2328、わざみ11

2328、わざみ11
前回で、わざみ青野説の根拠として、「不破山越えて」は、近江・美濃国境から、今の関ヶ原、野上を超えることで、不破山のなかに、関ヶ原の小盆地や野上の隘路も含まれるからだとした。~山を越える、というと、今は、信州の峠道のように、山岳地帯の部分を越えることだけを意味するようだが、和田峠鳥居峠碓氷峠野麦峠などなど、万葉のころは、小平地なども含むやや広い山地を通過することをも、~山を越える、と言ったようなのだ。つまり、~山、といっても、とくに固有名詞的にはっきりとした山岳(峠)をイメージしていないようだ。不破山にしても、近江・美濃国境といっても、今須峠のような低い峠だし、そのさきも低い山が周囲に離れ離れにあるだけで、不破山と呼べるようなまとまった山塊がないのだ。だから不破郡の山がちの土地一帯という意味で、不破山と呼んだのだろう。青野まで来ると、もう前方は広大な平野部で、山はない。集中の、山越えの例を見てみよう。鳥の山越えは出さなかった。

1-29、玉たすき 畝傍の山の…大和を置きて あをによし 奈良山を越え…近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下…
山本健吉のいうように、大和-奈良山-近江大津、と3つの地点で行程をあらわしている。といっても、大和では、何処が出発点かわからないが、それは畝傍山麓など、初代天皇から何代もの都があった、大和平野一帯を漠然と指したものだろう。飛鳥から奈良山では遠いが、春日あたりの宮ならすぐだ。それはとにかく、奈良山を越えると言っても、特に険しい所があるわけでもなく、低い丘陵地帯をちょっと歩くだけだ。山らしい山もないし、奈良山という一つのまとまったかたちと目立つ頂上があるわけでもない。奈良坂という峠らしいところもあるが、飛鳥時代は、歌姫越えで、こちらは峠らしい感じもない。

1-43、我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
これはいろいろと問題があるが、とにかく、名張の山といっても、そんな名前のまとまった山があるわけではないし、越えるような峠と言うほどのものもない。強いて言えば青山峠だが、これは伊賀郡と伊勢一志郡との境であって、名張ではない。名張郡一帯の山地というしかなく、そのなかには、赤目や名張市街地、伊賀神戸の小盆地もある。これなどは、不破郡一帯の山地と見た時の、不破山と同じである。

1-45、やすみしし 我が大君 … 都を置きて 隱口の 初瀬の山は 眞木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして … 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
これも、すでに言われているように、初瀬山という一つの山があるわけでなく、泊瀬(地方)の山ということであり、現在の長谷寺の手前あたりまでは、水田も続く。その手前で右に折れて大宇陀への近道を取ったという、犬養氏の説などが定説化しているが、それはあまりに矮小というものだ。やはり、吉隠への大きな坂や、西峠への急坂を越えてこそ、「眞木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ」にふさわしいし、そこから南へと、烏の塒屋山のピラミッドのような山を見ながら、安騎の大野を目指すのが順路であろう。途中で右折したのでは、初瀬の大きな山岳地帯を越すという感じがしない。それに壬申の乱の時の天武のたどった道をできるだけたどるのにも適さない。やはり榛原を経由すべきだ。
不破山越えにしても、名張の山越えにしても、奈良山越えにしても、初瀬の山越えにしても、その地域の端から端までを通過すべきで、途中で横道にそれたら、別の世界へと行くことにはならないだろう。

1-70、大和には鳴きてか來らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
これは人間ではなくて鳥なので、一つの山を飛び越すのはお手のものだ。鳥の山越えは用例としないので、以下ださない。

1-83、海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
龍田山は特にどこと指す峰もないが、奈良山と同じで、三郷町から大阪の柏原にかけての丘陵地帯ということになる。巻一で、以上、奈良山(北)、泊瀬山(東)、名張(東)、象の中山(南)、龍田山(西)、というように、奈良盆地の東西南北の境界を越える時のもので(名張畿内から外へで、龍田山は河内から大和へだが)、大和平野が四方を山に囲まれている以上、当然と言えば当然だが、うまく東西南北を揃えたものだ。

2-106、ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
これは秋山とあるから、どこの山越えか分からない。漠然と、伊勢と大和との間の山地か。

2-131、石見の海…寄り寝し妹を…置きてし來れば この道の…里は離りぬ いや高に 山も越え來ぬ…靡けこの山(138もほぼ同じ)
ただ山を越えたと言うだけで、どこからどこへ、また何という山か不明。反歌132、134からすると、高角山ということだが(139では打歌の山)、石見国内の山で、国境の山とか一郡に渡る大きな山地ともいえず、ただ、妹の生活圏から離れ出てしまうということのようだ。

2-199、…背面の国の 眞木立つ 不破山超えて…
今問題にしているものだが、和※[斬/足]へ出たのだから、近江側から越えたのは確実。

3-272、四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隱る棚なし小舟
これは、ただちょっとした山を越えたと言うだけで、一郡に渡るような大きな山地ではないようだ。

3-282、つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
磐余あたりで、泊瀬山を入口から出口(西峠)まで、夜明けまでに越えられるかと心配するのはちょっと異常な感じがするが、夜明けまで5時間とすれば、不可能ではないから、そうとるしかない。

3-287、ここにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり
幸志賀時石上卿作歌一首、とあるから、大和から近江へ山を越えたわけだが、狭く限れば、山城近江国境の逢坂山となる。しかしそれなら、山の向こうは山城だから、家(大和)はどっちだと思うほどのことはないので、更に南方遠くに続く山々を越えたと言ったのだろう。

3-291、眞木の葉のしなふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ
大きな山地ではないが、畿内と外部との境という意識はあろう。

3-298、眞土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む
この山も極めて小さい峠に過ぎないが、紀和国境となっている。

3-301、岩が根のこごしき山を越えかねて音には泣くとも色に出でめやも
奈良山は長屋王の時代になっても国境を意識させられる山であった。

3-365、塩津山打ち越え行けば我が乘れる馬ぞつまづく家恋ふらしも
これも国境の山だが、塩津山と具体的に指示しており、それは郡名のような広がりはないから、一本の峠道とその左右の山だが、東山道から北陸道にはいる重要な峠だ。

4-511、我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ

4-543、大君の 行幸のまにま … 畝傍を見つつ … 紀路に入り立ち 眞土山 越ゆらむ君は…
紀路に入ってから越えたように言うが(こういう地理知識の曖昧さは万葉集に多い)、もちろん真土山は紀和国境で、既出。

4-567、周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道
この山越えの実体はどういうものなのだろう。あとで検討。

5-886、うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと…
九州熊本から、大和まで、特に中国地方は山が多い、ということは、知られていたようだ。

6-953、さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ
金村歌集のものだが、題詞に難波宮行幸とあるから龍田山を越えたのだろう。

6-1017、木綿畳手向けの山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ
題詞に逢坂山を越えて琵琶湖を見たとある。大伴坂上郎女のころになると山越えは峠越え。

7-1188、山越えて遠津の浜の岩つつじ我が來るまでにふふみてあり待て
どこの山かわからない。遠津は大阪のようだから龍田山か。なお、出さなかったが、巻7の吉野行きの歌で、越えて来たというだけで、何を越えたのか言わないのが二首ほどあったが、明日香吉野境の高取山地であることはあきらか。

7-1208、妹に恋ひ我が越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるが羨しさ
畿内南限の背の山は既出。

7-1241、ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも
奈良山と、漠然と言わないで、黒髪山と狭く限定したのは、時代が新しいからか。

8-1428、おしてる 難波を過ぎて うち靡く 草香の山を 夕暮れに 我が越え來れば 山も狹に 咲ける馬酔木の 悪しからぬ 君をいつしか 行きて早見む
今までは大和河内国境と言えば、龍田山が普通だったが、草香の山という、狭い範囲の地名を出してくる。

9-1666、朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山道越ゆらむ
山越え、よりは、山道越え、のほうが細かく、具体的だ。これは紀州行きの道中のようだが、どこの山道か不明。

9-1680、あさもよし紀へ行く君が眞土山越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね
紀和国境越えは今までに何度も出た。

9-1749、白雲の 龍田の山を 夕暮れに うち越え行けば 瀧の上の 桜の花は…
久し振りに龍田山、大阪か奈良を昼頃出たら夕暮れに越えるだろうが、夜中までには、奈良か大阪には着く。迷う道でもない。それより桜を見るゆとりがあるのが珍しい。
ただ越えたと言うだけだが、龍田山を越えたのが明らかなものが続いて出る。

9-1771、後れ居て我れはや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去なば
どこの山とも言わないが、大和の人間が長門の守になるというのだから龍田山だろう。

9-1778、明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩蹈み平し君が越え去なば
名欲山は大分県らしいが、どこだろう。

9-1786、み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる我れを懸けて偲はせ
これはあらち山だろうか。

(10-2185、大坂を我が越え來れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ)
二上山の大坂=穴虫越ということだが、越える途中であって、越えた向こうではない。

10-2201、妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え來れば黄葉散りつつ
前の歌とほぼ同じ情景。もう龍田山以外に生駒越えも普通にあったのだろう、暗峠か。

12-3148、玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎
12-3149、梓弓末は知らねど愛しみ君にたぐひて山道越え來ぬ
12-3151、外のみに君を相見て木綿畳手向けの山を明日か越え去なむ
12-3153、み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む
12-3186、曇り夜のたどきも知らぬ山越えています君をばいつとか待たむ
12-3188、朝霞たなびく山を越えて去なば我れは恋ひむな逢はむ日までに
12-3190、雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
12-3191、よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに
12-3192、草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ [一云 み坂越ゆらむ] 
12-3193、玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道越ゆらむ [一云 夕霧に長恋しつつ寐ねかてぬかも] 
12-3195、磐城山直越え來ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ
13-3236、そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の…幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を 
13-3240、大君の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて…近江道の 逢坂山に 手向けして 我が越え行けば…いや高に 山も越え來ぬ 剣太刀 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡山 いかにか我がせむ ゆくへ知らずて 
13-3318、紀の国の 浜に寄るといふ 鰒玉 拾はむと言ひて 妹の山 背の山越えて 行きし君…君は聞こしし な恋ひそ我妹 
14-3402、日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ
14-3442、東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに
14-3477、東路の手児の呼坂越えて去なば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
15-3589、夕さればひぐらし來鳴く生駒山越えてぞ我が來る妹が目を欲り
15-3590、妹に逢はずあらばすべなみ岩根蹈む生駒の山を越えてぞ我が來る
15-3722、大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
15-3723、あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
15-3734、遠き山関も越え來ぬ今さらに逢ふべきよしのなきが寂しさ [一云 さびしさ] 
15-3757、我が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを
15-3762、我妹子に逢坂山を越えて來て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
17-3962、大君の 任けのまにまに 大夫の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離る 鄙に下り來…嘆き伏せらむ 
17-3978、妹も我れも …大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離る 鄙治めにと
…寝すらむ妹を 逢ひてはや見む 
17-4006、かき数ふ 二上山に…道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根蹈み 越えへなりなば…置きて行かば惜し 
18-4052、霍公鳥今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
18-4116、大君の …岩根蹈み 山越え野行き 都辺に 参ゐし我が背を…面変りせず 
19-4154、あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く …越にし住めば…眞白斑の鷹 
19-4164、ちちの実の…あしひきの 八つ峰蹈み越え さしまくる…名を立つべし
19-4225、あしひきの山の紅葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく
20-4372、足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは齋はむ 諸々は 幸くと申す 帰り來までに 
20-4395、龍田山見つつ越え來し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
20-4403、大君の命畏み青雲のとのびく山を越よて來ぬかむ
20-4407、ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
20-4440、足柄の八重山越えていましなば誰れをか君と見つつ偲はむ

奈良山(1-29、13-3236、13-3240)
黒髪山(7-1241)
泊瀬の山(1-45)、泊瀬山(3-282)
龍田山(1-83、20-4395)、龍田の山(9-1749、15-3722)
生駒山(10-2201、15-3589)、生駒の山(15-3590)
眞土山(3-298、4-543、9-1680)
背の山(3-291、7-1208、13-3318)
妹の山(13-3318)
草香の山(8-1428)
四極山(3-272)
名張の山(1-43、4-511重出)
逢坂山(13-3236、13-3240、15-3762)
不破山(2-199)
塩津山(3-365)
越の大山(12-3153)、これは「越えて」ではなく「行き過ぎて」とある。
岩国山(4-567)
名欲山(9-1778)
木綿間山(12-3191)
島熊山(12-3193)、山道越ゆらむ、とある。
磐城山(12-3195)
碓氷の山(14-3402)   碓氷の坂(20-4407)
手児の呼坂(14-3442、14-3477)
足柄のみ坂(20-4372)、足柄の八重山(20-4440)

秋山(2-106)
山(2-131、138)、石見国内とだけは分かる。
山(3-287)、近江・大和間を漠然と言う。
山(3-301)、奈良山であることはあきらか。
山(12-3186、12-3188、12-3190、17-3978、17-4006、18-4052、18-4116、20-4403)
百重山(5-886) 
山(6-953、7-1188、9-1771)、龍田山だろう。
山(9-1786、15-3734)、愛発山か。
関山(15-3757)
手向けの山(6-1017)、逢坂山のこと。
手向けの山(12-3151)
山道(9-1666、12-3149、12-3192、15-3723、19-4225)
山の崎(12-3148)
山坂(17-3962、19-4154)
八つ峰蹈み越え(19-4164) 

山を越える、というのだから、当時としては、自然趣味、登山趣味などはないので、旅の歌で、道程の一部として詠まれる、という内容だろうとは予測できることであり、事実その通りだ。「幾山河越えさり行かば…」などというのはあり得ない。そして、万葉集に旅の歌が多いという事は周知のことであり、山越えの歌のないのは、巻11と巻16だけである。巻5~8、巻10、巻17~19、なども少ない。巻20は東歌があるからやや殖えたので、それがなければほとんどないといってよい。第三期あたりからは、もう、山越えの歌ははやらなくなっているようだ。特に多いのは、巻3、7、9、12、だが、これらには旅の歌がまとまって載っている。また第三期以降では、固有名詞の山越えが少ない。それにつれて、山坂、山道、といった細かい表現が出てくる。また、具体的な固有名詞の山を越えても、ただ、山を越えたとしか言わないのも殖えてくる。
大和は四囲を山に囲まれているから、大和平野から外へ出るには必ず山を越える。大和川だけは例外だが、これを船で下ったり、川沿いに国外に出たりと言うことは、普通はなかったようで、龍田山を越えるのが多い。その越えた山を見ると、
奈良山、3
 黒髪山、1
龍田山(龍田の山)、4
 生駒山(生駒の山)、3
泊瀬山(泊瀬の山)、2
真土山、3
これですべてだが、真土山はすでに大和平野を出た後の、吉野川沿いの小丘であり、山越えといっても、国境のちょっとした峠で、山越えというほどの大げさなものではない。本来、巨勢山を越える歌があるべきだが、こちらは、ほとんど山越えというほどの高度差がなく、のどかな川沿いの自然が歌われるだけだ。それよりも、山越えらしい山越えとして、飛鳥、吉野間の峠道があり、当時の人たちも盛んに越えたのだが、なぜか、越えた、というだけで、山を越えたとは言わない。まして、山の名前は言わない。その結果、大海人皇子壬申の乱で越えたのはどこかということが不明になっている。芋峠が通説だが、確実ではない。遊覧(行幸)で越えたときも、まったく不明だ。宇治間山を千股とすれば、芋峠説が有利だが、これも全く根拠のないことであり、その山を越えたか分からないから、宇治間山も結局は不明になる。なぜ、これほどに何も言わないのか。奈良山、龍田山、生駒山、泊瀬山は、非常によく知られているし、道中を描写した歌もある。また、そこを越えて遠くまで旅する人も多い。飛鳥・吉野間は、せいぜい吉野川の美景を楽しむだけで、それ以上遠くへは、まず行かないし(その点真土山は大きな違いがある)、また、途中の山にしても、今でも、せいぜい高取山が知られる程度で(それも高取城という、後世に出来た有名な山城のおかげ)、万葉の時代なら、まるで問題にならない。また峠にしても、芋峠などは、地元でもほとんどその名前を知らない。せいぜい、交通量が多く、トンネルが二本もできた、芦原峠が有名だが、これにしても、頻繁に吉野方面へ行く人がよく知る程度だろう。その西の、車坂となると、もはや、地理好きの領域だ。
いくら多くのひとが山越えをしても、歌に詠むほどの関心が寄せられなかったら、名前も残らないということだ。なお、天武天皇の耳が嶺(通説では、耳我の嶺)の歌を、この山越えのこととする説がほとんど通説になっているが、それなら、以降の多くの吉野行きの歌で、少しは詠まれていいだろうに、全く片鱗もない。やはりあの天武の歌でも、飛鳥・吉野間の山越えの山は、名前も場所も不明なのだ。
ところで、吉野方面以外は名所といってもいい山の名が歌われているが、そもそも、大和平野の四囲は山だと言っても、山らしい山は少ない。高さから言って申し分のないのは、生駒山二上、葛城、金剛、多武峰の背後の山ぐらいで、形や名前で、有名なのは、三輪山春日山位である。ところが、これらの山は山越えの道として、よく利用されるものがないから(地元の人用の小道程度)、眺める山としては歌われても、越える山としては歌われない。例外は生駒山である。都が平城京になってからは、直通の最短路として、その鞍部の暗峠が利用されたらしい。大坂側からの名称として、草香の直越えというのもあった。ということで、奈良山、龍田山、泊瀬山などというのは、とくにそういう名の知られた山があるのでなく、漠然と一帯の山地や丘陵地帯をさしたのである。ただそれが幹線道路の著名な境界だったので、歌に詠まれ、有名にもなった。ちなみに、現代は、奈良山なら国道24号線、龍田山なら25号線、泊瀬山なら165号線、となり盆地内の最重要路だ(今は高速道路がそれを上回るが)。
これらに次いで目立つのは、畿内となる。
背の山、3
妹の山、1
草香の山、1
四極山、1
名張の山、2
逢坂山、3
背の山と逢坂山が目立つ、南と北の畿内の果てであった。どちらも小さいながら目立つ山であり、越えたときの異境感は大きい。草香の山は、生駒山と言ってもいい所だが、草香という小地名にまで興味を示すのは、奈良山における黒髪山と同じで、時代の進展とともに観察が細かくなったのか、土地勘のある人間の歌だからだろうが、そういう歌が詠まれ、保存される所に、和歌が広く行き渡っていることが伺われる。四極山は、住吉区の小丘陵(長居公園あたり)とされる。ほとんど山とも言えない、ちょっとした坂道だが、これを越えるのにどんな感動があるのだろうか。摂津住吉の海岸部から、河内松原あたりの内陸部へこえるわけだが、やはり河内と、摂津住吉やその南方の和泉などの海岸地帯とでは、かなり雰囲気が違う。住吉・大和間を往復した人たちには、その境界を越えるのが印象的だったのだろう。これらに対して、名張の山は、漠然と名張郡一帯の街道沿いをさしているだけで、はっきりとした境界の山がない。それでも、名張の山を越えるといったのは、まだ伊賀郡の阿保があるとはいえ、その伊賀郡は、もうほとんど伊勢の雰囲気が漂ってくる所だからだろう。伊勢はやはりはっきりとした異境なのだ。はっきりとした山越えもあり、漠然とした山越えもある。地理的な条件のもたらすものだ。奈良山の場合は黒髪山という小地名も出たが(龍田山なら小鞍の嶺)、泊瀬山、名張の山、などは、都からも遠く、知られるような小地名も特になかったのだろう。
以上、大和から外へ、そして畿内から外へ、とくると、その次は、畿外での境界と言うことになろう。
不破山(2-199)
すでに触れたところだが、再確認する。一般に、不破山越えて、というのは、滋賀・岐阜県境の今須峠を越えることとされているが、非常に低い峠であり、その一帯を、真土山、背の山、のように、固有の名で呼ぶ山もない。伊吹山と霊仙山の間の低山地帯で、小山のような山が連なったり点在したりしているだけで、峠の東西南北を不破山と呼ぶことはないということだ。そこからしばらくで、松尾山の北に、ちょっとした小盆地(今の関ヶ原町)があるわけだが、まだ前面には大きな南宮山の山地があり、道は野上の山間を通るから、山を通り抜けた感じはしない。青墓あたりでようやく開けた平野部になり、山を越えたという感じになる。つまり、名張の山、泊瀬の山、などと同じで、小盆地も含めた山間地を通り抜けたということである。不破山というのは、不破郡一帯の山や小盆地のことと思われる。その一帯が雪の難所なのであり、今須峠だけが雪の難所ではない。不破郡一帯を越えて(通りすぎて)、西濃の中心部の平原部に出て、雪の難所を越えたと言うことになるのであろう。

塩津山(3-365)
 琵琶湖北端の塩津に上陸するのは陸路を最短にする上で合理的だし、かなりの平地もある。犬養は例の旧道趣味で、塩津越え(国道八号)をとらず、深坂越え(北陸線深坂トンネルのやや南西側)をとっているが、特に根拠があるわけでもなさそうだ。国道八号の新道の方に出た可能性もある。それはともかく、塩津越えでも深坂越えでも、西はほぼ南北に400~600mの高度の山が連続し、北東方面もほぼ同じ高度の山が続き、目立つ頂上を持つまとまった形の山が無く、したがって地図にのるような名前もない。野坂山地余呉湖のあいだの低山地帯ということだから、塩津山といっても、泊瀬山とほぼ同じで、そのあたりの著名な地名によって名付けたものだ。だから、近江の塩津から、国境を越えて越前の最初の集落あたりまでの名前で、それ以上には及ばないようだ。

越の大山(12-3153)、これは「越えて」ではなく「行き過ぎて」とある。
 大山というのは要するに普通名詞で、どこともわからないし、「越えて」ではないのだから、山を見ながら麓を通過してもいいわけだ。したがってどこかの境界とも言えないので考察の必要はない。

岩国山(4-567)
当時の駅路の、岩国市から玖珂町にいたる間の欽明路峠をいったものであろう(犬養「万葉の旅」)とするのが通説である。山陽線は、広島県の大竹から岩国へ出た後、柳井方面への海岸部を通るが、岩徳線は、下松、周南への近道を取る。古代も同じと言うことだ。国道2号線や新幹線は大竹から山中にはいる。鉄道や道路など多くの、欽明路トンネルがあり、また岩徳線には、欽明路駅がある。つまり、欽明路峠というのは、地元ではよく知られているということだ。ところで万葉の場合は、西から東へ、つまり欽明路から岩国へ越えたようだが、峠の西側は、あまり山がない。峠から東へは、さらに中峠を越えたようだが、こちらは、山が多く屈曲もあり谷も深い。あの錦帯橋の大きさと錦川の水量とを見れば山の深さも分かろうというものだ。それでその道筋の周囲一帯を岩国山と呼んだのだろう。この玖珂から岩国へ越えるのは、国境などの大きな境界ではないので、今まで見てきた山越えとは少し傾向が違う。要するに旅の危険を主題にしている。当時山中の道などはかなり危険な所もあったようだ。律令体制の進展で、長距離の困難な旅の経験がふえると、交通そのものが歌の題材になってくるということのようだ。

名欲山(9-1778)
大分県の山らしいが、詳細は不明。「なほり」←「なほいり(直入)」というので、大分県の竹田方面らしい。地元の乙女と上京する官人との贈答の歌だから、上京の時の見納め山のようでもあり、それなら人麻呂の石見相聞歌の高角山に似ている。具体的な地名が分からないから何とも言いようがない。

木綿間山(12-3191)
島熊山(12-3193)
どちらも所在未詳。巻2の旅の歌の部に集中して出ている。

磐城山(12-3195)
静岡県薩た峠といわれるが、前の歌の集団の一部だから未詳とするべきだろう。

手児の呼坂(14-3442、14-3477)
静岡県薩た峠とか七難坂とかいわれるが、要するに不明。薩た峠のあたりが難所であることは今でも同じ。所在不明というのはそこが、著名な境界とか、知られた郡名や大きな地名をもって呼ばれところでないとかからであろう。旅人が偶然知った地名を詠んだか、地元の人が詠んだかしたのだろう。薩た峠は、手前も向こうも同じ駿河の国であり、地形は険しいが、特に越えにくいわけでもなく、文化的な違いを見せる境界ではない。

碓氷の山(14-3402)   碓氷の坂(20-4407)
群馬県碓氷郡から登る方が坂がきついのだから、当然碓氷郡の郡名を峠を含んで群馬県側の山地を

足柄のみ坂(20-4372)、足柄の八重山(20-4440)
 私は行ったことがないが、神奈川県の足柄一帯はかなり山が深いようだ。静岡側は富士の裾野の高まりもあって、峠まではたいしたことがないようだが、足柄側はかなり厳しい山越えになるようだ。従ってというか、それで、やはり、足柄の名前で呼ばれる。泊瀬の山や不破山と同じで、越えるのに時間のかかる方の、郡名や、大きな地方名で呼ばれる。これは駿河と相模の国境だから、それなりに異境に入る感じはあるが、しょせん東海道の連続であり、文化的にそう変わりはないようだから、山越えの険しさに抒情の中心がある。とすると、岩国山に似ているとも言える。

人麻呂は平気で地理の矛盾を犯す
「不破山越えて」、の不破山を、今須峠だけではなく、そこから野上を越えるまでの不破郡の山地を、指したものとするのはそれでいいとして、史実からすると、高市皇子天武天皇は、伊勢の桑名から、揖斐川ぞいに北上して、野上につき、のちに高市皇子は、その東方青野の「わざみが原」に陣地を築いたのだから、どう考えても、不破山を越えて、「わざみが原」に出るはずがない。人麻呂はどうしてこんな地理上の矛盾を犯すのか。高市皇子が死んだときは、まだまだ壬申の乱の経験者はたくさんおり(特に持統天皇)、人麻呂の挽歌が事実を詠んでいないことはすぐにわかることであり、人麻呂もそれは十分承知していたであろう。
歌は誠実に詠むべきものだろうが、やはり読者を想定する以上、相手の心を動かそうとするだろう。そこに事実を変えようという欲望がうまれる。挽歌というのは故人を称揚する意図もあるから、ある程度虚構は許されるだろうし、読者も、虚構だからといって非難することなく、虚構によって心を動かされることを喜ぶだろう。ちょうどドラマであり、史実に忠実ではありませんということわりを入れた時代劇のようなものだろう。韓国ドラマはなかなか人気があるが、「明成皇后」のラストは、まさに虚構そのものであり、そのために史実よりも感動的であった。慶福宮の中を変装して逃げ、最後には暗殺者に見つかって無惨に殺されるのよりは、居所から動かず、さんざん啖呵を切って、女官らと共に殺される方が、ドラマとしては、後味がすっきりするのだ。たとえありえない嘘だとしても。安倍元首相も奈良の西大寺駅前という、開発最優先の見本のような所で死んだのは、場所柄としてふさわしいだろうが、国葬などと飛躍していくのは、まさにドラマである。
閑話休題、史実ではない「不破山越え」はどんな効果をもたらすのだろうか。
問題の高市挽歌は、題詞に高市皇子の殯宮の時の歌だとあるから、全体の枠組みは分かるが、歌中には肝心な固有名詞が少なく、殯宮の具体的な在り方も不明で、どうしても書紀などの記事を援用したくなるが、やはり作品の中だけで理解するしかないし、矛盾は矛盾として、どういう筋なのか考える必要がある。
まず、明日香の真神の原に都を定めて死去した大君とあるから、天武天皇が呼び出されている。その天武が支配している、北方の国(背面の国)の不破山を越えて、とあるが、これを、天武は全国を支配していて、その中の北方の国とする注釈がある。しかし後の方で、服さない国を鎮定して天下統一を謀ろうとするというのだから、不破山を越える時点では、支配している北方の国というのは、美濃のことで(具体的には安八磨の湯沐邑)、そこの不破山を越えて、わざみが原の行宮に天降ったというのだろう。実際は野上なのだが、その東方の、わざみが原、とした方が、威圧感がある。これは、都や行宮・離宮などは、~原、という所に造られるのが多い、と、以前指摘したのが参考になる。
それにしても、不破山はともかく、わざみが原、という、おそらく、壬申の乱を直接経験した人以外、だれも知らない、と思える地名を何故出したのか。そこは、天武の本陣であり、勝敗の帰趨を決する重要な地だと言うのだろう。不破山を越えて、そこに達したというのは、やはり、近江を基準にした視点と言わざるをえない。明日香から、東国へ出るには、平時であれ、戦時であれ、初瀬から伊賀を経て伊勢に出るのが順路であって、近江から東山道を経て不破山を越えるなどと言うことはありえない。歌には詠まれていなくても、天武方が吉野から出陣したことはよく知られていただろうから、ここでは、伊賀から近江に出て不破山を越えたと言いたかったのだろう。近江方が厳重に警戒しているはずの近江路を通過し、東国に出させないための最後のとりでである、不破山を越えて、わざみが原に陣地を築いたというのは、近江方に取って信じがたい情報だったであろう。それは神業に近いものだったろうから、天武はわざみが原に天降ったと、人麻呂は言っている。これはもう史実とは大きく違うのだが、作者は、伊勢回りで、わざみが原に出るような姑息な手段ではなく、どうどうと敵前を神のような迅速さで駆け抜けさせるという、ドラマチックな構想にしたのだろう。わざみが原、は、東国の兵を集結させて、近江に攻め入るには最適の場所で、そこへの近江路からの進出を許したと言うことは、近江方にとって、堪えがたい屈辱であるだろうから、そのような筋書きにしたと言えるだろう。
そこで天武は、天下平定のために東国の兵を召集し、服従しない人や国を統治せよと、高市皇子に命じた、というので、話の展開としては特に分かりにくい点はないが、服従しない人や国は具体的に何かというのが不明だ。史実からは近江方となるのだが、歌の中身からは見えてこない。従わない人や国を鎮圧するのなら、する側は当然都にいるはずであって、わざみが原のような所からそういう指示をするのは、東国を支配下に置いた地方政権であることをそれとなく示している。
そのあと、委任された高市皇子武装して、兵士を統率し、奮戦する様が詳しく描かれる。しかしこれも、肝心の戦場が分からない。わざみが原が後の関ヶ原のような戦場になったという説が出るぐらいだ。もちろん史実はそうではなくて、破竹の勢いで近江方を追いつめ、最後の瀬田の橋で大決戦が行われたのだった。しかし歌の中身からは、戦線の動きや決戦場はさっぱりわからない。とにかく大きな戦闘があり、伊勢の神からの天武への神助などもあって、めでたく天下を平定したと言うだけだ。
高市皇子は、東国の兵を集結させた天武の将軍として活躍し、戦後は政務を仕切って栄えたが、此からと言うときに死んでしまった、と言うことさえ分かればいいようだ。ただし、ここも、高市皇子が国を治めたようになっているが、天武の補佐役をそのように美化したのだろう(伊藤釋注では、治めたのは天武・持統となっているが、史実ではそうだとしても歌意にあわない)。いずれにしろ、叙事詩(史詩)としての内容などほとんどないといって良い。神業的な天武の行動(そう思われていたようだ)において、あっという間に、わざみが原(壬申の乱におけるもっとも重要な地名の一つ)を押さえたのは、まさに、空から、不破山を突破したような印象を与えたのだろう(少なくとも人麻呂はそう読めるように詠んだのだろう)。
参考、訳の比較
新大系、我が大君天武天皇がお治めになる北国の、真木が聳え立つ不破山を越えて、(高麗剣)和射見が原の、行宮にお出ましになって
新編全集、わが大君天武天皇が お治めになる 北国の美濃の 真木が茂り立つ 不破山を越えて (高麗剣) 和射見が原の 行宮に お出ましになって
和歌文学大系、わが大君天武天皇がお治めになる北の国の。杉や檜の生い立つ不破山を越えて。(こまつるき)和射見が原の行宮に天降りなさって。
講談社文庫、天武天皇、くまなく国土を支配なさった大君が、お治めになる北の方、美濃の国の真木しげる不破山を越えて、高麗の剣の輪-和※[斬/足]の原の行宮に神々しくもおでましになり
沢瀉注釈、我が天皇のお治めになる彼方の国の檜などの茂る不破山を越えて、わざみが原の行宮においでになって
釋注、我が天皇(天武)が、お治めになる北の国美濃の真木立ち茂る不破山を越えて、和射見が原の行宮に神々しくもお出ましになって
いまさら多くの注釈書から引用しても、大方蒸し返しであり、どれといって良くできた訳などというのはないから、ここまでにする(引用した中では稲岡の和歌文学大系のが素直だ)。しょせん、時制も主語も曖昧な霞のかかった歌であり、人麻呂は短歌にはすぐれたものがあるが、長歌は宮廷儀礼に関したものが多く、明瞭な主題や文脈のたどれないものが目立つという通説通りだ。地理の矛盾にしても、人麻呂はほとんど気にしていないように思える。権力者や周囲の貴族・高官達も、人麻呂の歌がどれほど史実に反しようと、自分たちの利害に関わらなければどうでもいいのだろう。しょせんただの歌である。針小棒大であっても、とにかく、高市皇子は天武持統朝の政治上の有力者で、しかも故人なのだから、史実を無視して美化してもかまわないということだろう。

日並皇子挽歌(2-167、168、169)
これは「真弓の岡」という地名がひとつ出るだけ。さきの高市皇子のもそうだったが、死去の理由はなにも言わない。たぶん病死だろう。暗殺などではなさそうだ。しかし、殯宮や墓地の場所は、はっきりと示す。それを言わないと挽歌にはならないのだろう。だからそこに嘘や矛盾はない。飛ぶ鳥の浄の宮、というのも地名に準ずるが、これも天武の宮廷だから、誤魔化すわけにはいかない。というより、そんな必要は無いということだ。反歌二首にも地名はない。

河嶋皇子が死んだとき、泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献じた歌(2-194、195)
明日香の川、越の大野、越野(反歌)。生前の生活で最も印象的な地名として明日香川を出し、あとは例によって、墓地の場所を言ったようで、嘘も誇張もなく素直な作りである。

明日香皇女挽歌(2-196、197、198)
明日香の川、明日香川(長歌1、反歌2)、木〓の宮。これも上の歌と同じだが、名前と同じ川の名を形見にすると言っている。あとは例によって、墓地の場所を言ったようで、嘘も誇張もなく素直な作りである。地名が二種しかないのに、かなり長いので、言葉の技巧が豊富だ。とにかく、地名に関しては、嘘も誇張もなく素直な作りである。

泣血哀慟挽歌その1(2-207、208、209)
軽の道、軽の市、畝火の山。これは挽歌は挽歌でも、葬式の場面ではなく、ただ妻が死んだと聞いて男が嘆き悲しんだということが主題だから、墓地の地名は出てこない。あくまでも生前の妻との濃厚な時間を過ごした場である、軽と、その背景となった畝傍山の鳥の声である。かなり長い長歌で、地名は実質二つだから、叙事性はほとんどなく、ひたすら悲しみを歌っている。ところで、ここにはひとつ不思議な地理上の矛盾と見える表現がある。ちょっと問題にする注釈もあるが深くは追究されていない。それは、軽の市に立つと、普段は聞こえるはずの畝傍山になく鳥の声が聞こえないといっている点だ。妻と楽しくデートしていた頃には、妻の声もあり、鳥も賑やかに鳴いていたのに、どちらも一瞬にして消滅したというのだが、妻の声が聞こえないのは当然として、畝傍山になく鳥の声など、軽という土地では普段から聞こえるはずがない。1キロ以上は離れているのだから、畝傍山の木立の繁りが辛うじて分かる程度だ。当時は軽のあたりまで畝傍山の森が続いていたなどと言うこともありえない。軽と畝傍山の間には、見瀬、久米などの集落があり人もたくさん住んでいたはずで、大きな森などありえないし、地形的にも、畝傍山とは完全に切れている。

沢瀉注釈、「畝傍の山に鳴く鳥の」は実景ではない、山と市とは距離がありすぎて聞こえないのは当たり前で、だいたい市で鳥の声が聞こえないというのは酔興すぎるといって、この句は「声(妻の)」を起こす序だという。しかし【口訳】では、「畝傍の山に鳴く鳥の聲は聞えても妻の聲は聞えず」となっていて、【訓釋】と全く一致しない。それに(妻の)声の序だとしても、妻の声は鳥のような声なのかとつっこみたくもなる。訓釋をあるていど踏まえて訳すなら、序とするのは止めて、「畝傍の山に鳴く鳥の声が聞こえないように妻の聲も聞こえず」としたほうが、すなおだろう。ただし表現不足の難は免れない。

私注、「ウネビノヤマニ ナクトリノ」 次のコヱといふ爲の序であるが、…事実を以て序とした例である。  大意では、序の部分を訳していない。事実を以て序としたというのだから、軽の市で畝傍山の鳥の声が聞こえるとするのだろうが、沢瀉のいうようにそれは物理的にあり得ない。

稲岡全注二、訳、「畝火の山に鳴く鳥の声が聞こえないように妻の聲も聞こえず、」。なんと上述の私の訳と寸分違わない。畝傍の傍が火になっているだけだ。やはり先学は無視できない。私が見たように、稲岡も、沢瀉注釈、私注を詳しく引用する。そして例によって茂吉も詳しく引用する。ややわかりにくい点もあるが、やはり稲岡説が最良である。

金子評釈、「玉だすき」より「鳴く鳥の」までは「こゑ」に係る序詞。【歌意】あの兒が自分を待つとて、何時も出て見た輕の市に立つて聞くと、その懷かしい聲も聞えず、路を行く人も一人だつてそれに似た者が通らないから、 つまり序詞の部分を訳していない。

伊藤釋注、軽の巷に出かけて行ってじっと耳を澄ましても、あの子の声はおろか畝傍の山でいつも鳴いている鳥の声さえも聞こえず、道行く人も一人としてあの子に似た者はいないので  序詞とする説を否定。いつもは聞こえる畝傍山の鳥の声も聞こえないとするのは、沢瀉、稲岡などによって否定される。つまり地理的物理的に成り立たないということ。

きりがないので以上で打ち切る。最初に地理上の矛盾かと言ったが、特にそういうことはない。ただし、人麻呂が、軽の市で聞くと畝傍山の鳥の声が聞こえない、などとあたりまえのことを、沢瀉ではないが、酔狂にも詠んだ意図が分からない。畝傍山を持ち出すのは、軽の風土として適しているが、鳥の声は全然関係ない。なにか、人麻呂と、死んだ妻とにだけ共有される思い出でもあるのだろうか。長歌の場合は、予備知識なしでも鑑賞できるような歌を作ろうとしていないと言える。

泣血哀慟挽歌その2(2-210、211、212)
羽易の山、引手の山。前のは、軽の市(道)と畝傍山だけだったが、今度は長歌にはひとつだけ、反歌にひとつだけ。長歌に限れば、非常に少ない。長い歌が抒情で埋め尽くされている。それにしても、前のは、軽も畝傍も古代から現在まで著名な土地なのに、羽易の山、引手の山、ともに、全く知られない。どこにあるのか杳として不明であり、一応説はあるものの、とても信のおけるものではない。歌の内容からすると、死んだ妻を葬った所のようだが、皇族の挽歌では、そこが重要な土地で、歌にも必ず詠まれ、場所もほぼ明瞭なのに、人麻呂の妻のような庶民の墓になると、一応、場所は言うものの、おそらく当時でも極めて限られた人しか知らないような場所をいうだけであり、誰でも分かるような大地名すら言わない。これは人麻呂における地理の矛盾という当面の課題とは関係がないようだが、こういう誰も知らないような地名を平気で詠み込むところに、人麻呂の方法があるようにも思える。

沢瀉注釈、いろいろと実地踏査などもし、写真などものせて、龍王山を「羽易の山」と言ったのだと言っているが、無理に無理を重ねた説でとうてい認めがたい。だいたい羽易を鳥が両翼を広げた姿と言うが、羽易というのは、羽を閉じたときの両翼が交差する付け根の部分を言うのであるから(少なくとも万葉集の場合)、合わない。また、三輪の場合、羽易を沢瀉のいう意味だとしても、首の部分の三輪山、左翼の部分の巻向山、羽翼の部分の龍王山をひっくるめて、羽易の山だというが、ほぼ独立した三つのそれぞれ名前を持つ山を、5キロ以上離れた南西方面から見た形だけで、一語で呼ぶなどと言うことはあり得ないだろう(その証拠もない)。少し長いが、「羽易のような三輪、巻向、龍王の山々」ということになり、ある地点から見える地形を説明した普通名詞のようなものとするしかない(大和平野の周囲の山を「青垣山」と呼ぶようなもので、固有名詞としての機能を持たない)。しかも、その三つの山のうち、右翼の、龍王山だけを、「羽易の山」という固有名詞で呼ぶなど到底無理な話だ。出発点の羽易の意味を間違っているから、あとの説も無理を重ねている。反歌の「引手の山」を龍王山とするところから、こじつけたものであろう。
稲岡全注2、沢瀉注釈引用の大浜説を支持して龍王山とする。稲岡にしては安易だ。
私注、春日山の一部。10-1827に羽買の山とあるのを証とする。もちろん距離が離れすぎて人麻呂の歌とは関係ないが、なぜ同じ名前の山があるのかということは問題になる。古代にはそういう地形を「はがひの山」とよぶことがあったのだろうか。もしあったとすると、鳥が羽を広げた形ではなく、羽を閉じたときの首の後ろの羽が重なる所だろうから、大きな谷が平野に望んでいる所、春日なら、地獄谷(高円山春日山の間を柳生に向かう道、岩井川が流れている)がふさわしい。だから「はがひの山」というのは、そういう谷を形成する重なり合った山を言うのだろう。こういう地形は案外少ない。それに、普通の地理用語として分かりにくいから、歌語だろう。普通には、「~谷」というだろう(地獄谷もそうだ)。大和平野東縁なら、ほかには、巻向川一帯ぐらいしかない。布留川一帯は、どうもそうは見えない。初瀬川は谷が大きすぎて、両岸の山が重なり合う感じではない。
伊藤釋注、龍王山のことかといっているので、沢瀉説のようだが、「羽易」を両翼を広げた形ではなく、「妻を隠す山懐を鳥の「羽がひ」(1六四参照)に見立てたものか。」といっているところから、羽を閉じた時の交差する部分と見ているようだ。とすると、龍王山はそんな地形ではないから、まったくわけのわからないキメラのような説になる。実地を知らないと、こういう頓珍漢なことを言うことになる。「引手の山」を龍王山とする通説も根拠にしているが、通説そのものに何の根拠もないのだから無力であるし、それで「羽易」の地形がわかるわけでもない。

注釈類は見出すときりがないので、これぐらいにして、死んだ妻はどこに住んでいたのか明らかでない。軽の市にいつも出ていたというのだから、その近くに居たのだろう。人麻呂もどこにいたのか分からないが、藤原京の一画か。妻の住居が軽であれ、その近くであれ、そこから、龍王山と言われる羽易の山に葬ったのだとすれば、ずいぶん遠い。高市皇子は、香具山から、今の広陵町の馬見丘陵まで葬りに行ったようだが、それに匹敵する距離(10キロ近く)がある。高市の場合皇太子待遇だから、それだけの費用をかけるのわからないことはないが、素性もはっきりしない女性にそれだけの手間暇をかけるのは信じがたい。といって、ある説で読んだのだが、軽の近くということも、考えがたい。軽の近くと言えば、畝傍山や、明日香北西部の丘陵(甘橿の岡から五条野一帯)や、越智岡丘陵などとなるが、羽易のような地形はないし、皇族の墓も多く、庶民の墓地には適さない。
となると、やはり、巻向一帯が適地となるが、それほど離れた所に葬ったと歌っても、作品として失敗しないためには、その妻と巻向に、何か因縁があるということを、その歌を聞いたり読んだりするものが知っているという条件が必要だろう。ちょうどそれにぴったりなのが、人麻呂歌集のいわゆる巻向歌群にあるのだから、それが人麻呂の泣血哀慟挽歌の背景になっていることは、やはり間違いないだろう。
補足、人麻呂は、架空の地名を造り出すことはないようだが(一般にも、ファンタジイなどをのぞけばそういうことはないだろう)、あまり有名でない地名は、歌にふさわしいように文字表記を変える傾向がある。羽易の山、と言うのも、普通には無いような地名なので、は峡(がひ)の山、というのがもとの地名だったのかも知れない。「は」はよくわからない。歯峡の山、なら、犬の歯のような山というのはありそうだから、ちょうどいいが、歯のような谷間の山、というのはちょっとありそうにない、残念だが。次の地名も、宇陀から大和高原にかけて、~出(で)という地名が大変多いので、引出が本来の地名だったのを、人麻呂が「引手」に変えたのかも知れない。

引手の山
沢瀉注釈、龍王山(万葉の引手の山)の麓、諸陵式にある「衾田墓」のあたりに、人麻呂の妻の墓があったとする。 しかし、歌には、引手の山(龍王山)に妻を置いてきたとある。衾田墓は、龍王山ではない、その麓である。今は西殿塚古墳と呼ばれ、私が何十年か前に行った時は、周囲を田圃などに取り巻かれた堀のない大きな古墳で、よく木が繁っており、いかにも山の辺の大古墳という感じであった(今は相当かわわっているだろう、何十年もたって都市化しない所など大和平野には存在しない)。そこは、龍王山からは少し離れており(麓と言っても山に接してはいない)、龍王山とする沢瀉説はあたらない。また、衾田、と言う地名があるなら、衾道(ふすまぢ)という所もあるだろうという契沖の説を支持しているが、そのあたりに、衾という大きな地名があったとは思えない。それに、たとえあったところで、その地域内にある田だから、衾田といったということも、信用しがたい。「フスマダ」という、単なる小地名と見るのがよい。「フスマダ」という小地名は奈良県にはほかにもあるが、そのあたりに「フスマ」という地名などは存在しない。ということで、「フスマ」を地名と見ず、「衾道を」は、「引手の山」の枕詞で、地名以外の意味を持った言葉で、「衾道」は当て字だとする説もある。ただし、ここで深入りは出来ないが。また前にも言ったが、引手の山は羽易の山のことだとするのも、信じがたいことである。人麻呂は、三輪から天理あたりにかけての地理には詳しかったようだが、龍王山の西面は、いわゆる断層崖で、一気に頂上まで登る道しかなく、山中をさまようような所はない。横穴式古墳は登山道の途中にもあるが(登れば誰でも見られる)、果たして、万葉の時代、三輪巻向あたりの住民をそういう所に葬ったものか信じがたい。
稲岡全注2、私注、沢瀉注釈とほぼ同じ。
伊藤釋注、基本的には、沢瀉注釈と同じだが、「男女が手と手を引き合っているように見えることからこういったものと思われ、「衾」「引手」「妹」は縁語。つまり、この別称は、長歌冒頭の「取り持ちて」(互いに手に取り持って)とも響き合い、今、妻とともにありえずひとり山中を行く人麻呂のさびしさを示すのにも重くかかわっているように思う。山と山とが手を引き合うように重なる、その山麓に着目したのが長歌の「羽がひの山」なのであろう。」と想像をふくらましている所は伊藤らしいが、龍王山は、山が重なってもいないし、前述のように、羽易の形でもない。こういうところが実地を知らない研究の限界であろう。

泣血哀慟挽歌その2 或本歌(2-213、214、215、216)
羽易山、引出山
同じ地名が出るが、どちらも助詞「の」が表記されていない。引手の「手」が「出」になっている。それによって「ひきで」と読むのだろうと、沢瀉注釈は言うが、読み以外については、「引手の山」と同じと言うだけで、他には何も言わない。
稲岡全注2、 ヒキデノヤマが本来の名、文脈における意味的な効果を勘案して再案では「引手(ヒキテ)」に改めたのだろう、という。このとおりである。あとは現地の地理的な説明があれば言うことなしだが、あのあたりの地理まで調べろと言うのは望蜀だろう。
私注、伊藤釋注は、何も言わない。
それで、引手(出)の山は、具体的にどこなのか。今、たしかに「~出」の地名は多いが、これは出垣内集落、つまり分村とか枝村の意味だろうから、古代はそんなに多かったとは言えないだろうし、今でも、ちょっとした小字に多く、外部の人間には分かりにくい。龍王山のような大きな目立つ山ではなさそうだ。巻向川に沿って登り、初瀬の奥の、笠山荒神のあたり、龍王山の巻向側のちょっとした尾根だろうとするしかない。それにしても、この一連の作でも、出だしに「軽」という著名な場所を舞台にしたが、最後は、羽易とか引出といった、固有名詞とも言えないような私的な、少数の人間にしか分からないような地名を出し、詩的な表記に変えてくる所は、いかにも人麻呂らしい。個人的な体験だと擬装し文芸化するための方法のように思える。