2308、そがひ9

2308、そがひ9
次は、同じ兵庫県内の
武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ羨しき小舟(3-358)
一連の赤人の歌の二首目、357の縄の浦の歌の次である。これは二三四五の四句が、みな明解を得ず(結局全部分からないのと同じ)、やっかいな歌で、それにかかわっていては日が暮れる。ここでは「そがひ」に絞って、地図を点検しよう。
古典全集の訳を見ると、「武庫の浦を 漕ぎまわっている小舟 粟島を後ろに見ながら漕いでいる 心が引かれる小舟」とあり、頭注に「武庫の浦」はない。付録の地名一覧にもないが、「武庫」はあって、「…尼崎市から西宮市にかけての海岸地方を広くさす。」とある。「浦」を、岩波古語辞典で見ると、「…湾曲して陸地に入り込んだ所。」とある。確かに、和歌の浦、縄の浦は、湾入していた。しかし、武庫の浦は、古典全集の「大阪付近古地理図」では、武庫川の三角州の突端あたりに記入されていて、浦らしい地形ではない。東の方は猪名野の海岸部で、武庫郡ではない。芦屋にかけての、角松原、武庫泊と記入されたあたりが、かろうじて浦と言えば言える。大阪湾一帯は淀川の河口付近の多くの砂州を除けば海岸線が単調で(古代は特に、大きな埋め立て地がないからよけい単調)、武庫川河口右岸一体程度の凹みでも「浦」と言えるのだろう。猪名の浦、敏馬の浦、真野の浦、松帆の浦、などもほとんど湾入とも言えない、わずかな凹みである。近畿以外でも同じようなものだ。南部の浦、田子の浦など。
新編全集では、「… 粟島を かなたに見ながら漕いでいる…」と、全く違う訳になっているが、357の語注では、「ソガヒは背後、ソ(背)+カヒ(方向)の意。」としており、それでいて、「かなたに見える 沖の島を」と訳している。神経を疑う訳だ。あるいは、「背後のかなたに見える」とでもいうのだろうか。理屈は省くが、とにかく、「後ろに見る」といったアクロバチックな身体の動きを表現していると見るのは到底無理だろう。
ということで、この小舟の進行方向に粟島があり、船を漕いでいる人もそれを体の前方に見ている。それを、赤人が見てうらやましがっている。恐らく赤人は小舟の進行方向とは逆なのだろう。赤人らは、粟島を後ろにして離れていっているのだろう。小舟と同じ方向なら、どちらも粟島を見ているのだから、うらやましがる必要はない。
武庫の浦から東に向かうのなら、難波方面となるが、そっちに島らしい島はない。淀川河口の砂州はかなり多かったようだが、島と見なせる程のものはないだろう。つまりある程度しっかり陸化して樹木が生える程のものはやや奥に入ったところだから、武庫の浦からは見えないだろうし、知られたものがいくらかあるなかに、粟島の名が推定できるような島もないし、数あるよく似た砂州のなかで、特に粟島を指定して、それを見るのが羨ましいというほど、有名な島だったとも思えない。
となると、小舟は淡路島方面に向かっているのだろう。武庫の浦から淡路の岩屋まで約35キロメートル。かなりの距離だ。飛鳥から奈良まででも30キロあるかないかだろう。その間に島と呼べるものはない。岩屋の海岸沿いに大和島とかいうようなちいさい岩礁のような島があるが、背後の淡路島と重なって、とても島には見えないだろう。となれば、淡路島を粟島と呼んだとみるしかない。友が島は見えるだろうが、四国は見えない。友が島はあまりに遠くてしかも淡路と紀伊に挟まれた狭い海峡の、小さい島だから、それを遠くに見るのが羨ましいといえるほどの印象は与えないだろう。

阪口保著【萬葉地理研究】兵庫篇 白帝書房、1933.4.15 
では、縄の浦と違って、「粟(淡)島」については、ずいぶん詳しく述べている。そして「私は、粟島・淡路島同義説である」と言う。もちろん淡路島周辺を舞台にした歌の粟島である。ただし、これはやむを得ないことだが、信頼できるような文献的な証拠はない。だれがやっても同じである。万葉の歌の読解から言うしかない。阪口氏は、仁徳天皇の歌謡の「淡島 淤能碁呂島 阿遲摩佐之島… さけつ島…」の四島をすべて淡路島とされたが、私はそこまで言いきる自信はない。そこで問題になるのは、やはり阪口氏も言われた、卷四の丹比笠麻呂が筑紫へ下る時の長歌の、…淡路をすぎ 粟島を そがひに見つゝ…(五〇九)、である。この粟島をも阪口氏は淡路島とされたが、やはり無理だと思われる。

粟島は歌の解釈からして淡路島でなければならないというのは、その通りだと思うが、それにしても、別称を使うにはそれりの理由があるだろう。赤人はなぜ粟島と言ったのか。淡路島(淡路、淡路の島とも)は集中に14例あり、人麻呂、金村に一首ずつあるが、赤人は長歌で三首もある。

6-933    山部宿禰赤人作歌一首并短歌
天地の 遠きがごとく 日月の 長きがごとく おしてる 難波の宮に 我ご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 沖つ海石に 鰒玉 さはに潜き出 舟並めて 仕へ奉るし 貴し見れば

6-942    過辛荷嶋時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
あぢさはふ 妹が目離れて 敷栲の 枕もまかず 桜皮卷き 作れる船に 眞楫貫き 我が漕ぎ來れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬 辛荷の島の 島の際ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり來ぬ 漕ぎ廻むる 浦のことごと 行き隱る 島の崎々 隈も置かず 思ひぞ我が來る 旅の日長み

6-946    過敏馬浦時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし

粟島は、淡路島と思われるものは、赤人の358、丹比笠麻呂の509、作者未詳の7-1207粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり、の三首である。圧倒的に淡路島が多い。しかも三首も歌っている赤人が、わずか三首にしかない粟島の呼び方(別称だとして)を、358の武庫の浦の歌で使ったのか、全く疑問だ。

補足、神野富一、万葉の歌・人と風土6兵庫、保育社、1986.9.30
は、粟島についても詳しい。358のは、奥野健治説を支持して、友が島だという。509、1207は不明だとする。神野氏も言われていたが、友が島は60キロほど離れていて、あまりに遠すぎる。たいした根拠はないが、友が島は万葉では「妹が島」と呼ばれ、対岸の加太は「形見の浦」と呼ばれたという説もあり、どうも友が島と粟島は結びつきそうにないし、1207の粟島は明石海峡を渡ろうとしているのだから、友が島など出て来そうにない。いくらどこにでもある地名だと言っても、無条件でどれでもいいとはいかないだろう。また、神野氏の言われる赤人好みの「沖つ島」の条件にもあたらない。友が島は沖にある離れ島ではなく、和泉山脈と淡路島の山との連続の一部が切れただけの地形だ。それに武庫の浦の沖というロケーションでもない。赤人は、なぜ、長歌で三度も詠んだ淡路(島)ではなく、詠まれた回数の少ない粟島という別称を使ったのか、それを考える前に、509の問題を考えておきたい。この歌の粟島は、淡路島と一緒に詠まれており、はたして淡路島の別称なのかどうか疑わしいからだ。

●後ろにみて(訳、語注による)
語注なし(所在未詳を含む)-新編全集、新大系、多田全解、古典全集、古典大系、私注
四国の阿波国か-阿蘇全歌講義、稲岡和歌文学大系、沢瀉注釈、万葉考
波方面から見た四国-全註釈
淡路島、吉田地名辞書、講談社文庫
淡路または阿波か-釈注、古典集成
大井重二郎説(かつて淡路島の西にあり今日消滅した所在未詳の島)とその支持者-木下全注
吉田地名辞書の一説(淡路島の岩屋あたりの属島の一)とその支持者-佐佐木評釈、窪田評釈
常磐草の説(吉田地名辞書に引用されている)(加太の淡島(友が島))とその支持者-金子評釈
仙覺抄の説(讃岐屋島北にある阿波島)とその支持者-古義、略解
●粟島を過ぎつつ
吉田地名辞書の説(淡路島の岩屋あたりの属島の一)とその支持者-新考
所在不明-石井総釈巻四
●斜ニ見ナガラ
吉田地名辞書の説(淡路島の岩屋あたりの属島の一)とその支持者-全釈

大井重二郎説、「萬葉歌枕に關する疑問二三」、万葉十八号(1956年1月)
木下全注の紹介は正しくない。播磨灘の海中にあったのではなく、加古川などの河口の三角州で、土砂の堆積で消滅した砂州のどれかが万葉の粟島で、それは今日不明だと言っている。こういうのを、淡路島の西にあった島とは言えない。淀川河口の砂州と同じで、いろいろある砂州の中で、どれを粟島と判別するのはむつかしいだろうし、陸上でこそそういう島になった砂州は、土地利用上価値があるので、命名もし、記憶にも留めるだろうが、海上を航行する舟からは、特に名前まで意識には上らないだろう。それに、そういう砂州を、哥の中で、イナビツマとも言っているのだから、そこに至る前の粟島も、同じ砂州の一つなら、粟島を後にしてとは言えないだろう。そんなに大きな砂州ではない。また、大井氏は、武庫の浦から播磨灘の粟島は見えただろうといっているが、地図をみれば不可能であることは明らかだ。
結局、常磐草、吉田一説、大井などの説は歌の地理的な背景を無視したもので、到底認めがたい。となると、
四国の阿波国か-土橋古代歌謡全註釈(古事記)、阿蘇全歌講義、稲岡和歌文学大系、沢瀉注釈、万葉考
波方面から見た四国-全註釈
淡路島、講談社文庫
ということになるが、講談社文庫の説は、武庫の浦の歌(358)の場合はいいとして、509の場合は、淡路島を過ぎて、次に粟島といっているのだから、別の島であることはほぼ間違いないから認められない。それで最後に残るのは、武田、沢瀉、稲岡、阿蘇の4つである。いずれも穏健な注釈と言える。
淡路島の別称を粟島とする説から言うと、358、1207の二首がそれに該当し、509は、淡路島の別称ではない、別の粟島ということになる。それでは、明石海峡を過ぎて、イナビツマまでの間、四国の阿波はどういう角度で見えるのか、地図を見てみたい。
明石から、徳島県の瀬戸内側まで約70キロ、礼文から樺太を見たことがあったが、あれで100キロ、70キロなら当然見えるが、淡路島の海岸線の続きのようではっきりしないし、視野のわずかな部分を、わざわざ粟島と取り立てて呼ぶのも不自然だから、やはりこの場合、特徴のある地形の屋島など、やはり讃岐の東半分を含めて広く粟島と呼んだのではないか(四国の阿波方面ということだろう)。武田全註釈の説はちょっと曖昧だが、おそらくそう言う意味だろう。土橋の説も同じだが、難波から四国はほとんど見えないのに、古事記歌謡の淡島と万葉の粟島を同じとするのは不十分だ。
これは明石からすると、家島の左となる。淡路から家島を目指して航行しているのなら、左前方遥か遠くとなる。しかし、そこを通りすぎることはないし、後方でもない。
残る問題は、赤人はなぜ、普通に広く使われ、自分もまた長歌で三度使った淡路島の名称ではなく、358武庫の浦の歌を含めて二首しか使われていない、別称の粟島を使ったのかと言うことである。
赤人長歌の地名
駿河、富士、伊予、射狹庭の岡、明日香、春日の山、御笠の山、勝鹿、雑賀野、玉津島山、吉野(3)、秋津、難波、淡路(3)、野島(2)、印南野、大海の原、藤井の浦、印南嬬、辛荷の島、敏馬の浦、
反歌の地名
田子の浦、富士、熟田津、明日香河、御笠の山、勝鹿(2)、眞間(2)、若の浦、吉野(2)、象山、野島、藤江の浦、印南野、明石潟、倭、熊野、都太の細江、須磨、
短歌の地名
縄の浦、武庫の浦、粟島、阿倍の島、佐農の岡、百済野、
長歌反歌の地名と短歌の地名とで大きな差はないようだ。短歌の場合、地名を含まない歌が多く、地名そのものに関心があったとも思えない。長歌短歌の場合、よく知られた大地名を詠むことが多く、あまり知られない小地名が出て来ても違和感はない。それよりも、如何にも名所(歌枕)といった印象を与える使われ方をする。よく赤人の歌は絵画的だと言われるが、地名も洗練された美景をあらわす機能を持つようだ。短歌の場合は、武庫の浦を除けば、明瞭でないものが多い。縄の浦、百済野にしても、定説はあるが、確証があるわけではない。それよりも、ここでも、浦、島、岡、野、といった歌枕的な印象を与える使われ方をしている。淡路島は長歌で、縄の浦は短歌でという区別かと思ったが、そう言うことはないようだ。長歌の方が、確実な地名を出す傾向が強いが、それはそれだけ叙事を含むからで、短歌ではそうはいかない。
粟島を淡路島の別名で使用することが可能だったのは、やはり、古事記歌謡の、仁徳天皇の国見歌に出る「淡島」が関係するだろう。歌謡の淡島は、本文では淡路島へ国見に言ったとあるから、淡路島ではないようにも思えるが、歌謡と本文は一致しないこともあるので、歌謡の淡島を淡路島のことと見なすのに支障はないだろう。「おのごろしま」「あじまさのしま」などというのは、地理的にみて、友が島あたりと見るしかない。歌謡は万葉の歌よりも古いものだとすれば、淡路島のことを古くは淡島と言ったのだろう。そのころは、中西進氏の言うように、四国の阿波をもふくめて、一緒に淡島と言ったのかも知れない。淡路島と阿波は鳴門海峡など、徳島の地理に詳しくないと、地図のない時代、一続きの土地と思われたかも知れない。それが、行政地名が広く使われるようになって、四国の阿波が独立すると、淡路島も一つの行政国として独立し、淡島では四国の阿波と区別できないので、淡路(阿波への道)と呼んだのだろう(対馬なども、津の島だから、よく似た命名法だ)。それで、本来淡島だったのが、淡路島と呼ばれるようになったのだろう。万葉集で、淡路島を別称の粟島(淡島)で詠んだのが二首しかないというのも、ほとんど地元の人しか知らない古い地名だったからではないだろうか(粟島の場合地元の漁師とか)。赤人はそういう地方の古い習慣をよく知っていたようなのだ。それもまた歌枕の要件の一つだ。そういうあまり知られていない、あるいは古くて忘れられたような地名を詠むには、大地名なしの短歌で歌うのが適していたのだろう。