を詠む。それでも簡潔だ。

熊凝の歌、山上憶良(886、887、888、889、890、891)
11行で無し。反歌のようなのが6首というのも多い。題詞のような序に熊凝の出生地と死去の地とだけは書いてあるから、歌の中に地名は不要なのかも知れないが、序にしても6行で2つだから愛想がない。もとになった麻田陽春のは短歌2首だが、ここにも地名がない。中西進のいうように、憶良は風土のない歌人だ。インターナショナルか。古代のメンシェビキか。

貧窮問答歌山上憶良(892、893)
13行で無し。これはもう初めから期待しない。具体的にどこでのことという歌ではないのだから。

好去好来歌、山上憶良(894、895、896)
倭の國、唐(もろこし)、倭、智可の岫(さき)、大伴の御津(2)、難波津。11行でのべ7つ。憶良にしては多いが、具体的に場所を押さえるのが、礼儀というものだろうから、そういう挨拶歌としてのぬかりはない。長年役人をしただけのことはある。

老身重病子らを思う歌、山上憶良(897、898、899、900,901、902、903)
12行で無し。熊凝の歌と同じような形。こちらは序もないから全くなし。

古日を恋うる歌、山上憶良(904、905、906)
12行で無し。憶良は本当に風土性がない。

末の珠名を詠む歌、高橋虫麻呂(1738、1739)
安房、末。5行で2つ。初めの主人公の紹介でちょっと出るだけ。必要最小限の固有名詞だから、風土性はない。

浦嶋子を詠む歌、高橋虫麻呂(1740、1741)
墨の江、水の江(2)、墨吉。13行でのべ4。かなり長いのに墨吉と水江のふたつだけ。朦朧とした感じが出ている。

河内大橋を去く娘子を見る歌、高橋虫麻呂(1742、1743)
足羽川。3行で1つ。題詞がなかったらどこの橋かもわからないような漠然とした背景。

春三月難波に下る時の歌、高橋虫麻呂(1747、1748)
龍田の山、小※[木+安]の嶺。4行で2つ。虫麻呂の長歌の型だろう。初めに場所を競っている地名が出るだけ。動画の一シーン。

春三月難波に下る時の歌その二、高橋虫麻呂(1749、1750)
立田の山。3行で1つ。前のと同じ。前のもこれも春の龍田の雰囲気は出ている。

難波から還り来る時の歌、高橋虫麻呂(1751、1752)
4行で地名なし。長歌の連作のようなもので、題詞もあるから、無しでも龍田山とわかる。

大伴卿が筑波山に登る歌、高橋虫麻呂(1753、1754)
常陸國、筑波の山、筑波嶺(2)。5行でのべ4。常陸の名山ということはよく分かる。

霍公鳥を詠む歌、高橋虫麻呂(1755、1756)
4行で無し。鳥の詠物だから地名なしで順当。

筑波山に登る歌、高橋虫麻呂(1757、1758)
筑波嶺(3)、師付、新治、鳥羽の淡海。4行でのべ6。本領発揮というか、地理がよく出ている。山登りも好きだったのだろう。

筑波嶺の?歌會の日の歌、高橋虫麻呂(1759、1760)
筑波の山、裳羽服津。4行で2つ。なじみのない小地名を出すところ、筑波山の地形に詳しいことを思わせる。何度も登ったのだろう。

鹿島群苅野橋で大伴卿に別れる歌、高橋虫麻呂(1780、1781)
三宅の潟、鹿嶋の崎、海上。4行で3つ。橋を舞台に詠んだのは虫麻呂だけかな。歌のなかに橋は出ないがどうしたわけか。私などは全然知らないところだが、潟、崎、津などが指示されていて地理的な興味は出ている。

秋八月の歌、笠金村(1785、1786)
み越路。4行で1つ。かろうじて反歌にひとつ出して、叙事性を持たせた。

冬十二月の歌、笠金村(1787、1788、1789)
日本の國、石上、振、振山。5行で、4つ。さっきのよりは多い。それにしても、八月とか十二月とか変な題詞だが、中身は相聞で月とは関係ない。たかが天理の布留をいうのに、日本国とは大げさだが、金村には以前にもこういうのがあった。地理を細かく言う傾向がある。大げさなところがあるのだろう。虫麻呂とは違う。

遣唐使の船が出航するとき母が子に贈った歌、(1790、1791)
3行で無し。遣唐使の出発だし、題詞に難波とあるからわざと場所を言わなかったのか。

娘子を思う歌、田辺福麻呂(1792、1793、1794)
下檜山。5行で1つ。それもどこにあるかも分からない山で、さらに序詞。相聞だから正述心緒的。

足柄の坂で死人を見る歌、田辺福麻呂(1800)
東の國、神のみ坂。4行で2つ。珍しく反歌がない。万葉というのは、形式も題材もなんでもありだ。古今以後とは大きく違う。足柄の坂を、神のみ坂といったのだろうか。普通名詞に思える。といっても、題詞に足柄とあるから、はっきり足柄を指す普通名詞だ。これは、人麻呂が香具山で死人を見たのと同じで、その見た場所さえ分かればいいので、特に長歌である必要がない。だから長歌らしさをもたらす反歌がないのだろう。それにしても、足柄の坂というのは、恐ろしいところだったのだろうか。それなら風土性もあるが。

芦屋の処女墓を過ぎるときの歌、田辺福麻呂(1801、1802、1803)
芦の屋。6行で1つ。この福麻呂というのも、赤人並みに東西に旅している。伝説が題材だから、その場所を示す地名が一つでいいのだろう。地理性がないのはどうしようもない。

弟の死去を哀しむ歌、田辺福麻呂(1804、1805、1806)
6行で無し。後世の哀傷歌のようなものだから、地名なしは仕方ないとしても、墓地をただ荒山中というだけでは、万葉の挽歌らしくない。あまり風土性のない作家なのだろう。

勝鹿真間娘子を詠む歌、高橋虫麻呂(1807、1808)
吾妻の國、勝壯鹿(2)、真間(2)。7行でのべ5。如何にも、物語というか小説的だ。いつどこというのを最初に言う。

菟原処女の墓を見る歌、高橋虫麻呂(1809、1810、1811)
葦の屋(2)。12行で2つは少ない。人名として、うなひ処女、ちぬ壮士、うなひ壮士が何度か出るので、物語的な興味はあるが、それはしょせん実際の土地ではないから、地理性、風土性とかはほとんど関係ない。芦屋の伝説という内容に集中している。

巻13長歌
1~3行程度で地名のないものは除く。
3223、3224。甘南備、神名火。4行で2つ。このカムナビは殆ど普通名詞。われわれが、お宮さん、とか、お寺、というとき、具体的なある一つの寺社を意味する場合が多いが、その土地に関係しない人間には、殆ど普通名詞である。

3225、3226。長谷の河、長谷河。3行で2つ。ほとんど初瀬川民謡。

3227、3228、3229。甘南備、三諸の山(2)、甘甞備、三諸、明日香の川。6行で延べ6。これは多いが、カムナビのミモロを繰り返しているだけのミモロ讃歌。明日香の住民にとっては、心のよりどころとなる神聖なところだったのだろう。ある程度風土性はある。

3230、3231。楢、穂積、坂手、甘南備山、吉野、三諸の山。3行で6つ。所謂道行きの歌で、地名の割合が非常に高い。しかも、奈良から吉野までの地名とルートが今でもたどれるほどには、明瞭だ。しかし地名以外の描写が明日香の旧都への簡単な慕情以外に何もなく、路線図を見ているような味気なさがあって、とうてい地理的な文学ではない。

3232、3234。丹生、吉野(2)。3行で3つ。同じ長さで地名は前の半分。吉野丹生地方の民謡のような歌だ。林業の盛んな吉野の地理性が出ている。

3234、3235。伊勢の國、山の邊(2)、五十師の原、五十師。6行で4つ。平均的な長歌だが、題材が宮ぼめ的だから、構成も整っているが、肝心の五十師の原がはっきりしない。

3236。倭の國。常山(ならやま)、山代、筒木の原、于遅の渡、瀧の屋、阿後尼の原、山科、石田(いはた)の社、相坂山。反歌なしの3行で10こ。これは地名の割合では最高だろう。距離的には、奈良から吉野へ行くのと、逢坂山へ行くのとではほとんど変わりがないだろうが、地形的な変化が多い。大和平野の平坦なのに対し、原や大きな川がある。ただし、2、3所在地不明のものがあるのは残念だ。味気なさは3230、3231歌と同じ。

3237、3238。平山、氏川、相坂山、相海の海、相坂、淡海の海。3行で6つ。前のよりは少ないが。それでも多い。それにしても巻13は地名の表記が異常だ。奈良にしても、楢、常、平、と三回出たのがみな表記が違うし、しかも普通ではない。この歌の相海(あふみ)にしても変わっている。なんとなく素人が好き勝手に歌を書いているようだ。

3239。近江の海。3行で1つ。道行きではないので急に少なくなった。反歌もないし、内容も記紀歌謡的。それを言うなら、道行きも記紀歌謡的だった。

3240、3241。楢山、泉の川、氏の渡、近江道、相坂山、志我、韓埼(2)、伊香胡山、思我。5行で10こ。3236には及ばないが、これも多い。奈良から近江北端までの長い道行き。これは記紀歌謡的でなく。人麻呂の歌などから名文句を借りてきた、合成もの。

3242。三野の國、高北、八十一隣の宮、奥十山、三野の山(2)、奧礒山。2行で7つ。これも多いが、道行きではなく、繰り返しが多い。美濃とおきそが繰り返される。どうも大和の人間にとって、美濃とかは親近感が全然ないから、地名の実感がないが、名古屋当たりの人間でもよく分からないらしい。「行靡闕矣」という、有名な訓義不明の語句もあり、どう考えても独りよがりの歌だ。反歌もないから、何か地元の民謡のようなのを採集したのか。

3243、3244。長門の浦、阿胡の海(2)。5行で3つ。これも、大和の人間にはどこのことかさっぱり分からない地名で、内容も、海の生活を土台にした相聞のようだが、海浜生活の興味はあっても、場所が不明だと、風土性は感じられない。

3247。沼名川。1行に1字の短いもので1つ。地名も不明で、民謡的な短歌と変わらない。

3248、3249。山跡の土(くに)(2)。3行で2つ。国を土と書くのは珍しい。とにかく、巻13は表記も形式も変わっていて、専門歌人などの歌とは違い、保守的で、個性も感動も薄い。

3250、3251、3253。倭の國。6行で1つ。3248から相聞になっているが、やはり相聞は地名の重要性が少ない。

3253、3254、柿本朝臣人麻呂歌集。倭の國。3行で1つ。同上。

3255、3256、3257。5行で地名なし。同上。

3258、3259。4行で地名なし。同上。

3260、3261。小治田、年魚道。3行で2つ。短い割りに地名がはっきり出ているが、遺憾ながら、所在地が不明。よってイメージが湧かないし、風土性もない。天武の耳が嶺も所在不明だったが、大地名の吉野を冠しているので風土性が出た。

3263、3264。泊瀬の河。4行で1つ。泊瀬とはいっても、古事記歌謡とほぼ同じく、伝承のものだから、風土性がない。

3266、3267。神名火山、明日香の河、明日香河。4行で3つ。マンネリ。

3268、3269。三諸、神奈備山、真神の原。3行で3つ。何となく明日香らしい風土は出ているが、3行は短い。

3272、3273。5行で地名なし。記紀歌謡の単語だけ万葉風にしたようなもの。

3274、3275。4行で地名なし。同上。

3276、3277。山田の道。6行で1つ。ずいぶん長いのに、冒頭に、枕詞つきで山田の道が出るだけ。私のように明日香の近くに住む人間なら、山田と聞いて、あああそこかとイメージが湧くが、当時でもたいして有名ではなく、万葉でもおそらくここだけ。内容も説くに山田でなければならいようなものではない。結局これも同上。

3280。4行で地名なし。小説的。

3281、3282、3283。5行で地名なし。或本とあるだけあって、前のとほとんど同じ。

3289、3290。劔の池、清澄の池。3行で2つ。枕草子のものづくしのような歌。

3291、3292。芳野、5行で1つ。序詞の中で出て来た地名だが、吉野の山の青菅などは歌枕とは言えないから、吉野に詳しい人の用いた序詞だろう。しかし風土性はない。

3293、3294。吉野、御金の高、吉野の高。3行で3つ。天武の歌の類歌。これも吉野の地元の人の歌だろう。天武の歌を真似たか。

3295、3296。三宅の原、日本(やまと)、三宅道。4行で3つ。大和平野で三宅といえば、今でも磯城郡三宅町というのがあって、けっこう知られているが、古代にあって、大和平野中南部以外の人には、ほとんど知られていないだろう(今でも同じ)。たまたまそのあたりに詳しい歌好きが作ったものだろうが、夏草の繁茂など、風土性はある。

3300。難波の埼。2行で1つ。記紀歌謡の類歌。

3301。伊勢の海。2行で1つ。歌謡的。

3302。紀伊の國、室の江、出立。4行で3つ。歌謡的。

3303、3304。神名火。3行で1つ。明日香の歌謡か。

3310、3311。泊瀬の國、泊瀬小國。3行で2つ。3305から問答になっているが、相聞と同じで地名は貧弱。記紀歌謡の類歌。泊瀬というのは、盆地部の人間からは、一時代前を思わせる隠れ里のようなものだったらしい。それが風土性。

3312、3313。長谷小國、3行で1つ。同上。

3314、3315。山背道、泉川。4行で2つ。山城は街道関係の歌が多い。それも風土性。

3318、3319、3320、3321、3322。木の國、妹の山、背の山、巨勢道、木。8行で5つ。反歌が4つというのは、大変多いが、問答というのはどういうことか。紀伊関係も旅の歌が多い。これも風土性。山城も紀伊も、大和の歌好きが旅の相聞風に詠んだのだろう

3323。都久麻、佐野方、息長(2)、遠智(2)。2行で6つ。非常に地名が多いが、所在の不明なのが多く、実感が湧かない。此も地元に詳しい人のものだろう。大和の人間が読んで面白いとは思えない。

3324、3325。藤原、殖槻、城於、石村、石村の山。12行で5つ。ここから挽歌。長いから5つでは多いともいえないが、人麻呂でもこれより少なめだった。藤原の時代の皇子の挽歌のようで、人麻呂を真似た感じだが、なんといっても殖槻という見慣れない地名がひっかかる。それに、城於と石村との位置関係も理解しがたい。独りよがりの歌だ。

3326。日本の國、城上(の宮)。4行で2つ。先のと似たようなものだが短い。城上の宮とあるから、人麻呂以外にも高市皇子挽歌を作るものが居たのだろう。

3329。7行で地名なし。此だけの長さで無いのは珍しい。死んだ月の叙述が目立つ。

3330。長谷の川。4行で1つ。城上に対して長谷といったようにコンビとなっていたのだろう。やや古風な土地感覚で、歌も記紀歌謡的。

3331。長谷の山、忍坂の山。2行で2つ。前のと同じような雰囲気。

3333、3334。倭、大伴、御津、盡の山。4行で4つ。以下海の挽歌のようで、道行き的。

3335。3行で無し。海の行路死人歌。

3336。所聞《かしま》の海。6行で1つ。人麻呂のさみねの島の挽歌の通俗化したもの。

3339、3340、3341、3342、3343。9行で無し。3335から一連の挽歌のようで、ここの題詞に備後國神嶋の濱とある。瀬戸内海では有名だったのだろうが、なにか遠い話だ。実話というより、小説かドラマのよう。

3344、3345。5行で無し。同上。

3346、3347。十羽の松原、3行で1つ。同上だが、とばの松原などというのは聞いたことがない。小説かドラマとすれば、別に分からなくても言い訳だ。虚構でいいのだから。

巻13の長歌群については、
 萬葉集全注 巻第十三、曾倉岑、有斐閣、367頁、2005.11.20
が、大変詳しく、私が言ってきたようなことも、たいがい出ている(見ないで書いて、今拾い読みしている)。

ところどころで、地理的風土的な内容の面白さとか、そういうものがよく出ている歌とか言ってきたが、具体的にどうなのかと言われるとなかなかいいにくい。世には風土論と銘打った万葉研究書も多々あるが、大概は、地名考証とか、歌枕研究とか、歴史地理的な論考とかで、風土を感じさせる論文などめったにない。和辻の風土にすら及ばない。だいたい風土と言って、一番理解しやすいものは、映画やドラマだろう。写真でもいい。砂漠や雪山、大洋、熱帯林などなど、いくら文章で細かく叙述しても、優れた映画一つに及ばない。写真の重要性は、鴻巣全釈、金子評釈などから、いろいろと言われているが、たいがいはただの記念写真か観光写真で、それによって、万葉の歌がどこまで分かるものか、疑わしい。犬養孝の「万葉の旅」などは、写真が主役といったものだが、必ず前景を入れ、また望遠レンズを使ったりして、典型的な写真のための写真で、文学としての万葉の歌とは殆ど関係がない。これがなぜ高く評価されるのか疑問だ。
だいたい風土というのは、地名を比定するだけで分かるものではない。といって、四季や動植物や気象などの自然を詳しく調べても分かるものではない。風土というのは、気候や植生や動物相、また、地形や地質などの地学的なものや、交通、産業、人口などの人文地理学的なものの総体だろう。それを総合的に叙述するなど至難の業で、だから、大宅壮一が「現代スリル論」(1936.7、全集第4巻)でいっているけれど、小説はとうてい映画には勝てない。いくら、地図や写真や図を駆使しても、地理学の各論にはなっても、風土論にはならない。それより小さい議論のはずの、風土文芸論も成果を上げるのはむつかしい。以前、長谷章久という人が居たが、平安文学の歌枕考察の類であった。
万葉集においても方法などなかなか見出せるものではない。大和ではモミジは黄葉だ(赤いのは少ない)といっても、実際は赤いのも多い(桜や柿など)から、それで風土文芸学だなどとはなかなか言えない。和歌山は南へ行くほど黒潮に近づき、豪快に、また南国的になるなどと犬養孝は言うが、おおかた犬養自身の主観であって、実際の万葉集がそういう姿を見せるかどうかは別問題だ。とにかく、風土といっても、地理的な現象(自然、人文両方を含めて)から見つけ出してくるしかないのであり、それを皮膚感覚的に読解することになる。その点からすると、土着の人間が一番感じ取りやすい。私などは、根っからの、大和平野中南部高市郡)の人間だから、大和平野の中部以南(田原本以南)から、吉野、宇陀にかけては、山の稜線、空の雲、川の流れ、かつての集落や街道の様子、などなどふかく感得できるが、大和平野北部、特に、斑鳩から生駒にかけて、そして大和高原の北部(都祁、天理以北)、については印象が薄い。まして奈良県以外となると、何度も行った、伊勢南部や和歌山、大阪、京都などを除いて、数回旅行した程度であり、とても、土着の人には及ばない。さいわい、万葉集は、大和の歌を中心に、大和以外へ旅した人たちの旅の歌を集めたものだから、私などには、それほどの違和感はない。
そういう歌の中から、風土性をよく感じさせて、面白い歌だ、というのを具体的に見つけ出していくのが、万葉集を風土論的に読んでいくことだろう。もちろん、万葉集は風土だけを歌ったものではないが、風土を感じさせる歌が多いのも事実なのだ。
地理や地質、天文などが好きだった内村鑑三には、数は少ないが風土を感じさせるすぐれた小編があるが、そういうものが万葉にもあるのである。なにも環境決定論的に万葉集は質的にどのように風土から影響を受けているかなどと大きく構える必要はない。久松潜一のようなことをしても成績は上がらない。