2117~2119

2117、
守屋、馬子、法興寺などをネット検索して、書紀敏達紀を読み出す。
敏達13年条から、蘇我馬子の崇仏記事が出る。14年2月馬子の病気記事で、佛神(ほとけ)という語が出る。その頭注、高僧伝、康僧会伝にも仏神の語が見える。仏の意。欽明紀13年の蘇我稲目の崇仏に対して物部尾興らが蕃神(あたしくにのかみ)(仏のこと)を祭るべきでない、とした記事を参照せよとある。そこの頭注、仏が日本在来の神とそれほど異質のものとして受けとられなかったことを示すとある。
2118、
敏達紀の最終部分で、守屋と馬子の間険悪。用明2年4月、守屋等、他神(あたしかみ)を祭るなと天皇に言う。馬子実力行使。崇峻即位前記7月、馬子、河内澁河の守屋の本拠を襲い、殺す。馬子飛鳥に法興寺を建てる。崇峻元年馬子飛鳥の真神の原に法興寺を造る。推古紀にわたってしばしば法興寺建築進行の記事が出る。推古4年11月法興寺建て終わる。
2119、
推古34年5月、馬子死す。桃原墓に葬る。以上で止める。舒明紀以降は読まない。あの石舞台のあたりのような狭いところでも「桃原」なのだから、法興寺一帯を真神の原というのもおかしくはない。