2309、そがひ10

2309、そがひ10
460    七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首并短歌
栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り來まして 大君の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ來まして 敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隱りましぬれ 言はむすべ 爲むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや
次は春日野。行程としては、理願の住んでいた佐保の山辺の家(左注によれば、大納言大将軍大伴卿の家に寄住)→朝、佐保川を渡り→春日野をそがひに見つつ→山辺をさして→夕闇とともに隠れた、となるが、佐保の山辺といっても、そのどこかは分からず、墓地の山辺がどことも分からず、したがってそこへの道筋もはっきりしない。佐保川を朝に渡ったと言っても、どのあたりで渡ったとも分からない。有間山への報告としてはそれで充分だったのだろう。つまりどこを通ってどの墓地に葬ったか理解された。
地図で道筋をたどると、佐保の山辺というのは、だいたい興福院から不退寺にかけて、つまり法蓮町の山手だから、奈良高校とか教育大附中のあたりだろう。そこからだと南東へ一直線とすると、育英高校と関西線の間あたりで佐保川を渡り、芝辻町に出る。それからしばらく、船橋通り(もとの近鉄油阪駅の駅前通)のすぐ西の断崖の下を通るだろう。油阪駅前はもう登大路の先端である。そこからは京終あたりまでほぼ真っ直ぐにいくだろう。そして、古市町、鹿野園町、藤原町あたりに葬ったのではないだろうか。鹿野園町まで、直線で4.5キロ。実際に歩くのはそれより多く7キロほどか。佐保を朝出て夕方に着くというのには短いが、葬送などというのはゆっくり行くものであり、おおかた人力の当時は時間がかかるだろうから、その程度でも午後遅くにはなっただろう。短かすぎるのならもっと南下してもよいが、天理市までは行かないだろう。だいたい初めのうちは春日野を正面に見る。京終あたりから左斜め前方になり、古市町、鹿野園町あたりでは、完全に背後になる。春日野をそがひに見ながら、山辺に向かって、というのだから、京終あたりまで、山辺への道を春日野を見ながらたどったというのであり、そこからは、話題は山辺の墓地に夕闇と共に隠れたというところへ飛ぶ。これなら、春日野を前方(だんだんと左前方)遠くに見ながら、やがて後ろにしたとなる。身崎氏は、当時の貴族達がよく行楽に行った(おそらく理願も)春日野を見捨てて墓地に向かったのを、「そがひに見つつ」の意味だとされたが、見捨てるという未練たらしい煩悩というより、ただ単に、楽しく遊んだ思い出の春日野を見て、永遠に眠る墓地に向かった、と、散文的に言っただけだろう。
追記、佐保の家を出てからの道筋は、小野寛氏の前掲論文にしたがった。

2308、そがひ9

2308、そがひ9
次は、同じ兵庫県内の
武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ羨しき小舟(3-358)
一連の赤人の歌の二首目、357の縄の浦の歌の次である。これは二三四五の四句が、みな明解を得ず(結局全部分からないのと同じ)、やっかいな歌で、それにかかわっていては日が暮れる。ここでは「そがひ」に絞って、地図を点検しよう。
古典全集の訳を見ると、「武庫の浦を 漕ぎまわっている小舟 粟島を後ろに見ながら漕いでいる 心が引かれる小舟」とあり、頭注に「武庫の浦」はない。付録の地名一覧にもないが、「武庫」はあって、「…尼崎市から西宮市にかけての海岸地方を広くさす。」とある。「浦」を、岩波古語辞典で見ると、「…湾曲して陸地に入り込んだ所。」とある。確かに、和歌の浦、縄の浦は、湾入していた。しかし、武庫の浦は、古典全集の「大阪付近古地理図」では、武庫川の三角州の突端あたりに記入されていて、浦らしい地形ではない。東の方は猪名野の海岸部で、武庫郡ではない。芦屋にかけての、角松原、武庫泊と記入されたあたりが、かろうじて浦と言えば言える。大阪湾一帯は淀川の河口付近の多くの砂州を除けば海岸線が単調で(古代は特に、大きな埋め立て地がないからよけい単調)、武庫川河口右岸一体程度の凹みでも「浦」と言えるのだろう。猪名の浦、敏馬の浦、真野の浦、松帆の浦、などもほとんど湾入とも言えない、わずかな凹みである。近畿以外でも同じようなものだ。南部の浦、田子の浦など。
新編全集では、「… 粟島を かなたに見ながら漕いでいる…」と、全く違う訳になっているが、357の語注では、「ソガヒは背後、ソ(背)+カヒ(方向)の意。」としており、それでいて、「かなたに見える 沖の島を」と訳している。神経を疑う訳だ。あるいは、「背後のかなたに見える」とでもいうのだろうか。理屈は省くが、とにかく、「後ろに見る」といったアクロバチックな身体の動きを表現していると見るのは到底無理だろう。
ということで、この小舟の進行方向に粟島があり、船を漕いでいる人もそれを体の前方に見ている。それを、赤人が見てうらやましがっている。恐らく赤人は小舟の進行方向とは逆なのだろう。赤人らは、粟島を後ろにして離れていっているのだろう。小舟と同じ方向なら、どちらも粟島を見ているのだから、うらやましがる必要はない。
武庫の浦から東に向かうのなら、難波方面となるが、そっちに島らしい島はない。淀川河口の砂州はかなり多かったようだが、島と見なせる程のものはないだろう。つまりある程度しっかり陸化して樹木が生える程のものはやや奥に入ったところだから、武庫の浦からは見えないだろうし、知られたものがいくらかあるなかに、粟島の名が推定できるような島もないし、数あるよく似た砂州のなかで、特に粟島を指定して、それを見るのが羨ましいというほど、有名な島だったとも思えない。
となると、小舟は淡路島方面に向かっているのだろう。武庫の浦から淡路の岩屋まで約35キロメートル。かなりの距離だ。飛鳥から奈良まででも30キロあるかないかだろう。その間に島と呼べるものはない。岩屋の海岸沿いに大和島とかいうようなちいさい岩礁のような島があるが、背後の淡路島と重なって、とても島には見えないだろう。となれば、淡路島を粟島と呼んだとみるしかない。友が島は見えるだろうが、四国は見えない。友が島はあまりに遠くてしかも淡路と紀伊に挟まれた狭い海峡の、小さい島だから、それを遠くに見るのが羨ましいといえるほどの印象は与えないだろう。

阪口保著【萬葉地理研究】兵庫篇 白帝書房、1933.4.15 
では、縄の浦と違って、「粟(淡)島」については、ずいぶん詳しく述べている。そして「私は、粟島・淡路島同義説である」と言う。もちろん淡路島周辺を舞台にした歌の粟島である。ただし、これはやむを得ないことだが、信頼できるような文献的な証拠はない。だれがやっても同じである。万葉の歌の読解から言うしかない。阪口氏は、仁徳天皇の歌謡の「淡島 淤能碁呂島 阿遲摩佐之島… さけつ島…」の四島をすべて淡路島とされたが、私はそこまで言いきる自信はない。そこで問題になるのは、やはり阪口氏も言われた、卷四の丹比笠麻呂が筑紫へ下る時の長歌の、…淡路をすぎ 粟島を そがひに見つゝ…(五〇九)、である。この粟島をも阪口氏は淡路島とされたが、やはり無理だと思われる。

粟島は歌の解釈からして淡路島でなければならないというのは、その通りだと思うが、それにしても、別称を使うにはそれりの理由があるだろう。赤人はなぜ粟島と言ったのか。淡路島(淡路、淡路の島とも)は集中に14例あり、人麻呂、金村に一首ずつあるが、赤人は長歌で三首もある。

6-933    山部宿禰赤人作歌一首并短歌
天地の 遠きがごとく 日月の 長きがごとく おしてる 難波の宮に 我ご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 沖つ海石に 鰒玉 さはに潜き出 舟並めて 仕へ奉るし 貴し見れば

6-942    過辛荷嶋時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
あぢさはふ 妹が目離れて 敷栲の 枕もまかず 桜皮卷き 作れる船に 眞楫貫き 我が漕ぎ來れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬 辛荷の島の 島の際ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり來ぬ 漕ぎ廻むる 浦のことごと 行き隱る 島の崎々 隈も置かず 思ひぞ我が來る 旅の日長み

6-946    過敏馬浦時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし

粟島は、淡路島と思われるものは、赤人の358、丹比笠麻呂の509、作者未詳の7-1207粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり、の三首である。圧倒的に淡路島が多い。しかも三首も歌っている赤人が、わずか三首にしかない粟島の呼び方(別称だとして)を、358の武庫の浦の歌で使ったのか、全く疑問だ。

補足、神野富一、万葉の歌・人と風土6兵庫、保育社、1986.9.30
は、粟島についても詳しい。358のは、奥野健治説を支持して、友が島だという。509、1207は不明だとする。神野氏も言われていたが、友が島は60キロほど離れていて、あまりに遠すぎる。たいした根拠はないが、友が島は万葉では「妹が島」と呼ばれ、対岸の加太は「形見の浦」と呼ばれたという説もあり、どうも友が島と粟島は結びつきそうにないし、1207の粟島は明石海峡を渡ろうとしているのだから、友が島など出て来そうにない。いくらどこにでもある地名だと言っても、無条件でどれでもいいとはいかないだろう。また、神野氏の言われる赤人好みの「沖つ島」の条件にもあたらない。友が島は沖にある離れ島ではなく、和泉山脈と淡路島の山との連続の一部が切れただけの地形だ。それに武庫の浦の沖というロケーションでもない。赤人は、なぜ、長歌で三度も詠んだ淡路(島)ではなく、詠まれた回数の少ない粟島という別称を使ったのか、それを考える前に、509の問題を考えておきたい。この歌の粟島は、淡路島と一緒に詠まれており、はたして淡路島の別称なのかどうか疑わしいからだ。

●後ろにみて(訳、語注による)
語注なし(所在未詳を含む)-新編全集、新大系、多田全解、古典全集、古典大系、私注
四国の阿波国か-阿蘇全歌講義、稲岡和歌文学大系、沢瀉注釈、万葉考
波方面から見た四国-全註釈
淡路島、吉田地名辞書、講談社文庫
淡路または阿波か-釈注、古典集成
大井重二郎説(かつて淡路島の西にあり今日消滅した所在未詳の島)とその支持者-木下全注
吉田地名辞書の一説(淡路島の岩屋あたりの属島の一)とその支持者-佐佐木評釈、窪田評釈
常磐草の説(吉田地名辞書に引用されている)(加太の淡島(友が島))とその支持者-金子評釈
仙覺抄の説(讃岐屋島北にある阿波島)とその支持者-古義、略解
●粟島を過ぎつつ
吉田地名辞書の説(淡路島の岩屋あたりの属島の一)とその支持者-新考
所在不明-石井総釈巻四
●斜ニ見ナガラ
吉田地名辞書の説(淡路島の岩屋あたりの属島の一)とその支持者-全釈

大井重二郎説、「萬葉歌枕に關する疑問二三」、万葉十八号(1956年1月)
木下全注の紹介は正しくない。播磨灘の海中にあったのではなく、加古川などの河口の三角州で、土砂の堆積で消滅した砂州のどれかが万葉の粟島で、それは今日不明だと言っている。こういうのを、淡路島の西にあった島とは言えない。淀川河口の砂州と同じで、いろいろある砂州の中で、どれを粟島と判別するのはむつかしいだろうし、陸上でこそそういう島になった砂州は、土地利用上価値があるので、命名もし、記憶にも留めるだろうが、海上を航行する舟からは、特に名前まで意識には上らないだろう。それに、そういう砂州を、哥の中で、イナビツマとも言っているのだから、そこに至る前の粟島も、同じ砂州の一つなら、粟島を後にしてとは言えないだろう。そんなに大きな砂州ではない。また、大井氏は、武庫の浦から播磨灘の粟島は見えただろうといっているが、地図をみれば不可能であることは明らかだ。
結局、常磐草、吉田一説、大井などの説は歌の地理的な背景を無視したもので、到底認めがたい。となると、
四国の阿波国か-土橋古代歌謡全註釈(古事記)、阿蘇全歌講義、稲岡和歌文学大系、沢瀉注釈、万葉考
波方面から見た四国-全註釈
淡路島、講談社文庫
ということになるが、講談社文庫の説は、武庫の浦の歌(358)の場合はいいとして、509の場合は、淡路島を過ぎて、次に粟島といっているのだから、別の島であることはほぼ間違いないから認められない。それで最後に残るのは、武田、沢瀉、稲岡、阿蘇の4つである。いずれも穏健な注釈と言える。
淡路島の別称を粟島とする説から言うと、358、1207の二首がそれに該当し、509は、淡路島の別称ではない、別の粟島ということになる。それでは、明石海峡を過ぎて、イナビツマまでの間、四国の阿波はどういう角度で見えるのか、地図を見てみたい。
明石から、徳島県の瀬戸内側まで約70キロ、礼文から樺太を見たことがあったが、あれで100キロ、70キロなら当然見えるが、淡路島の海岸線の続きのようではっきりしないし、視野のわずかな部分を、わざわざ粟島と取り立てて呼ぶのも不自然だから、やはりこの場合、特徴のある地形の屋島など、やはり讃岐の東半分を含めて広く粟島と呼んだのではないか(四国の阿波方面ということだろう)。武田全註釈の説はちょっと曖昧だが、おそらくそう言う意味だろう。土橋の説も同じだが、難波から四国はほとんど見えないのに、古事記歌謡の淡島と万葉の粟島を同じとするのは不十分だ。
これは明石からすると、家島の左となる。淡路から家島を目指して航行しているのなら、左前方遥か遠くとなる。しかし、そこを通りすぎることはないし、後方でもない。
残る問題は、赤人はなぜ、普通に広く使われ、自分もまた長歌で三度使った淡路島の名称ではなく、358武庫の浦の歌を含めて二首しか使われていない、別称の粟島を使ったのかと言うことである。
赤人長歌の地名
駿河、富士、伊予、射狹庭の岡、明日香、春日の山、御笠の山、勝鹿、雑賀野、玉津島山、吉野(3)、秋津、難波、淡路(3)、野島(2)、印南野、大海の原、藤井の浦、印南嬬、辛荷の島、敏馬の浦、
反歌の地名
田子の浦、富士、熟田津、明日香河、御笠の山、勝鹿(2)、眞間(2)、若の浦、吉野(2)、象山、野島、藤江の浦、印南野、明石潟、倭、熊野、都太の細江、須磨、
短歌の地名
縄の浦、武庫の浦、粟島、阿倍の島、佐農の岡、百済野、
長歌反歌の地名と短歌の地名とで大きな差はないようだ。短歌の場合、地名を含まない歌が多く、地名そのものに関心があったとも思えない。長歌短歌の場合、よく知られた大地名を詠むことが多く、あまり知られない小地名が出て来ても違和感はない。それよりも、如何にも名所(歌枕)といった印象を与える使われ方をする。よく赤人の歌は絵画的だと言われるが、地名も洗練された美景をあらわす機能を持つようだ。短歌の場合は、武庫の浦を除けば、明瞭でないものが多い。縄の浦、百済野にしても、定説はあるが、確証があるわけではない。それよりも、ここでも、浦、島、岡、野、といった歌枕的な印象を与える使われ方をしている。淡路島は長歌で、縄の浦は短歌でという区別かと思ったが、そう言うことはないようだ。長歌の方が、確実な地名を出す傾向が強いが、それはそれだけ叙事を含むからで、短歌ではそうはいかない。
粟島を淡路島の別名で使用することが可能だったのは、やはり、古事記歌謡の、仁徳天皇の国見歌に出る「淡島」が関係するだろう。歌謡の淡島は、本文では淡路島へ国見に言ったとあるから、淡路島ではないようにも思えるが、歌謡と本文は一致しないこともあるので、歌謡の淡島を淡路島のことと見なすのに支障はないだろう。「おのごろしま」「あじまさのしま」などというのは、地理的にみて、友が島あたりと見るしかない。歌謡は万葉の歌よりも古いものだとすれば、淡路島のことを古くは淡島と言ったのだろう。そのころは、中西進氏の言うように、四国の阿波をもふくめて、一緒に淡島と言ったのかも知れない。淡路島と阿波は鳴門海峡など、徳島の地理に詳しくないと、地図のない時代、一続きの土地と思われたかも知れない。それが、行政地名が広く使われるようになって、四国の阿波が独立すると、淡路島も一つの行政国として独立し、淡島では四国の阿波と区別できないので、淡路(阿波への道)と呼んだのだろう(対馬なども、津の島だから、よく似た命名法だ)。それで、本来淡島だったのが、淡路島と呼ばれるようになったのだろう。万葉集で、淡路島を別称の粟島(淡島)で詠んだのが二首しかないというのも、ほとんど地元の人しか知らない古い地名だったからではないだろうか(粟島の場合地元の漁師とか)。赤人はそういう地方の古い習慣をよく知っていたようなのだ。それもまた歌枕の要件の一つだ。そういうあまり知られていない、あるいは古くて忘れられたような地名を詠むには、大地名なしの短歌で歌うのが適していたのだろう。

2307、そがひ8

2307、そがひ8
地図で確認、その1
雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島
離宮があった雑賀野を権現山の東方とすると、いわゆる玉津島の北端の船頭山まで、せいぜい300メートルしかない(渚からなら100メートルもあるかないかだろう)。最南の妹背山までなら直線で1200メートルあり、いくつかの島の先端部分だから、沖つ島の名に適するだろう。南東→南→南東とほぼ連続した島の連なりだが、赤人は、南端の妹背山やその手前の、鏡山、奠供山を特に沖つ島(玉津島)と言ったのではないだろうか。今、玉津島神社の裏山を奠供山と言っているが、やはりこのあたりが赤人の言う沖つ島だろう。雑賀野離宮が、権現山の南東麓なら、左前方に、船頭山、妙見山、雲蓋山がつらなり、その次の奠供山が、東南正面に見えることとなる。だから「そがひ」を、間の離れた(何かでくぎられた)その向こうととれば、赤人のこの歌には一番ふさわしい。雑賀野から海を隔てた向こうである。「ななめうしろ」といった無理な解釈をする必要はない。

日比野道男著【萬葉地理研究叢書第三編】【萬葉地理研究】紀伊篇 東都 白帝書房梓、1931.6.15 
左日鹿野から、最も目につき易く且つ南方海に向ふ爲恰度そがひに見えるのもこの奠供山である。奠供山は前述した地形變動の關係上、當時は孤島であつたと見られないこともない。從つて、奧つ島と詠まれても不自然ではないのである。この邊は西南風がよく吹くところであるから、さうした時、島に寄せる白浪のさまも面白かつたらうと思はれる。

日比野氏は奠供山を玉津島(沖つ島)とされている。ただし、当時の海岸線はもっと深く、船頭山近くまできていたものであろう。赤人の言う、玉津島(沖つ島)は、奠供山でいいと思う。

万葉のころの玉津島あたりの復元地図は、日下雅義氏のものがよく知られており、注釈書類にも引用されているが、ネットでも見られる。
和歌の浦学術調査報告書」、2010年12月17日、和歌山県教育委員会
というもので、日下氏のが何枚も引用されており、また、多くの写真、図版などもあって、有益である。それを見て(45、46、81~85頁)、前述の内容の微調整が必要となった。玉津島と呼ばれる6つの島の北端の船頭島、そして次の妙見山あたりまでは、島の周囲がほぼ陸地化して、葦などの生える湿地帯などもあったらしい。その点からも、沖つ島と呼ばれるのは、奠供山以南の3島とするべきだろう。
離宮のあったらしい雑賀野の南端ともいえる、権現山と秋葉山との間(関戸というところ)は、狭く、また、船頭山に遮られて、6つの島が離れて見えると言うことはなさそうだ。恐らく秋葉山の方によった位置から見たのだろう。そこからなら、奠供山以南ははっきり離れ島として見えよう。前述では、権現山の南東麓かとしたが、雑賀野から少し離れるし、あまりに狭い。

357 縄の浦ゆ 背向に見ゆる 奥島 漕ぎ廻る舟は 釣しすらしも
地図を見ると、相生駅から南西方向にかけて、那波東本町、那波本町、那波大浜町、那波西本町、那波南本町があって、海に出ている。海と言っても川のようである。埋め立ての影響もあるが、左右から山も迫っている。しかも湾曲しており、突崎で狭くなっている所もあるから、那波から外洋は見えないようだ。その那波の海岸から、湾口の蔓島まで直線で6キロ強、ほかに島はない。その蔓島が見えないとなると、赤人の詠んだ沖つ島(奥島)は一体どこにあるのだろう。ただし、赤人は、縄(那波のことらしい)とか縄の浜とかは言っていない。縄の浦と言っている。つまり、今の相生湾のことを、縄の浦と言ったのだろう。とすると、突崎の向い500メートルほどの鰯浜あたりに泊まって、蔓島を見たのだろう。鰯浜から蔓島まで2キロほど。雑賀野から奠供山まで1キロほどだったから、十分沖つ島と言える。2キロほどなら、釣り船の様子もよく見えるだろう。これも後の方などという変な言い方はする必要がない。前方の彼方である。

阪口保著【萬葉地理研究】兵庫篇 白帝書房、1933.4.15 
では、赤人の縄の浦については全く触れない。相生湾や蔓島は、室の浦の鳴島のところで、相生湾の更に西の坂越湾の生島ではないかと言うところで、少し出るが、相生湾の湾奥の那波には触れない。縄の浦は相生湾ではないというのだろうか、不思議なことだ。
●新編全集、湾奥の那波から湾口の蔓島が見えるように言う。多田全解、阿蘇全歌講義、和歌文学大系、釋注、西宮全注、新潮集成、古典全集、
●沢瀉注釈、上と同じだが、沖つ島は普通名詞とことわる。つまり蔓島の名を出さない。しかし相生湾(湾口も含めて)にある島は蔓島しかない。沢瀉にしては珍しく地図も出さない。普通名詞というのは、上の注釈も同じだろう。全註釈、講義
新大系、那波から沖つ島が見えるように言うが、沖つ島は不明とする。
●大系、那波から見える沖の島とするが、沖つ島の説明なし。
●全訳注、那波は相生湾の那波とするが、沖つ島は比定せず。ただし、湾の周りの高い山から岬越しに見る島とするが、そんな高い山もなく、またわざわざそんなところに登ってまで岬の向こうの海(たとえば坂越湾とか室津湾)を見ることはなかろう。
●窪田評釈、瀬戸内海を西航中、那波に寄ろうとしたときの、相生湾の海上から、近くの沖の島を振り返ったとする。沖の島の説明なし。分かったようで分からない説だ。
●私注、「つぬの浦」と読み、武庫川河口付近の角の松原あたりかとする。沖つ島を普通名詞とする。武庫川河口付近に沖つ島はなさそうだが。強引な説だ。
●全釋、縄の浦を難波の浦とする。沖つ島説明なし。
●吉澤總釋、縄の浦不明とする。沖つ島は普通名詞とし、具体的にどことも説明せず。
●佐佐木評釈、縄の浦不明とする。沖つ島説明なし。
●折口萬葉集辞典、縄の浦、攝津國武庫郡万葉集註疏、
●井上新考、真淵、久老の綱の浦説の紹介のみ。
万葉集註疏以前は省略。地図を再度確認すると、那波の手前でかなり湾曲しており、那波の一番東から見ても、山に遮られて蔓島は見えない。湾が広がる相生(四)の南部の岬を南に回ったあたりからなら、あちこちの大きな埋め立て地が邪魔だが、古代にあるわけがないから、辛うじて見えるだろう。やはり湾口が狭まるあたりの突崎の向いの鰯浜あたりが最適だろう。なお蔓島は諸注「かつら島」と読んでいるが、地図には「かずら島」とある。どちらが正しいのか知らない。窪田の説は、視点が移動しているので、後ろか前かはっきりしないし、那波の近くまで来たのか、まだ湾口近くなのかも分からない。漠然とした説としか言いようがない。とにかく、どの注も、那波からはどう考えても蔓島は見えないことを無視している。また、瀬戸内海を航行している船が、湾の最奧の那波まで泊まりに行くことも考えられない。それぐらいなら、すぐ東隣の室津湾で泊まるだろう。何かの都合で、室津まで行けなくて、蔓島の見える相生湾の入口あたりで泊まったのだろう。相生は行きにくい所で、私も行ったことがないが、現地調査をせずとも、地図を見れば分かることである。
追記、神野富一、万葉の歌・人と風土6兵庫、保育社、1986.9.30
はさすがに地元の人だけに、縄の浦も詳しく調査している。今の那波の町では無理だが、那波の南東の相生も昔は、那波と言われていて、そこからは見えると言って、写真を載せている。海峡のような岬と岬の間にぽっかりと小さい島が写っている。これはまさしく私が地図の上で推定したのと同じである。そこから蔓島までは直線で6キロあり、かなりの距離である。神野氏の写真でも、海峡のような岬よりも霞んで写っている。沖つ島としては申し分ないが、古代の小さい漁船がはっきり見えるだろうか。まして釣りをしているところまでは無理だろう。想像だから見えなくてもいいのだと言えばその通りだが。とにかく、前述の私の結論を変える必要はない。

東京、長野、近畿の人口

2021年10月
東京都、1402,8589人、9283人減。
長野県、202,0372人、840人減、世帯数は21減。
大阪府、881,2117人、3259人減、世帯数は305減
兵庫県、543,6742人、2979人減、世帯数は956減
京都府、256,3192人、1936人減、世帯数866減。
滋賀県、140,9157人、308人減、世帯数は237減
奈良県、131,3847人、598人減。世帯数は88増。増えたのは、葛城1、斑鳩38、田原本14、広陵27、黒瀧1、上北山2、の6。
和歌山県、91,4199人、567人減。世帯数166減。増えたのは、岩出7、かつらぎ1、有田川21、日高5、印南16、上富田2、の6。
和歌山市(35,4877)-奈良市(35,1561)=3316
人口世帯数ともに減少が目立つが、なぜか奈良県だけが世帯数増加。東京があと数か月で再び1300万人台になりそうだ。奈良県は、田原本広陵斑鳩の線で増加が烈しい。自動車道や大型小売店もこのあたりで増えている。いいかげんにしてほしいものだ。

2306、そがひ7

2306、そがひ7
補注、「「葦垣の思ひ亂れて」」、賀古明、万葉第27号、1958.4
山菅の場合、禾本科植物の例として、穂先が乱れる、その姿を比喩に取ったものとする説を紹介している(論文の結論は、枕詞「葦垣の」等を恋情発想の表現契機語とみる)。つまり、葉は「そがひに」(背中合わせに)生えているのではなく、四方八方乱れて生えているのである(最大限譲歩して、芽生えの時の葉が二本の時でも背中合わせではなく、向かい合わせだ)。これが万葉人の観察であり、今もそう観察される。
訂正。そがひに寝る、の視点は男性といったが、1412は女性。3577が男性である。

折口口訳の訳。歌は年代順の配列、以下同じ。
509 背に見つつ  淡路を通り、粟島をば、向うに見やりながら、段々やつて行くうちに、
358 背に見つつ 粟島をば向うに眺め乍ら、好い景色を恣に眺めてゐる羨しい小舟よ。
357 背向に見ゆる 繩の浦から見ると、向うの方に見える、沖の方の島を
917 背匕に見ゆる 雜賀野から向うの方に見える沖の島よ。
460 背向に見つつ 佐保川を朝越えて行つて、春日野を後に見ながら、山の方を向いて
1412 背向に寝しく 背中合せに寢て
3577 曽我比に寝しく 背中合せに寢て居たことが
3391 曽我比に見ゆる 筑波山からは向うに見える
4003 曽我比に見ゆる 此越中の國府から、後に見える所の神樣の
4011 曽我比に見つつ 大黒は、三島野をば後に見乍ら、二上山をは飛び越えて
4207 曽我比に見ゆる 茲からみれば反對に、向うに見えるあなたの屋敷内の谷間
4472 曽我比に見つつ   意宇(ノ)浦を後に見い/\して、都へ上つて行く。
私注の訳。
509 背に見つつ  淡路をすぎて、粟島を後に見ながら
358 背に見つつ 粟島を後に見なしつつ漕ぎ廻る數少くさびしげなる小舟よ。
357 背向に見ゆる つぬの浦から出て、後に見える沖の島を
917 背匕に見ゆる 雜賀野から、後の方に見える沖の島の。
460 背向に見つつ 佐保川を朝川の中に渡り、春日野を後に見て、山べを指して
1412 背向に寝しく 背な合せに寢たのが
3577 曽我比に寝しく 後向に寢たことが
3391 曽我比に見ゆる 筑波山に對して、後方に離れて見える
4003 曽我比に見ゆる 遙かに見えるところの、神さながらに
4011 曽我比に見つつ 三島野を横に見て、二上の山を飛び越えて
4207 曽我比に見ゆる 此所で向ふ側に見える、吾が君の垣のめぐりの谷に
4472 曽我比に見つつ   おほの浦を後に見て、都へ上る。
新編古典全集の訳。
509 背に見つつ  淡路島を通過し 粟島を 後ろに眺めながら
358 背に見つつ 粟島を かなたに見ながら漕いでいる 羨ましい小船。
357 背向に見ゆる 縄の浦から かなたに見える 沖の島を
917 背匕に見ゆる  雑賀野の離宮から かなたに見える 沖の島の
460 背向に見つつ  佐保川を 朝渡り 春日野を かなたに見ながら 山辺をさして 1412 背向に寝しく 背な合せに寢たのが
3577 曽我比に寝しく 背中を向けて寝たことが 今では残念だ
3391 曽我比に見ゆる  筑波嶺から 後ろに見える 
4003 曽我比に見ゆる   朝日が差し 後ろに見える霊山 神さながらに
4011 曽我比に見つつ   三島野を 後ろに見い見い 二上の 山を飛び越えて 
4207 曽我比に見ゆる ここからは 後ろに見える 君の館の 屋敷の谷に
4472 曽我比に見つつ 大の浦を 遥かかなたに見ながら 都へ上ります
補足、357の語注で、「ソガヒは背後、ソ(背)+カヒ(方向)の意。」とし、以下所々の「そがひ」の語注は皆同じ。
論文だけをみていると、やはり、後ろにみる、と言った解釈が優勢かと思ったが、訳に歌人的な特徴のある、折口、土屋、そして、現在の代表的な注釈書の訳を並べてみると、なんともてんでんばらばらで帰する所を知らないと言った状態だ。何十とある注釈書を全部見るわけにはいかないので、この3者だけでも眺めておきたい。
まず、「向こうに」、「かなたに」、「遥かかなたに」と言った訳は、山崎、西宮説だけかと思ったが、古く折口から新編まで、そう言う訳が混じっている。ということは、山崎説なども特に新説とも言えないようだ。説明が新説なんだろう。さらにみていくと、折口は、初めから「向こうに(の)」が続き、春日野の歌で「後ろに」となり、「そがひに寝る」のあと、葦穂山が「向こう」立山、三島野、大の浦が「後ろ」になる。4207は除く。春日野、葦穂山、立山が後ろになるのはよく分からないし、三島野、大の浦も説明が必要だろう。それより、静止した視点、動く視点という、身崎説のような観点でみても、「向こう」と「後ろ」の訳の違いには結びつかない。
土屋は、「後ろに」「後の方に」「後方に」が最初から続き、「寝る」でも3577は「後向に」するなど、一貫するかと思いきや、立山は「遥かに」、三島野は「横に」となり、4207は「向かふ側に」となり、大の浦で、再び「後ろに」となる。なぜ全部「後ろに」等としなかったのか。やはり一つの訳で押し通すと、歌の解釈に無理が出ると思うのだろう。
新編は、始め「後ろに」と出たが、あと「かなたに」が四連発。「寝る」を越えて、「後ろ」が四連発、そして最後の大の浦で「遥かかなたに」となる。前半「かなたに」で後半「後ろに」かとも思えるが、なぜか最初は「後ろに」で最後は「かなたに」では、使い分けの基準らしいものもあやふやだ。やはりこれも歌の解釈に合わせて、語義を恣意的に変えているとしか思えない。なのに、語義は「後ろに」だという。「後ろに」という語義のものが、なぜ「かなたに」で訳せるのか、疑問だ。しょせん「後ろにみる」という無理な解釈をするから訳がばらばらになる。山崎説などのいうように「後ろにみる」という理解を捨て、すべての用例を「かなた」とか「遥か向こう」というような語義で解釈してみるべきなのだ。

2305、そがひ6

2305、そがひ6
万葉和歌の浦改訂版、村瀬憲夫、求龍堂、1993,10
 第三章 和歌の浦・玉津島の歌
これは廣岡氏のより数か月遅いだけで、ほとんど同じ時期の出版である。そこでは、廣岡氏の言うような、雑賀野主語説や、その讃歌性は一言も触れておられず完全に無視した形である(村瀬氏は文中で、過去のいろんな説については、小野氏、廣岡氏の文を見よと言っておられるから、廣岡説は確実に読んでおられる)。そして、犬養説をさかんに引用し、玉の緒のように連なる玉津島に神性を見るところに讃歌性があると言われる。そういえば、人麻呂には、釧付く、玉垂の、といった枕詞があり、玉が連なるような土地への讃歌表現と思われるものがある。赤人はそれを知っていたのだろうか。そして「そがひに」についても、

村:「そがひ」は、万葉の原文では「背」の字が多く用いられていることからしても、…、「後方、背後」という意味が最もふさわしい…。それなのに何故こうまで諸説が入り乱れることになるかと言いますと、「背後」の意としますと、常宮の背後に玉津島山をとらえることになり、讃えるべき玉津島山が後向きでは、暗いイメージになる、すなわち讃歌の表現としてふさわしくない、というところにあるようです。
 私もそのように考えて、最近まで「前後、向かったり背にしたりする」という説に賛成でした。実際、常宮(離宮)の置かれたと推定される辺りから、玉津鳥山を望みますと、いくつかの小山(万葉時代は島であった)が前後に重なり合いながら並んで見えるのです。実景からしてもこの説を支持していたのです。…。
 ところがごく最近は、「後方、背後」説がやっばりよいのではと考えるようになってきました。と言いますのは、常宮から後ろを大きく振り返ってみるととる方が、この歌全体を貰く躍動感を一層助長させることになると思うからです。この歌にも、柿本人麻呂の安騎野の歌、
  東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ    (①四八)
と同様の、大きな動きとスケールとが詠み込まれていると思うのです。犬養孝先生は「鶴鳴き渡る―赤人の自然美の造型―」(『萬葉の風土〔続]』)で、「頓宮のある雑賀野から一転して景観の焦点となる沖つ島の玉津島、その清い渚へと動的展開的に微細化されて表出される」と述べていらっしやいます。大きく振り返って「沖つ島」をとらえるという大きな叙景から、その島の清らかな渚を歌うという微細な叙景へと展開するのです。このようにこの「そがひに」は、規格にはまった讃歌性を超えた、躍動感・叙景性をこの歌に与えていると言えます。

と言われる。長い引用になったが、氏が犬養説に大きく寄りかかっておられるのが分かる。しかし「そがひに見ゆる」に、「後ろを大きく振り返ってみると」という意味があるだろうか。この「に」は場所を示す格助詞だろうから、振り返る動作は必要なく、初めから「そがひ」を見ていて、そこに見える玉津島山ということだろう。確かに雑賀野に仕え奉る赤人達だが、必ず常宮に向かっていなければならないこともない。そこで奉仕していればよいのであって、別に、常宮を背にして南方の和歌浦湾の美景を見ていても構わないだろう。だから背後に見えるという負のイメージを抱くこともない。君臣和楽、天皇が美景を見る時、一段下または左右に並んで、臣下たちも天皇と同じく前方をみるのでよい。わざわざ臣下だけが、首をねじ曲げて後ろを見るほうがかえって不自然だ(ちょっと横向きになるぐらいはあるだろう)。そんなことでは美景の全体をじっくり見ることが出来ない。だから、「そがひに」は、「後ろに」とかではなく、「はるか彼方に」という山崎説が一番説得力があるのである。

山部宿祢赤人が歌六首(巻3・三五七~三六三)について、坂本信幸、萬葉語文研究第4集、2008.12.10
坂本氏については、廣岡氏なども引用していた、「赤人の玉津島従駕歌について」(『大谷女子大学紀要』1980.12)が相当に早い時期のもので、山崎、小野両氏の次になる。ただし私は未見である。
赤人は「そがひ」の用例が多く、玉津島以外に、この瀬戸内の一連の羈旅歌にも2例あり、坂本氏もこの一連の歌では「そがひ」が重要だと言って、最初に取り上げて居られる。ただし、論の主題は、一連の歌の、構造だとは言っておられる。
氏が引用された諸説は、山崎氏、小野氏、吉井氏の3氏で、2008年時点なら、ほかにもいろいろ出ているはずだが、言及されない。廣岡氏のも西宮氏のも紹介されない。
そして、

坂:「ムキ+アフ」が「ムカフ(向かふ)」になるごとく、「ソガヒ」の語源は「ソキ+アヒ(離き+合ひ)」の約と考え、赤人の表現には漢籍の立体的俯瞰的な位置把握の表現の間接的な影響があるものと考えている。

という旧稿の説を出されるのだが、これが、どのように、諸説の批判になるのか、また、「ソキ+アヒ(離き+合ひ)」→ソガヒ、と言うのは、具体的にどういう意味なのか、それが、なぜ「漢籍の立体的俯瞰的な位置把握の表現の間接的な影響がある」といえるのか、説明がないので、旧稿を見ることの出来ないものには理解が困難である(漢籍云々とあるのなら、吉井説で言及されると思うが、全く出てこなかった)。玉津島の島々が離れあっているというのは、どういうことなのか、それを立体的俯瞰的に見るためには、ドローンなどが必要だが、赤人は、どこから見たのか(当然雑賀野からの筈だが)。また赤人以外の他の用例にも、そういう「そがひ」の意味が適用されるのか、疑わしい。何にしても、この3行足らずの説明では、ほとんど何も言っていないに等しいのだが、坂本氏は、一連の赤人の羈旅歌にとって「そがひ」は重要だという。この3行のあとも、例によって厖大な作品の引用があるのだが、それらは「そがひ」の語義とは関係がなく、用例の前後とかの、一連の歌の構造の説明になっている。「そがひ」が重要だというなら、3行ですまさず、もうちょっと、旧稿の説を詳しく言うべきだったと思う。

赤人の景・序説――玉津島行幸従駕歌の景観叙述をめぐって――、身崎壽萬葉集研究第二十五集、2001.10.20
これは前述の坂本論文より7年も前だが、「そがひ」の主な論文はほぼ出尽くしていたので、それの集大成的なところがあるが、前述坂本論文と同様「そがひ」専論ではないからやはり徹底しない。それにしても長大な論文で、読み切るだけでも時間がかかり疲れる。しかも印象の薄い回りくどい文章だから余計だ。とにかく、結論は、宮廷寿歌の赤人的な変容(聖武時代の影響下ということもある)とか、時間の相のもとに再構成された独自の自然と、空間は、現実の天皇による支配を示すとか、語り手と天皇との視点の共有とか言ったことだが、それは私の関心事ではないし、紹介するとなるとなかなかやっかいなので、「そがひ」を論じているところだけの紹介にする。

身:語義に関してもかまびすしい論議のあることは周知のとおりだ。諸説は大別して、①「後方」などの意にとるものと②これを否定するものとにわかれる。②の説の代表的なものとしては、…山崎良幸…小野寛、…吉井巌…とする説などがある。のちにものべるように、基本的な意味としては①でよいとおもわれるのだが、ただ、それを、単に方向・位置のみの問題としてみてはならないとおもう。

単に方向・位置のみの問題としてはならない、というのは全く同感で、朝日は立山剣岳の間のどこから昇り、角度何度で立山を照らすとか、筑波山と葦穂山とが並んでみえるのはどこだとか、数字を並べたり、写真を出して現地調査を詳しく報告したりしただけの論文に大した意味はない(だから全く紹介されない)。作品の表現意図にどのようにかかわるか、赤人の場合、有名歌人の中では特に使用例が多いのだが、それは赤人にとって何を意味するのか、といったことが重要であり、私もその観点から考え直してみようとした。ただし、身崎氏の場合、地理的な考証を無視するあまり、実際の地理からして納得しにくいような、解釈があり、しかもそれの説明がほとんどないから(地理的な論考の無視につながる)、赤人歌の景観表現の分析にも恣意的な印象がつきまとう。作者の表現意図も重要だが、それを支える、語義や具体的な地理をおろそかにしたら、結論そのものの信憑性もゆらぐ。いくら作者が人為的に構成した景観とか自然であっても、玉津島なら玉津島の具体的な地理を無視したものは出来ない。玉津島は大きく変わったけれども、まだイメージは復元できる。
なお、ここの紹介だけでなく、「そがひ」の章全文にわたって、西宮氏の論文は今までの論者達と同様言及されない。②の説の難点だった「向」の語義が、この論文で正しく突き止められたのだから、それを無視して、「①でよいとおもわれる」などとは言えないだろう。

身:…「そがひに見ゆる」「そがひに見つつ」および「そがひに寝しく」の三タイプにわかれる。…この三タイプの間には、語義の面で微妙な相違があるようだ。…渡部和雄…、溝上貴信…にならって、タイプごとに語義をつきとめる必要があるだろう。そのことが逆に、「そがひ」の原義をあきらかにすることになるし、

タイプごとの語義の違いと、①の後方の意味でよいと言う考え方とをつなぐ説明がない(あとを読んでも)。後方という理解から、3つのタイプの意味は出てこないと思える(後を読んでも)。

身:A「そがひに見ゆる」
…ここでは、甲乙の単なる位置関係よりも、つねにこういったかたちで言及されていることの方を重視すべきだろう。…。つまり、このタイプは甲乙ふたつの場所がむかいあっている、対峙している、というところに力点をおいた表現なのだ。…「対峙」する…坂本信幸「赤人の玉津島従駕歌について」がある…。
…、『集成』の訳
  雑賀野に向き合って見える沖の島
などがただしい認識をしめしているといってよい。
…。それは、甲が乙に対置されるにふさわしい、ある卓越性・重要性をおびた土地だからなのではないか。もっともそれは、単にそこが「語り手」のいるところ、叙述の視点の所在地だから、かもしれない。だが、それ以上の意味をになっているばあいもあるはずだ。当該歌のばあいはまさにそうだとおもわれる。

甲からみて「そがひに」見える乙というなら、①でよいとする観点からなら、甲の後方に見えるとなるずだが、そういう地理考証は無意味だとして、「対峙している」という意味なのだという。これは吉井説と似ているが、身崎氏は吉井説を②に分類していたから、①とする主張とは一致しない。それともこのタイプは②で理解すべきだというのだろうか。それにしても対峙ということは向かい合っているのであって、背きあっているのではないから、吉井説とも厳密には一致しない。後ろに向くのでもなく、離れていくのでもない、まったく「そがひ」の語義に合わないのだが、その「そがひ」の語義については何も説明がない。最後の甲の位置の卓越性・重要性というのも、そう言う場合もあるはずだ、では説得性がない。「はず」などという推測の論理では、論証として不十分で、地理考証を批判する程の有効性はないと言えよう。なお、坂本氏の対峙の説はどういうことなのだろうか、その後の氏の論文で要約された内容とは違うのだが、もとの論文を見ていないので詳細は不明である。

身:B 「そがひに見つつ」
 …。甲をそがひに見つつ(乙へ)
というかたちにまとめられるだろう。…ここで暗示されているのはやはり土地甲の卓越性・重要性だということになる。かんがえてみると、「そがひに見」るというのは相互的なものだから、この逆転は不自然なものではない。
 たとえば四〇一一で、…三島野はむろん鷹がはなたれた地で、そこにもどってくるべきなのに、それをしりめにとびさってしまった、といっているのだし、四四七二で「於保の浦をそがひに見つつ」というのは、任地にこころをのこしながらも官命によってやむなく上京した、というニュアンスなのだろう。つまり、このタイプも、甲乙ふたつの土地の、まうしろだとかななめよこだとかいった位置関係(はあるにせよ、それ)自体が問題なのではなくて、ある期待ないし関心に反して、どこそこをあとにして(あるいはよこめに、しりめにみつつ)別の土地にむかう、という、おおげさにいえば心理的な葛藤を反映したものなのだ。そのことは、なにかと論議が集中し、それゆえに「そがひ」の語義の究明におおきな影響をあたえている四六〇のばあいにもあてはまる。…なにゆえ「春日野をそがひに見つつ」というふうに春日の地に言及するのか、ということなのに、先行研究は位置関係にのみ関心をうばわれてこのことを等閑視している。それは、春日の地が、平城京郊外の、京人の歓楽の地で、いわば生の世界の象徴だからにほかならない。だからこそ、死者理願はそれにせをむけて、とうたっているのだ。
 この意味で、「そがひに見つつ」には「かへり見」するという表現(参照、身崎「柿本人麻呂『阿騎野の歌』試論」『稿』一、一九七七年一二月)と同様のニュアンスがあるといってもよいだろう。

ここも要約しにくいのでおおかた引用した。ここで、重要性のある甲の土地というのは、三島野、大の浦、春日野ということになろうか。つまりAとは違って、視点のあるところはどうでもよく、見られるものを甲として(Aでは視点のある所が甲だった)、どこか向かう所を乙というわけだ。Aの逆ということだがわかりにくい。要するに「そがひに」ということばは、どうしても、重要性のある土地と対象とを対比して表現する時につかわれるということか。「そがひに見える」の場合は、見ている方が重要であり、「そがひに見つつ」は、見られている方が重要だというわけだが、相反する価値のものを、同じ「そがひに」で表現すると言うことだから、矛盾するのではないか。それに、三島野、大の浦、春日野は、はたして重要な土地なのだろうか。「しりめに」とか「やむなく」とか「せをむけて」とかいう、心理的な葛藤を反映した表現なのだろうか。三つの土地が地理的に後方かどうかはどうでもよいというが(あるいは諺的な決まり文句で、嚴密に方向など考える必要はないとか)、「そがひに」の語義が、後方ということから、心理的な葛藤をも表現すると言うことになるのだろうから(決まり文句があるとしてその場合も)、もし、後方という意味でなく、地理的にも後方ではないということになったら、そういう結論はでてこないではないか。春日野などは、後方どころか前方という見方すら有り得る。前方に背をむけてなどと言うことはあり得ない。心理的な葛藤と言うことを言いたいがために、その前提条件をうやむやにしているとも言えるだろう。結論(歌の趣味)が先にあってそれにあうように「そがひ」の意味を作りだしているのではないか。歌の趣味(伊藤左千夫の用語)といっても、氏のいわれるようなものかどうか微妙である(たとえば死者理願が春日野に背をむけたといえるかどうか怪しい)。なお、「かへり見」するということについては、村瀬氏がすでに言及されていた。

身:C「そがひに寝しく」
 …。…、「そがひ」の表記「背向」にわずらわされて、男女がたがいにそっぽをむいて(せなかあわせに)ねる、ととってしまうとかえってわけがわからなくなる。「竹を割った」…。…「山菅」が「葉の出かたが互いに背を向ける形であることから」(水島『全注』)というのはこじつけにちかく、葉が左右にむかいあってはえていることをいっているにすぎない。要するにはなればなれにむかいあっているのだが、それならなぜそれを「そがひ」というかといえば、当事者のたちばをはなれて両者のあいだに視点をおいてみたときのものいいなのだ。そのとき一方は他方に対して「後方」の位置にあることになる。そしてここでも、心理状態ということでいうなら、本来わかれるべからざりしものを、というニュアンスがそこにはある。
…。ふたつのものが対称的な位置にあったりはなれてむかいあったりしている。そのあいだに視点をおいていわば静的にみたときがA・Cで、視点の移動があるときがBだ。そして、このような位置関係以上にだいじなことは、そこにふたつのもの・ところをめぐる心理的なあやがはらまれている点だとおもう。

山菅の葉は左右に向かい合って生えているのではない。ヤブランなどは北海道でも普通にあるだろう。実物を見れば、水島説同様、身崎説もこじつけに過ぎない。ヤブランの葉は、放射状に群がり出ている。水島説などは、背をむけるという先入観があるからそういう風に見えるのであって、万葉の歌を知らずにヤブランを見れば、たくさんの葉が上に向かって前後左右に広がりながら群がり出ているのであって、それぞれの葉が背をむけるなどという印象はない(自宅の庭に自然生えがいくらもあるので毎日観察している)。やはり山崎説がぴったりである。竹の場合は、いろいろありうる。切った直後か、あとでまとめられたものか。切った直後なら離れ離れでいいだろう。それにしても「両者のあいだに視点をおいてみたときのものいいなのだ。そのとき一方は他方に対して「後方」の位置にあることになる。」とはどういうことか、「そがひに」に寝るのを歌っているのは男の方だろうから、視点も男の方にあるだろう。もし向かい合っているのなら、後方にならない。背中合わせなら、たがいの後方になるだろうが、それは「位置」ではなく、そう言う状態でという副詞的な用法だろう。あいだに視点をおいて、互いに後方に寝ていると読むのでは、「そがひに」の語義に合わないだろう。「ふたつのものが対称的な位置にあったりはなれてむかいあったりしている。」という歌の解釈が先にあって、語義の方をそれにこじつけたとしか思えない。語義が間違っていれば、当然、心理的なあやの理解もずれてくる。
それにしてもこの結論は、最初に言ったのとは違う。最初は後方説でよいと言っていたのに(最後のCでもまだ後方にこだわっていたが)、対称的とか、向かい合うとかいう結論では、後方にの意味にならない。どちらかといえば吉井説に近い。このあたりも杜撰と言える。

 

2304、そがひ5

2304、そがひ5
「そがひ」の語義を專論とするものは案外少なく、12の用例に、赤人、家持、池主、大伴坂上郎女、東歌などの興味を引く作品が多いので、それぞれを論じる時に、言及する形態のも多い。それぞれに力点を置くために、その作品の「そがひ」の意味が優先されて、他の「そがひ」との意味の整合性が放置されることもある。その結果、その課題とした作品の「そがひ」の結論の有効性がそこなわれる恐れがある。次の論文もその例であろう。
○赤人の若の浦讃歌、廣岡義隆、「和歌の浦歴・史と文学」和泉書院、1993,5、所収。
   四 赤人長歌の讃歌性
紹介された先行論文の著者は、山崎、渡部、小野、坂本、吉井、村山、溝上の7氏。出稿後の論文として追記されたものに、村瀬氏の1993.1があるのに、1992.1の西宮氏の論文がないのは不審である。それはともかく、7氏のうち、私が未見なのは、渡部、村山、溝上の3氏のもの。廣岡氏の紹介に依れば、特に見る程のことはないであろう。7氏の紹介はいいとして、その論文の成否に触れていないのは残念である。そして、

溝上氏の見解を除いて、いずれもこの赤人の若の浦歌における「そがひに見ゆる」の解釈に難渋している。しかし、この「そがひに見ゆる」をそうひねくりまわして解釈することはない。文字通り「背後に・背面に」の意で解釈してよい。否そうしなければならない。そうしないと赤人の意図した表現から離れてしまうのである。

と言われるのだが、先人の努力を「ひねくりまわす」の一語で切って捨てるのはちょっと行き過ぎであろう。「背後に・背面に」ではどうしても解けないから、いろいろと考察されてきたのに、それを一言も批判せずに、「背後に・背面に」でなければならない、というのは、玉津島の歌だけを見ているからである。「そがひに見ゆる」は、立山、縄の浦の沖つ島、足穂山、にも使われた表現であり、それを、「背後に・背面に」と取ったら、歌が理解できないから、先人達がいろいろ考えたのだ。その「そうしなければならない」と断定する根拠も不十分なものと思える。
「そうしなければならない」という観点からする、歌の解釈はかなり特異なものである。坂本氏などの説をきっぱりと否定し、土屋私注の擬人法を、稲岡氏の「前擬人法」と置き換え、さらにそれを万葉全体に及ぼし、

「ヤスミシシ(国土を安らかに国見され統治なさいます)我が天皇の御宮居の場所としてお仕え申し上げている雑賀野から背後に見える」の意となる。

とする。しかし、これでは分かりにくい。氏は、「仕え奉れる」の主語を「雑賀野」とし、それを前擬人法と規定した。通説では、主語は官人たちであるから、「やすみしし、我が大君の常宮として(官人たちが)お仕え申している雑賀野(の離宮)から…」となる。氏のは丁寧に言えば、「…我が天皇の御宮居の場所としてお仕え申し上げている雑賀野の(神霊)から(見て)背後に見える」の意となる(「そがひ」は一応氏の解釈のまま)。
氏の解釈で疑問なのは、だいたい離宮は雑賀野に建てられているので、その建てられている雑賀野を、雑賀野の神霊が仕え奉る、というと、自分で自分に奉仕するとなる。ひねくりまわしたわかりにくい解釈である。そして次に疑問なのは、雑賀野(の神霊)から背後に見える、というところで、これだと、雑賀野の神霊が主役のようになってしまう。いくら何でも、離宮の建っている野が主役では、君臣和楽の雰囲気がなくなる。やはり作者を含めた官人たちが離宮のある雑賀野から眺めて美景をほめるのが筋である。なお、雑賀野の神霊を主役にしないのなら、視点の起点からの発出の動作をを示す「から」ではなく、「の」にすれば、こういう疑問はなくなるが、それだと、主語にもならず、前擬人法にもならない。やはりそういう無理な解釈を取らず、また「そがひ」の通説にも従わず、「雑賀野から遥か彼方に見える」玉津島山の美景を詠んだ叙景詩と見ればよいのである。

追考又は捕捉。

廣:「雑賀野の国つ神」は「大王」に奉仕すべくその土地を提供し北面し蹲踞している…のである。

先に引用したところでは「我が天皇の御宮居の場所としてお仕え申し上げている雑賀野」とあったのに、ここでは「北面し蟠踞する」とある。雑賀野の上に離宮が建っているのに、どうやって雑賀野が北面蟠踞できるのだろうか。論点のすり替えである。

廣:天皇に仕えるその国つ神の姿からすると「奥つ嶋清き波瀲」「玉つ嶋やま」の景は「そがひ(背後)に見ゆる」ということになってしまう。

顔も足もない平地の野になぜ背後があるのだろうか。だいたい平地が北面して蹲踞できるわけがない。いくら前擬人法でも、北面蹲踞とか背後とかいうには、立体的な形が必要だろう。ただの空想に思える。私が万葉人の心を理解しないで屁理屈をひねくっているのだろうか。

廣:即ちこれは、柿本人麻呂の吉野讃歌に見られる「山川もよりて仕ふる」と同様の表現であり、土地の神が天皇に仕えること第一義として意図構成された讃歌表現なのである。南面する天皇に北面して伏し仕える雑賀野(の神)の姿を赤人は描いたわけであって、これは讃歌として意図された表現である。

安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 …、の「仕え奉れる」の主語は「雑賀野」というわけだが、それが、人麻呂の吉野讃歌と同様の表現であるなら、ありえないような稚拙な表現だが、「やすみしし わご大王の 常宮と 雑賀野の野も 仕へ奉れる 雑賀野ゆ…」のように、主語が明示されるのではないか。それが、主語なしで、連体形として「雑賀野」にかかったのでは、隠れた主語が雑賀野であることが分かりにくいうえに、讃歌性が相当に減殺されるだろう。神霊が天皇に奉仕するという、強い讃歌性が、その神霊が隠されるために強く訴えないのである。人麻呂なら、「山川も」とはっきり言う。どう考えても人麻呂と同等の讃歌表現ではあり得ない。