2309、そがひ10

2309、そがひ10
460    七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首并短歌
栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り來まして 大君の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ來まして 敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隱りましぬれ 言はむすべ 爲むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや
次は春日野。行程としては、理願の住んでいた佐保の山辺の家(左注によれば、大納言大将軍大伴卿の家に寄住)→朝、佐保川を渡り→春日野をそがひに見つつ→山辺をさして→夕闇とともに隠れた、となるが、佐保の山辺といっても、そのどこかは分からず、墓地の山辺がどことも分からず、したがってそこへの道筋もはっきりしない。佐保川を朝に渡ったと言っても、どのあたりで渡ったとも分からない。有間山への報告としてはそれで充分だったのだろう。つまりどこを通ってどの墓地に葬ったか理解された。
地図で道筋をたどると、佐保の山辺というのは、だいたい興福院から不退寺にかけて、つまり法蓮町の山手だから、奈良高校とか教育大附中のあたりだろう。そこからだと南東へ一直線とすると、育英高校と関西線の間あたりで佐保川を渡り、芝辻町に出る。それからしばらく、船橋通り(もとの近鉄油阪駅の駅前通)のすぐ西の断崖の下を通るだろう。油阪駅前はもう登大路の先端である。そこからは京終あたりまでほぼ真っ直ぐにいくだろう。そして、古市町、鹿野園町、藤原町あたりに葬ったのではないだろうか。鹿野園町まで、直線で4.5キロ。実際に歩くのはそれより多く7キロほどか。佐保を朝出て夕方に着くというのには短いが、葬送などというのはゆっくり行くものであり、おおかた人力の当時は時間がかかるだろうから、その程度でも午後遅くにはなっただろう。短かすぎるのならもっと南下してもよいが、天理市までは行かないだろう。だいたい初めのうちは春日野を正面に見る。京終あたりから左斜め前方になり、古市町、鹿野園町あたりでは、完全に背後になる。春日野をそがひに見ながら、山辺に向かって、というのだから、京終あたりまで、山辺への道を春日野を見ながらたどったというのであり、そこからは、話題は山辺の墓地に夕闇と共に隠れたというところへ飛ぶ。これなら、春日野を前方(だんだんと左前方)遠くに見ながら、やがて後ろにしたとなる。身崎氏は、当時の貴族達がよく行楽に行った(おそらく理願も)春日野を見捨てて墓地に向かったのを、「そがひに見つつ」の意味だとされたが、見捨てるという未練たらしい煩悩というより、ただ単に、楽しく遊んだ思い出の春日野を見て、永遠に眠る墓地に向かった、と、散文的に言っただけだろう。
追記、佐保の家を出てからの道筋は、小野寛氏の前掲論文にしたがった。