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3-366    角鹿津乘船時笠朝臣金村作歌一首
越海之 角鹿乃濱從 大舟爾 眞梶貫下 勇魚取 海路爾出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦爾 海未通女 塩燒炎 草枕 客之有者 獨爲而 見知師無美 綿津海乃 手二卷四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎
367    反歌
越海乃 手結之浦矣 客爲而 見者乏見 日本思櫃
参考、阿蘇氏の訳。
   敦賀の港で船に乗る時に、笠朝臣金村が作った歌一首 短歌を含む
 越の海の敦賀の浜から、大船の両舷に櫓をさし通して、鯨を捕る海、その海道に出て、息をきらしつつ漕いで行くと、ますらをが手に結う、手結いではないが、手結いの浦で、海人おとめたちの塩を焼く煙が見えるが、旅先なので、その心惹かれる光景も、一人では見る甲斐もなく、海の神が手に巻いておられる玉ではないが、玉だすきをかけるように、心にかけてなつかしく思ったことだよ。故郷、大和の国を。
    反歌
 越の海の、手結いの浦を旅先で見ると、心惹かれるにつけても、大和がなつかしく思われたよ。
題詞と歌の中身とがずれている。乗船時の歌ではなく、航海中の歌だ。漢文で、そこまで細かく表現することができなかったのだろうか。
独りで見るのはつまらない光景というが、今われわれの言う風景美とは違う。今なら、アルプスの山岳美とか大峡谷と瀑布とか海岸の絶壁や洞窟といった地学的なものを想像するが、ここでは、海女の乙女が塩を焼いていて、その煙が立ちのぼる風景で、自然そのものではない。大和平野の農業しかしらない作者にとって、製塩業やそれに従事する女性の光景が面白かったということだろうが、どうしても女性を登場させないと気が済まない金村らしい。このあたり赤人とは違う。
観光気分というか、ご当地情報のような内容でもある。越、敦賀という地名を出して北陸らしい雰囲気を漂わし、大船、「いさなとり」という枕詞、喘ぎつつ漕ぐ、といった表現で、普通では経験できない、けた外れの旅を思わせる(ジェット機の離陸のような、クルージングのような気分)。そしてその海上旅行で、最も知られた所が、手結が浦だったのだろう。大きな煙が上がって、いかにも人が多く賑やかな感じだ。何度か触れたように、そこには若い女性がいなくてはならない(虚構でも構わない)。
立ちのぼる煙から、自然に心は空の彼方の大和へと向かう。塩焼きの乙女から、家郷の女性へ。手結我浦、手二卷四而有 珠手次、といった手の連想も滑らかだ。「たすき」は手に関係ないが、表記に「手」を使った。塩焼く乙女から、海神の持つ玉、そして襷という、やや賑やかすぎる、女性関係の連想もある。
そして思いやった「やまと」は「日本」という、最新の表記だ。漢文にも詳しい金村らしい、斬新な望郷歌だが、苦しい旅での望郷という雰囲気はない。それとなく大和を思ったというだけで、望郷もまた観光気分の一部なのだろう。大和へ帰りたいというのではなく、一緒に来られて、一緒に見られたら、もっといいのに、というので、あくまでも心は、現地の手結が浦の前の海上にある。
反歌の方。
海沿いを船で旅すると、確かに「浦」(入江)というのは心引かれる。特にそれがこじんまりとしていて、樹木で覆われていたりすると、池か沼のようで美しい。たとえば、和歌山の下津の大崎。今でも十分美しい。まして万葉のころはどれほど素晴らしかったか。石上乙麻呂流罪の歌にある通りだ。ここでも、手結の浦は、敦賀湾の東岸で、一番おだやかな美しい入江だったのだろう。ここで海女乙女が消え、手結が浦が手結の浦と言い換えられて、長歌の紀行的な叙事的な固有名詞的な「手結が浦」が、普通名詞的になり、「手結」よりも「浦」に重点が移った。そのおだやかな入江の風景の感じを出すためには、「が」よりも「の」が効果的だったわけだ。ということでここでの望郷は、女性よりも大和の田園風景が想起されたと言える。こちらは海岸だが、塩焼きの人達が住む落ちついた漁村の心引かれる風景が、大和の美しい田園風景を思わせるものがあったのだろう。やはりここでも、手結の浦に重点があるだろう。大和はそれの引き立て役だったと思われる。大和に似た美景だから心引かれたのだろう。大和中心の評価感覚だが、それは当時としては仕方がない。
今は埋め立てで変わっているようだが、敦賀の市街地を出て、近くの赤崎あたりが田結で、かなり北に離れた杉津の入り江と同程度の、湾入である。