2312、そがひ13

2312、そがひ13
4207    廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首并短歌
ここにして そがひに見ゆる 我が背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 我が宿の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 來鳴かなく そこは恨みず しかれども 谷片付きて 家居れる 君が聞きつつ 告げなくも憂し 
「そがひに寝る」以外では唯一の固有名詞(地名)を持たない歌で、立山の後にしたかったが、都合により先に見る。これは「筑波嶺にそがひに見ゆる」と同じ型で、「に」が「にして」に置き換わっただけとされるものである。ということは「ここに対して(ここから)向こうの彼方に見える廣縄の住む谷に」で問題はなさそうに見えるが、「そがひ」を後の方とする説からはいろいろと説かれている。地名がないから、地図や実地踏査などによる地理的な考察は出来ないように思うのだが、高岡市伏木での発掘調査などで、家持や廣縄の居た建物が推定できるようになってきてややこしくなった。

新編全集
    ここからは 後ろに見える 君の館の 屋敷の谷に… 
この歌は、国庁内の中央北端、現在の勝興寺の本堂付近…の国守公館で詠まれたと思われる。…掾の公館は家持の公館から見てソガヒというべき方角にあり、その「垣内」には谷があるということから、勝興寺の西北の伏木一ノ宮字大塚の台地南面の傾斜地にあったろうといわれる。大塚の台地は勝興寺のある伏木古国府から指呼の間にあるが、その間には現在も小さい谷が介在し、二上山東麓の赤坂丘陵のほうに向って延びており、以前はもっと深く長かったという。

地図を見ると、勝興寺というのはかなり大きな寺で、その北西一帯が伏木一宮である。西北西に道路を隔てて、伏木中学校があり、さらにその西北西に、高岡市万葉歴史館があって、二上山の東麓に接している。北西方向に向かうと、県立伏木高校がありそこまでが一宮で、その西南西の大塚に、気多神社(一宮)があり、かなり大きい。この神社はちょっとした山の上にある。廣縄の住宅はその山の南麓にあったようだが、等高線の曲がり具合を見るとちょっとした谷と言える。勝興寺から気多神社までは1.2キロあるが、麓までなら900メートルほどか。今までの「そがひ」の例で6キロぐらいあったのに比べると、遠いとは言えないが、山や島ではないただの住宅だから、すぐ近くとも言えない。屋敷の森などは充分見えるだろう。問題は、それを「そがひ」(後ろの意味として)と言えるかどうかだ。彼方の意味なら別に問題はないだろう。

新大系
作者大伴家持の住む国守公館は南面して建っており、久米広縄の掾の公館はその斜め背後の西北の谷筋にあったと推測される。
多田全解
国守館は二上山の東麓にあったが、広縄の居館はその背後の谷間にあったらしい。
阿蘇全歌講義
掾の舘が、ほととぎすが二上山に向かう通り道にあたり、初声が聞かれやすい位置にあることを論じた黒川総三氏の論がある…(「丹生の山と池主の公館」万葉八十五号)。…
和歌文学大系
広縄の邸は、家持の館の背後にあった。
万葉集釈注
大塚を、伏木東一宮とする。それなら勝興寺のすぐ真北である。せいぜい100メートルも離れてない。住宅地で埋め尽くされていて、谷かどうかよくわからないが、等高線が曲がっているのであるといえばある。それにしても、こういう位置関係は、裏というのであって後ろの方とは言わないと思うのだが、どうなんだろう。
青木全注
黒川論文を引用して、大塚を伏木一ノ宮字大塚とする。これなら気多神社のあたりとなるが、伊藤博が間違っているのだろうか。
全訳注原文付
掾の居館は山よりの台地にあったという。その構えを、谷を垣内とすると見た。
古典文学全集
そがひ-背後。ただし、必ずしも真後ろと限らない。地理は新編全集と同じ(黒川説)。
全註釈(武田祐吉
ソガヒは後方。家持の館に對して、廣繩の館は、多分北の方面にあつたのだろう。家持の館は、南面していると思われるから、後方に見えるというのであろう。
地理説明なし。
古典集成、沢瀉注釈、佐佐木評釈、窪田評釈、井上新考

略解、万葉考、剳記、代匠記、拾穂抄、管見
何もなし

古義
守(ノ)館より、背ける方にあるからいへり

古典大系、森本総釈
背向-斜め後ろの方。地理説明なし。

全釈
此處カラハ斜横ニ見エル。地理説明なし。

口訳、
茲からみれば反對に、向うに見える。地理説明なし。

私注
訳、此所で向ふ側に見える。地理説明なし。

黒川総三氏の説、「丹生の山と大伴池主の公館」『萬葉』第八五号1974年9月
沢瀉注釈あたりまでは、伏木あたりの地理説明などは一切なかったが、古典全集あたりからは、ほぼすべて黒川説に従っているようだ。随分古い論文だが、あらためて読んでみると簡単なものだ。そして、始めに、伏木中学とその背後の丘陵が写った写真を載せて、大塚の台地、赤坂山の一部と説明している。そして地図も載せている(残念ながら不鮮明の嫌いがある)。これだと、要するに私が最初に検討したもので、高岡市万葉歴史館の南西の山麓である。最初見た時もそこにかなりの谷が有ることに気付いたが、大塚と言えば気多神社のあたりだろうと思ってしまった。注釈書でも、ただ大塚と言わないで、伏木中学の西方から二上山山頂にかけてとでも説明しておけば、私も迷うことはなかった。やはりこういうところは地理に関心のない人の説明の欠点だろう。
ところでそうなると、どう考えても勝興寺北端にあったという家持の公館の背後とか、後の方とか、北方とか言うことはできない。ほとんど真西、つまり家持の公館から、南を向いた場合、真横となる。つまり普通に言う「そがひ」の意味にはあわない。このあたりも、注釈書類の説は不十分だ(伊藤博などは、そもそも誤読しているのだから、地理の素養ゼロと言っていいだろう)。なにも背後などと無理なことを考える必要はない。公館から、二上山の方を向いて、彼方の山麓にある廣縄の公館を見たとすればよい。だいたい「ここからは 後ろに見える 君の館の…」という訳文に無理がある。「からは」と訳したら、家持の公館から後に見えるという意味にはなりにくいのだ。だから、いつまでもすっきりしない感じが残る。「~から後ろ」ではなく、「~の後ろ」ならまだしも違和感はない(葦穂山のところの折口説参照)。だから、土屋私注の「此所で向ふ側に見える。」という訳が一番正確である。やはり「そがひ」は後の方ではなく、彼方とか向こうの方なのである。