2211~2217

2211、
そろそろ結論を出さなければ。長歌では、大船で敦賀湾に漕ぎ出し、手結が浦で海女乙女の塩焼きといういかにも旅の風景らしい(大和人にとって)ものを見て、はるか山の彼方の大和の妻を思い出し、一緒に見られたらいいのに、といったもので、叙事的な(歌物語的、伊勢物語的な)運びで、こういう場合は、指し示す範囲が狭い「が」がよく、それで「手結が浦」といった。反歌では、細かい叙事的なものは言わず、敦賀湾の沖合の、手結の浦一体の大きな風景を言ったので、「が」よりも「の」の方が広がりがあって、落ちついた和歌らしいものになった。
万葉の頃は、地名といっても、今のような固有名詞的なものは少なく、特に海岸や海などは小さく区切った地名などはほとんどないから、「~の埼」「~の浦」「~の海」「~の島」などというのは、~の部分がはっきりしていればいいので、「の」と普通名詞的に言っても、限定した「が」のように固有名詞的に言っても、どちらでもよかったようだ。金村の場合、長歌では「手結が浦」反歌では「手結の浦」と使い分けたのだろう。長歌では散文的に、反歌では普通の和歌的に。
2212、
万葉史の論 笠金村 梶川信行 桜楓社 1987.10、所収「越路の望郷歌群」を読んだ。長い文章で読むだけで時間が消えた。作歌の事情や歌の解釈などを丁寧に跡づけておられるが、手結の浦は、どちらも「が」と読んでいる。だいたい原文の引用もない(書き下しだけ)。歌の主旨を読み取り、人麻呂との題材の共通点や相違点などを概略的に読み取ろうとしている。「我」「之」などの表記の違いを完全に捨象している。
2213、
犬養孝「笠金村」萬葉集歌人研究叢書7(1943年) 2004年4月25日発行、株式会社クレス出版
では、長歌反歌共に「手結の浦」、『万葉の旅・下』では反歌だけ出して「手結が浦」。「の」と読むのが多かった時は「の」で読み、「が」で読むのが増えてくると「が」で読んだのだろう。これも梶川氏と同じで引用文は全部書き下し。表記への関心が薄い。
2214、2215、2216
金村の長歌反歌(短歌)
2-230、志貴親王の夜の葬送。高圓山。
短歌231、高圓之野邊、萩の花、死後の周辺。
232、御笠山野邊、道の荒廃。
或本歌二首はほぼ同じ。234で、御笠山が、三笠山になっている程度。
 
3-366、越海之 角鹿乃濱 手結我浦 日本嶋根。海未通女の塩焼きの煙を契機とする望郷。
反歌367、越海乃 手結之浦 日本思櫃。浦の風景を契機に望郷。

4-543、軽路 畝火 木道 真土山。紀伊行幸に行った夫への歌の代作。
反歌544、木國 妹背山。追いかけて紀伊国内に行った時の想像。  
545、木之關守。同上。

4-546、三香乃原 行幸で娘子を得た夜の喜び。 
反歌548、女にほれた。
549、夜よ長かれ。  反歌はほぼ長歌の繰り返し。

6-907、御舟乃山 三芳野 蜻蛉乃宮 離宮讃歌。
反歌908、三吉野 滝の白波賞讃。 芳→吉、と表記がえ。特に意味はないようだ。
909、滝の河内は見飽きない。

6-920、芳野河 離宮讃歌。
反歌921、三芳野 滝の河内の離宮は見飽きない。
922、三吉野 人も吾も滝の岩のように永遠に。  最後に芳を吉にしたが。

6+928、難波乃國 長柄之宮 味経乃原 難波の田舎が都になった。地名三つは多い。
反歌929、大王が来れば都だ。
930、海未通女が漕ぎ出したようだ。 大王のお供をしても考えるのは女のこと。

6-935、名寸隅 淡路嶋 松帆乃浦 印南野行幸で、海峡の向こうに海未通女がいるという噂で会いに行こうとするが船がない。 
反歌936、船がほしい。
937、名寸隅 船瀬の白波は見飽きない。

8-1453、難波方 三津埼 入唐使に贈る歌。早く帰ってこい。
反歌1454、兒嶋(普通名詞か) 分かれたら心配だ。
1455、心配するより、あなたの船の楫になりたい。

9-1785、地名無し あなたが王命で地方を治めにいったら、留守の私は恋しい。
反歌1786、三越路 雪の山を越える時は私を思い出して下さい。

9-1787、日本國 石上 振 王命で振にいるが、冬の夜眠りもせずあなたを思う。
反歌1788、振山 寝もしないで都を思う。遠くもないのに。
1789、妹に直接逢うまでは紐を解かない。

長歌と短歌で詠む内容がかなり違うというようなのは、最初の志貴親王挽歌以外にはない。地名も、長歌反歌で目立つほど変わるのもない。芳野→吉野になったぐらい。それも反歌二つのもう一方は長歌と同じ芳野。手結の浦の長反歌で、大和を日本と書いていたが、最後の金村歌集でも、日本と書いているのがやや目立つ。

2217、
犬養孝「地名表現より見たる笠金村」(初出「明日香」1941.7~10)、『万葉の風土』所収(1956.7.3)
かなりの長篇だが、特に感心させられる程ではない。「「名寸隅の船瀬」及び「淡路島松帆の浦」は景観の相互映発により、風景・心情の展開を最も鮮かならしめ、全構成における主観燃焼の基として生かされたものと言ふべきであらう。」といった調子だ。何でも漢語で言えば高級というわけではない。所で、当然「手結が浦」の長歌反歌も論じられているが、歌の評釈は、この淡路島の歌とほぼ同じ。なお、「手結が浦」は反歌では「手結の浦」となっている(書き下し文のみ)。この「が」「の」の違いについては黙殺されている。また長歌では「大和島根」だったのが、反歌で「大和」になっていることも黙殺。「大和」が「日本」と表記されるのも黙殺。反歌は地名の表現的な意義が乏しく、長歌の主旨を簡単にくり返しただけで、赤人には遠く及ばないとする。長反が別の観点から詠まれているとしたら、地名表現のわずかな違いにも意義があるのではないだろうか。