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東歌の枕詞に関する一考察、品田悦一、【稲岡耕二先生還暦記念】日本上代文学論集、352頁、上代文学研究会編、1990年4月12日
これは先に見た、1、1986年7月、と、2、2003年1月、の間にあって、1の4年後のもので、1よりもはるかに長く、また内容も大きく拡張されているが、「枕詞に関する一考察」といった控え目な題のために誤解を招く。内容が多岐に亘り、また枕詞に関する細かい統計的な処理もあって、かなり理解しにくいものであり、紹介も楽ではない。ということで引用してみよう。
○大久保氏の東歌研究は「万葉集東歌の性格」(以下「性格」と略記)にその到達点を示しています。そこでは「東歌のもつ性格を統一的・全体的に把捉するための方法」を確立すべく「東歌を民謡と規定することと、民謡的性格を指摘することとは方法的に厳に区別して考察される必要があ」ることが確認されるとともに、津田左右吉武田祐吉両氏以来の非「民謡」説を正面から受け止めることによって、「東歌を民謡と規定する」従来の実体的把握が厳しく斥けられたのでした。その一方で、「万葉集の短歌全体の中においた場合に、東歌が際立った特色をもっている」事実については、これを「民謡性」として理解すべきことが改めて主張され、さらに「東歌の根幹となる性格を民謡性と規定しようとする場合に、それと対立する性格として浮かびあがってくる問題点」が一〇項目にわたって吟味されたのです。
この大久保氏の著書は私も出版された頃に読んだが、昔のことで大方忘れた。ただし、品田氏は徹底した調査と哲学的な思考とが組み合わされ、大久保氏よりも理解しにくいとはいえる。それはともかく。民謡と民謡性の区別を主張した大久保氏の説は私の言っている前提と同じで共感できるが、品田氏はそれを更に精細に追及し、大久保氏の言う民謡性にはまだ実体的な把握の残滓があって、不十分だという(枕詞の調査で証明)のだから精密だ。

 1 中央文化の東国への波及
 2 中央における東歌伝承過程での磨滅
 3 中央人の作歌そのものの混入

ということで、この大久保氏の出した(東歌の民謡性を否定すると思えるもの三箇条、大久保氏以前からある通説でもある)について詳しく批判し、基本的に大久保氏のいうのは、東歌の民謡性(言うまでもなく民謡そのものではない)を認めるということだと、規定する。

〇「民謡」性に関する判断が排他性をもち得るには、これと裏返しに、「民謡」以外の<うた>の領域もしかるべく確定されている必要がありましょう。この点に関する氏の議論はどのようなものだったのでしょうか。そこには、「民謡」ならざる歌とは貴族の抒情詩であり、それは個人の体験を一回的にうたうものであるとする認識が、自明なことがらとして前提されていたように見受けられます。が、これは正当な論法だったのでしょうか。
 端的には、近時注目されつつあるように、貴族階級の<うた>の世界にも「官人の集団歌謡的な歌」とか「座興的抒情」とか呼ばれる独自の領域が存在したはずなのに、大久保氏の見取り図においては、それが予め射程外に置かれていた仕儀なのです。こうした<うた>の領域を考慮に入れるならば、ⅰⅱⅲが「民謡」性の指標たり得ないことは明らかだと言うべきでしょう。

これだけでは分かりにくいと思うが、大久保氏の「民謡性」という認識の脆弱さを指摘しているのは分かる。

〇「民謡」性に関する主観的固執を度外視して読み換えるとき、氏説の基本線は、東歌を在地の創作歌と規定する土橋氏の所説に対し、ほとんど紙一重と言ってよい位置にまで接近してくるのです。

〇原東歌には、私たちが現東歌に見ることの出来るような枕詞はほとんど含まれていなかったと考えざるを得ないのであり、またこの場合、原東歌と現東歌との落差を、大久保氏の考えていた以上にはるかに拡張して理解すべき仕儀となる点に、改めて注意しておかなければなりません。東歌の枕詞はあくまでも定型短歌としての次元において東歌の表現に参与しているのであって、現東歌の前身として「民謡」的歌謡の層を認める仮説に立つとしても、波及の論理をそのような歌謡の層の次元で一貫させることには無理があるのです。
 大久保氏の流儀に加担し難いことが確認された以上、問題は土橋説の枠組みにそくして再検討されて然るべきでしょう。原東歌自体が在地の定型短歌として成立したと仮定すれば、右に述べたような、枕詞をめぐる現東歌との落差という難点についても、少なくとも定型性に関してはこれを解消し得る仕儀です。

〇それらC類の枕詞において、被枕の部分にはいわゆる「東国方言」的要素が散見するにもかかわらず、枕の部分にはそうした要素が皆無である点も、これらが在地の詞章や歌謡に育てられたものでないことを証言していると言えましょう。

〇当面の論脈においては波及原理が大前提をなしているのでした。東歌の成立は、さしあたり、東国人による短歌定型の摂取と、その枠内における独自性の追求として理解されている仕儀です。ここで銘記しておくべきなのは、くだんの独自性があくまでも中央貴族の歌々に対する相対的独自性にほかならないこと、言い換えれば、「東ぶり」と呼ばれるものが都雅に対する鄙俗、ないし洗練に対する粗野以上のものを意味せず、したがってまた、中央文化との相関を抜きにして語り得るような、真に自立的・個性的な地方自身の文化を表現してもいないという点でしょう。在地性は過大に評価されてはならないのです。

〇波及原理を前提として出発する限りにおいては土橋氏の枠組みを最終的に廃棄し得ないものの、定型短歌としての東歌の特色を東国の文化的伝統に根ざすとすることは出来ないし、またそれを東国人の主体性・創造性の所産として評価することも、少なくとも枕詞に関しては極めて困難だと言わなければなりません。

〇東歌の成立を準備したこの時代の交通が、地方社会の活力ではなく、中央の側の要求を主たる動因として展開した事情が示唆されていないでしょうか。「東ぶり」自体、中央の要求に従って創出されたとの見方がここに成り立ち得るのです。
 東歌の集団性とは、この観点においては、「民謡」性とも在地性とも懸け離れた、貴族文学の一側面としての集団性であったことになりましょう。ただしこのように述べるためには、東歌を取り巻いていた集団の構成員に関説する必要がありましょうし、またこの場合、特に在地首長層の位置づけを明確にしておかなければなりません。
 これまで私たちは、波及原理を作業仮説とした場合に措定される東歌形成主体につき、論脈の要請からこれを「在地の住民」「東国人」とあえて暖味にしてきたのでした。が、これを在地首長層ないし豪族層と限定するとともに、彼らによる中央文化の摂取と消化とを想定するならば、東歌を地方社会の文化的達成とする見解にも一定の根拠が加えられる仕儀です。東歌の生い立った環境については、中央と地方との交通の結節点が考えられて然るべく、具体的には各国の国府や郡家・駅家がそれに当たるものと推定されますし、そこで催された酒宴などの座に、赴任官人らにまじつて郡司等の在地の有力者が参与したと考えることも十分に可能でしょう。

〇ここで強調しておきたいのは、彼ら首長層の参与の仕方が、基本的には中央貴族の文化への同化を意味していたこと、彼らは郡司等として国家機構の末端に連なる資格においてそこに参与したのであり、そうした政治的諸関係を抜きにして単なる文化的進取性を発揮したわけではなかったということです。

〇定型短歌の交通は汎列島的な拡がりをもったと考えられますが、それはあくまでも律令的交通制度に付随して生じた事態にほかならなかったし、したがって、古代国家を領導した貴族階級の文学の、新たな多彩的展開の一環以上のものをも意味しなかったのです。

これほど大量の引用になってちょっと情けない気もするが、私の力としては、これで精一杯だ。枕詞の理解に関する具体的な論証の部分などおおかた引用できていないし、できそうもない。最後の方の文学史的な位置などというのは、さすがに「万葉集の発明」を書かれただけあって壮大なものだが、なかなかこれだけで(枕詞の分析だけで)、実際の東歌が十分に理解できるかというと、なかなかそうはいかないだろう。現に、新大系万葉集の東歌の注を見ても、民謡だと断定しているのがいくらもある。
私は、万葉集に、歌謡(民謡を含む)そのものなどないと思うが、品田氏の論を読むと、力強い。定型和歌(一部不整形を含む)と歌謡はしょせん別のものだと思うのだ。久米常民氏の論はやはり認めがたい。なお品田氏の東歌論は未見のものがまだ複数残っている。すぐに読めるかどうかは分からない。