2307、そがひ8

2307、そがひ8
地図で確認、その1
雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島
離宮があった雑賀野を権現山の東方とすると、いわゆる玉津島の北端の船頭山まで、せいぜい300メートルしかない(渚からなら100メートルもあるかないかだろう)。最南の妹背山までなら直線で1200メートルあり、いくつかの島の先端部分だから、沖つ島の名に適するだろう。南東→南→南東とほぼ連続した島の連なりだが、赤人は、南端の妹背山やその手前の、鏡山、奠供山を特に沖つ島(玉津島)と言ったのではないだろうか。今、玉津島神社の裏山を奠供山と言っているが、やはりこのあたりが赤人の言う沖つ島だろう。雑賀野離宮が、権現山の南東麓なら、左前方に、船頭山、妙見山、雲蓋山がつらなり、その次の奠供山が、東南正面に見えることとなる。だから「そがひ」を、間の離れた(何かでくぎられた)その向こうととれば、赤人のこの歌には一番ふさわしい。雑賀野から海を隔てた向こうである。「ななめうしろ」といった無理な解釈をする必要はない。

日比野道男著【萬葉地理研究叢書第三編】【萬葉地理研究】紀伊篇 東都 白帝書房梓、1931.6.15 
左日鹿野から、最も目につき易く且つ南方海に向ふ爲恰度そがひに見えるのもこの奠供山である。奠供山は前述した地形變動の關係上、當時は孤島であつたと見られないこともない。從つて、奧つ島と詠まれても不自然ではないのである。この邊は西南風がよく吹くところであるから、さうした時、島に寄せる白浪のさまも面白かつたらうと思はれる。

日比野氏は奠供山を玉津島(沖つ島)とされている。ただし、当時の海岸線はもっと深く、船頭山近くまできていたものであろう。赤人の言う、玉津島(沖つ島)は、奠供山でいいと思う。

万葉のころの玉津島あたりの復元地図は、日下雅義氏のものがよく知られており、注釈書類にも引用されているが、ネットでも見られる。
和歌の浦学術調査報告書」、2010年12月17日、和歌山県教育委員会
というもので、日下氏のが何枚も引用されており、また、多くの写真、図版などもあって、有益である。それを見て(45、46、81~85頁)、前述の内容の微調整が必要となった。玉津島と呼ばれる6つの島の北端の船頭島、そして次の妙見山あたりまでは、島の周囲がほぼ陸地化して、葦などの生える湿地帯などもあったらしい。その点からも、沖つ島と呼ばれるのは、奠供山以南の3島とするべきだろう。
離宮のあったらしい雑賀野の南端ともいえる、権現山と秋葉山との間(関戸というところ)は、狭く、また、船頭山に遮られて、6つの島が離れて見えると言うことはなさそうだ。恐らく秋葉山の方によった位置から見たのだろう。そこからなら、奠供山以南ははっきり離れ島として見えよう。前述では、権現山の南東麓かとしたが、雑賀野から少し離れるし、あまりに狭い。

357 縄の浦ゆ 背向に見ゆる 奥島 漕ぎ廻る舟は 釣しすらしも
地図を見ると、相生駅から南西方向にかけて、那波東本町、那波本町、那波大浜町、那波西本町、那波南本町があって、海に出ている。海と言っても川のようである。埋め立ての影響もあるが、左右から山も迫っている。しかも湾曲しており、突崎で狭くなっている所もあるから、那波から外洋は見えないようだ。その那波の海岸から、湾口の蔓島まで直線で6キロ強、ほかに島はない。その蔓島が見えないとなると、赤人の詠んだ沖つ島(奥島)は一体どこにあるのだろう。ただし、赤人は、縄(那波のことらしい)とか縄の浜とかは言っていない。縄の浦と言っている。つまり、今の相生湾のことを、縄の浦と言ったのだろう。とすると、突崎の向い500メートルほどの鰯浜あたりに泊まって、蔓島を見たのだろう。鰯浜から蔓島まで2キロほど。雑賀野から奠供山まで1キロほどだったから、十分沖つ島と言える。2キロほどなら、釣り船の様子もよく見えるだろう。これも後の方などという変な言い方はする必要がない。前方の彼方である。

阪口保著【萬葉地理研究】兵庫篇 白帝書房、1933.4.15 
では、赤人の縄の浦については全く触れない。相生湾や蔓島は、室の浦の鳴島のところで、相生湾の更に西の坂越湾の生島ではないかと言うところで、少し出るが、相生湾の湾奥の那波には触れない。縄の浦は相生湾ではないというのだろうか、不思議なことだ。
●新編全集、湾奥の那波から湾口の蔓島が見えるように言う。多田全解、阿蘇全歌講義、和歌文学大系、釋注、西宮全注、新潮集成、古典全集、
●沢瀉注釈、上と同じだが、沖つ島は普通名詞とことわる。つまり蔓島の名を出さない。しかし相生湾(湾口も含めて)にある島は蔓島しかない。沢瀉にしては珍しく地図も出さない。普通名詞というのは、上の注釈も同じだろう。全註釈、講義
新大系、那波から沖つ島が見えるように言うが、沖つ島は不明とする。
●大系、那波から見える沖の島とするが、沖つ島の説明なし。
●全訳注、那波は相生湾の那波とするが、沖つ島は比定せず。ただし、湾の周りの高い山から岬越しに見る島とするが、そんな高い山もなく、またわざわざそんなところに登ってまで岬の向こうの海(たとえば坂越湾とか室津湾)を見ることはなかろう。
●窪田評釈、瀬戸内海を西航中、那波に寄ろうとしたときの、相生湾の海上から、近くの沖の島を振り返ったとする。沖の島の説明なし。分かったようで分からない説だ。
●私注、「つぬの浦」と読み、武庫川河口付近の角の松原あたりかとする。沖つ島を普通名詞とする。武庫川河口付近に沖つ島はなさそうだが。強引な説だ。
●全釋、縄の浦を難波の浦とする。沖つ島説明なし。
●吉澤總釋、縄の浦不明とする。沖つ島は普通名詞とし、具体的にどことも説明せず。
●佐佐木評釈、縄の浦不明とする。沖つ島説明なし。
●折口萬葉集辞典、縄の浦、攝津國武庫郡万葉集註疏、
●井上新考、真淵、久老の綱の浦説の紹介のみ。
万葉集註疏以前は省略。地図を再度確認すると、那波の手前でかなり湾曲しており、那波の一番東から見ても、山に遮られて蔓島は見えない。湾が広がる相生(四)の南部の岬を南に回ったあたりからなら、あちこちの大きな埋め立て地が邪魔だが、古代にあるわけがないから、辛うじて見えるだろう。やはり湾口が狭まるあたりの突崎の向いの鰯浜あたりが最適だろう。なお蔓島は諸注「かつら島」と読んでいるが、地図には「かずら島」とある。どちらが正しいのか知らない。窪田の説は、視点が移動しているので、後ろか前かはっきりしないし、那波の近くまで来たのか、まだ湾口近くなのかも分からない。漠然とした説としか言いようがない。とにかく、どの注も、那波からはどう考えても蔓島は見えないことを無視している。また、瀬戸内海を航行している船が、湾の最奧の那波まで泊まりに行くことも考えられない。それぐらいなら、すぐ東隣の室津湾で泊まるだろう。何かの都合で、室津まで行けなくて、蔓島の見える相生湾の入口あたりで泊まったのだろう。相生は行きにくい所で、私も行ったことがないが、現地調査をせずとも、地図を見れば分かることである。
追記、神野富一、万葉の歌・人と風土6兵庫、保育社、1986.9.30
はさすがに地元の人だけに、縄の浦も詳しく調査している。今の那波の町では無理だが、那波の南東の相生も昔は、那波と言われていて、そこからは見えると言って、写真を載せている。海峡のような岬と岬の間にぽっかりと小さい島が写っている。これはまさしく私が地図の上で推定したのと同じである。そこから蔓島までは直線で6キロあり、かなりの距離である。神野氏の写真でも、海峡のような岬よりも霞んで写っている。沖つ島としては申し分ないが、古代の小さい漁船がはっきり見えるだろうか。まして釣りをしているところまでは無理だろう。想像だから見えなくてもいいのだと言えばその通りだが。とにかく、前述の私の結論を変える必要はない。