2120~2123  

2120,
崇峻紀云、蘇我馬子宿禰壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1、
これを見てちょっと変に思ったのは、名2~1、というときの名を「名づく」と読むことだ。動詞だからこれいがいの読み方はないだろうが、真神の原という名前である、なのか、真神の原と名付けた、なのかはっきりしない。たいがいの注釈は前者に取っているようだが、後者にとって、法興寺を造ったから、そこを真神の原と名付けたとはとれないものか。
時代別国語大辞典上代編、なづく、名をつける、称する。
岩波古語辞典、なづけ、名をつけて呼ぶ。
そう言う名前である(名を~といふ)、というよりも、なにか事情があってそういう名前をつけて呼ぶ、という意味だろう。

2121、真神の原はちょっと中断。宣言が解除されて図書館が開くという噂がある。ただし私の所のは6月1日まで休館の表示が出たまま(14日19時10分現在)。
次の予定は、~が原、の三つ目つまり最後の、於保屋我波良(3378)(二つは、藤井が原と和射見が原)。
仙覚抄、イリマチトハ、入間《イルマ》也。他別になし。
管見、特になし。
拾穂抄、愚案大屋か原名寄に武蔵云々
代精・代初、精、伊波爲都良は水に生る物と聞ゆれば大屋河原にや、初、言及なし。
童蒙抄、代精と同じ。
万葉考、入間郡大家郷有、大家(於保也介、)とあれど、古はもし於保也といひし歟
略解、入間郡大家(於保也介)と有る是れならん
古義、○於保屋我波良は、大家之原なるべし、和名抄に、武藏…とある地ならむ、高田與清が擁書漫筆に、…、おほや河原は此所ならむ、と云り、同書に、…と云り、これは我波良を、河原と見たるよりの説なり、いかにまれ、我波良は之原にて、河原にはあらざるなり、
2122、新考、オホヤガハラは古義にいへる如く大屋之原なり。河原にあらず。
折口辞典、入間郡大屋郷にある原。
全釈、川越より東南二里を距つる地に大井村があり、其處であらうと大日本地名辭書は記してゐる。
折口総釈、入間郡大家【…】とある。これらしく思はれるが、多少疑問がある。
全註釈、大日本地名辭書に、川越市の東南二里の大井村だろうという。
窪田評釈、最近になって明らかにされた。それは「読売新聞」埼玉版(昭和二四・七・二七)において、埼玉県飯能町の郷土研究家で代議士でもある細田栄蔵氏らの研究発表によってである。「大家が原」は、現在入間郡越生町字大谷だというのである。
佐佐木評釈、川越より東南の大井村がこれであるといふ(大日本地名辭書)。
私注、入間郡大家郷であろう。
大系、入間郡大家於保也介
注釈、地名辞書の引用。
全集、埼玉県入間郡越生町大谷の地の原かという。『和名抄』…によって、同郡大井町に求める説もある。
集成、埼玉県入間郡越生町大谷あたりか。
全訳注、川越市の東南。
全注、埼玉県入間郡越生町大谷。他説もある。
新全集、埼玉県入間郡越生町大谷か。地名辞書も紹介。
釈注、埼玉県入間郡越生町大谷か(代匠記)。 代匠記にそんな話はかけらもない。
和歌大系、埼玉県入間郡越生町大谷か
新大系入間郡大家於保也介か。
阿蘇全歌講義、各説あげたあと、桜井氏の、日高市内の大谷沢・下大谷沢の可能性が濃い、という説を紹介『万葉集の風土』
多田全解、埼玉県入間郡越生町大谷付近。
だいたい三つぐらいの説で循環しているようで、その間によく分からない地元の人の説も入る。具体的に地図でも出さないと、関西人には埼玉県など分かるはずがない。それにしても、なぜ「~が原」なのかについては一言もない。最後の多田全解が、よみは「大屋が原」なのに、訳で「大屋の原」となっているのが目を引く程度。もちろん根拠の説明は何もない。
2123、万葉集で3例しかない「~が原」の最後が、武蔵の国の東歌であったことは、やはり古言は地方に残るということだろう。
次は、やはり気になる山の「~が~」を見てみよう。
吉志美我高嶺(385)、飛火賀※[山+鬼](をか)(1047)、由槻我高(1087)、青根我峯(1120)、弓月高(1088)、弓月我高(1816)。
「ゆつきがたけ」(磯城郡)の3例が目立つ、あと吉野2例、生駒山系1例。よみ添えが1088にあるが、他の例を見ても、「が」であることは間違いない。だいたい、池上氏も言っていたが、「~がたけ」を「~のたけ」というのは滅多にないようなのだが、それでも探せばある。丹沢塔の岳。