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久米氏などによると巻14東歌などは最も歌謡(民謡)である可能性の高いものだが、これも都の歌人の手の入ったものとする説は久米氏などよりかなり以前から武田祐吉などの説があり、その後も民謡などといったものではないということがいろいろと証明されてきている。そのなかで最新のものといえば品田氏のものだろうから以下の二つを読んだ。2は1の17年後のものであり、1の内容を大方含んでいるから、2だけ読んでもよい。
1、萬葉集巻十四の原資料について、品田悦一、「萬葉」124号(1986年7月)
2、万葉集東歌の原表記、品田悦一、日本文学研究大成 万葉集Ⅱ 曽倉岑編 国書刊行会 309㌻ 2003.1.31
1は、書式や東歌・防人歌の方言のあり方などから、そもそも最初の採録時点で東歌は民謡の実態を失っていること(方言が正確に記録されていないし、だいいち技術的に不可能)。一字一音式ばかりでなく、正訓字を含んだのもあること。それが集成された時点でも、なお雑多なものであったこと。万葉集に収録される時点で一字一音式への書き換えがあったが、なお雑多なテキストの集まりであることの痕跡があること。などが論じられているが、こまかい文字の使い分けの統計的な処理など、そう言う作業をし、理解するだけの素養がない私には、十分な理解はできない。このまとめも不十分なものだろう。
2も、ほぼ同じような内容だが、17年後ということや、分量の多さ、などから、議論が拡大されている。これもまとめにくいから、結論的な部分を引用しておこう。
○かつて「民謡」と呼び慣らわされていたが、研究史の進展はかかる実体的把握の修正ないし否定を一般化させ、その結果、少なくとも万葉集に現に見る東歌自身を「民謡」と見なすことの不当性は、すでに共通の了解のもとにあるとしてよい。
○われわれは東歌を在地の歌謡が中央人の聞き書きによって採録されたものと見なすことから出発する。この作業仮説は本稿の一貫して依拠するところであるが、それは語彙レヴェルの議論ゆえの限界にほかならない。
○東歌もまた万葉集に定着した時点では「純然たる貴族文学の文献」にほかならない。複雑な過程を経て定着し、文字上の貴族的スタイルに捉えられた歌々においては、東国訛りにしたところで「趣味的なもの」であった可能性は否めず、現地における言語的事実の素朴な反映とは見なし難い。
○遠藤論文の主張した「飜転」の問題、すなわち中央人である採録者が「何か不審の言葉があった際にそれを京言葉に飜転する可能性のある事…
○東歌においては常に語義が語形に優先させられていると見ることも出来る。この相違は、東歌の語彙がいったん正訓字で表記されて、「方言」的要素を濾過された結果ではないか、と仮定してみると、うまく説明できるように思われる。
○筆録されることを通して幾重にも在地性を剥奪され、そのようにされることによって初めて東歌は「貴族たちの文化財」たり得たのである。
こうしてみてくると、万葉集の中でも一番歌謡性が高いと思われていた東歌にしても、歌謡としての属性を大方失っているもので、他の巻の和歌と同じような鑑賞や理解をするべきだと言うことになる。土屋文明などは、巻11、12当たりの歌をなんでもかんでも民謡だと言って、低い評価を与えているが、民謡らしさを意図した和歌作品だと見ていいのではないか。だから、初期万葉や、巻13の長歌群にしても、歌謡であることを強調する必要はないだろう。