2252

2252、
ずいぶん間があいた。下の三つ(三つ目が430頁もあって非常に長かった)を読んでいた。二つ目までは、そのままの形で三つ目に収録されており、だらだらとくり返しが多いあきれるほど単調なのを読んできて最後のこの二つを読まなくてもよくて終わって、ほっとした。
○国語と国文学 49巻10号 1972.10
 古代歌謡・伝承と創造
     ―「歌びと」人麻呂を通して―
萬葉集研究第5集、五味・小島編、塙書房、335頁、4800円、1976.7.10
憶良文学に於ける歌謡性――山上憶良の「歌びと」的性格――久米常民
○万葉歌謡論、久米常民、角川書店、430㌻、8500円、1979.5.28

要するに、真淵の古万葉論(巻一、二、十三、十一、十二、十四の六巻が古い万葉集というもの)をそのまま認めて、それは、すべて歌謡の歌詞を載せたもので、読む時はもとの歌謡の形にもどして歌ったのだと主張している。そして柿本人麻呂は天武の時代に歌人(うたびと)として召されたもので、それを終えた後、歌びととして、歌謡を作り歌いながら活躍したというのだ。儀式歌も制作し、役民歌、御井歌も人麻呂の作で、儀礼のたびに、合唱されたのだという。真淵のいう古万葉でない新しい部分にも、憶良などの歌謡的なものがあり、それ以外も、おおかた、歌謡の歌詞なのだという。
なんとも壮大な仮説(久米氏自身が何度も仮説だと言っている)だが、おそらくだれも信じないような荒唐な仮説だ。万葉集はほぼ全体が歌謡の歌詞だなどと、いったいだれが思うだろうか。ただし部分的には、ひらめいたところもある。記紀歌謡なども、短歌形式のが多く、もとの歌謡の形が文字化されたのではなく、歌謡的な繰り返しや囃子詞を略して表記されたもので、自然に五七五七七の定型短歌の形になったという。
万葉集にも、久米氏が指摘するまでもなく、古くから歌謡や民謡の類が含まれていることは指摘されており、そのことは何も新しいことではなく、もはや常識化している。しかしそこから、人麻呂は歌謡の歌びとであり、憶良も歌びと的な特徴を豊富に持っているとか、十一、十二、十四などは、みな歌謡(民謡)の歌詞だとか、万葉の歌は読む歌ではなく声に出して歌う歌だなどといわれると、飛躍がありすぎる。
その実際の歌唱法として、琴歌譜や、風俗歌などの、本当の歌謡の歌い方が証拠として出されるが、何度も久米氏自身も断言されないように(にもかかわらず万葉歌もほぼその俵に歌われたとする)、そんな平安時代の一部の歌謡の歌唱法が、膨大な万葉の歌に適用できるものか疑問だ。だいたい万葉集を歌謡集だというが、その歌謡というのは何か、誦詠というのは実際にどうすることなのか、さっぱりイメージできない。氏は現在の歌謡曲の替え歌のようなものだというが、そんな根も葉もない説明は受け入れがたい。
やはり、西條氏や山口氏などのように、リズムという観点から見ていくべきだろう。漢詩などは押韻があって、それを意識して読むだけで音楽的になるし、内容によっては歌謡(楽府・がふ)のようになる。和歌なら、五十嵐氏も言っていたように、五七、五七のリズムが、五七五、七七の上句下句のリズムになり非常に完成した形になったということだろう。つまり和歌は押韻ではなく音数律だというのだ。それでいのではないか。万葉集は歌謡集で、歌謡の歌詞を集めたものだと言っても、実際にそれを何千曲もの(何百曲でもいい)歌曲のリズムやメロディーで歌うなどというのはあり得ないだろうし、証明もできない。山口氏のように、律読という術語で呼ぶべきものだろう。五七五七などのリズムで読めば万葉の和歌を読んだことになる。声に出すのもその程度のもので、歌曲にして歌う物ではないだろう(たとえ民謡や歌謡であることが明瞭であっても、万葉に収録された時点で、和歌として読み味わうということだろう)。本当に歌う物なら、歌詞だけが記録されたとしても、記紀歌謡のように、その歌曲名も記録されなければならない。

奈良、和歌山の人口

奈良県2020年12月1日
奈良市 35,2851 -57 92  0.0001615(10←10)
大和高田市 6,1002 -63 19  0.0010327(3←8)
大和郡山市 8,4119 -77 4   0.0009153(4←7)
天理市 6,4422 -52 -1  0.0008071(5←5)
橿原市 12,1589 -36 24  0.0002960(7←9)
桜井市 5,4459 -12 6   0.0002203(8←4)
五條市 2,7748 -46 -6  0.0016577(1←1)
御所市 2,4459 -32 10  0.0013083(2←3)
生駒市 11,6244 23 13  +0.0001978(11←6)
香芝市 7,8398 -17 16  0.0002168(9←12)
葛城市 3,7123 16 15  +0.0004309(12←11)
宇陀市 2,7901 -9 30  0.0003225(6←2)
【市部計】105,0315 -362 222
山添村 3207 -6 1
山辺郡計》 3207 -6 1
平群町 1,8096 -4 6
三郷町 2,3278 9 1
斑鳩町 2,7340 -9 9
安堵町 7191 -23 -12
生駒郡計》7,5905 -27 4
川西町 8328 -7 7
三宅町 6531 -7 -6
田原本町 3,0925 -20 8
磯城郡計》4,5784 -34   9
曽爾村 1360 -3 -3
御杖村 1484 -3 -4
《宇陀郡計》 2844 -6 -7
高取町 6650 -10 -1
明日香村 5248 -15 0
高市郡計》1,1898 -25 -1
上牧町 2,1175 -4 8
王寺町 2,3778 21 8
広陵町 3,3622 13 14
河合町 1,7004 3 5
北葛城郡計》9,5579 33 35
吉野町 6136 -14 -1
大淀町 1,6549 -4 6
下市町 4784 -7 -4
黒滝村 556 -1 2
天川村 1157 3 3
野迫川村 347 0 0
十津川村 3070 -3 -1
下北山村 739 -2 0
上北山村 420 -5 -2
川上村 1080 3 4
東吉野村 1435 -5 -1
《吉野郡計》3,6273 -35 6
【郡部計】 27,1490 -100 47
【県計】 132,1805 -462 269
増えたのは、生駒、葛城、三郷、王寺、広陵、河合、天川、川上の八8つ。相変わらず多い。353841(和)-352851(奈)=990。

和歌山県2020年12月1日
県計 91,2889 ▲ 580 ▲91
市部計 71,8514 ▲ 321 ▲ 27
郡部計 19,4375 ▲ 259 ▲ 64
和歌山市35,3841 ▲ 118 ▲ 9   0.0003334(6←9)
海南市 4,7906 ▲ 59 ▲ 22  0.0012315(3←1)
橋本市 6,0245 ▲ 22 ▲ 3   0.0003651(5←5)
有田市 2,5901 ▲ 31 ▲ 4   0.0011968(4←2)
御坊市 2,2862 ▲ 2 12    0.0000874(8←8)
田辺市 6,9143 ▲ 83 ▲ 11  0.0012004(2←4)
新宮市 2,6676 ▲ 56 ▲ 30  0.0020992(1←3)
紀の川市 5,8291 ▲ 13 2    0.00022301(7←6)
岩出市 5,3649 63 38    +0.0011742(9←7)
海草郡 8107 ▲ 11 ▲ 7
紀美野町 8107 ▲ 11 ▲ 7
伊都郡 2,2397 ▲ 35 ▲ 5
かつらぎ町1,5628▲ 18 7
九度山町 3847 ▲ 3 ▲ 4
高野町 2922 ▲ 14 ▲ 8
有田郡 4,2913 ▲ 35 2
湯浅町 1,1092 ▲ 7 2
広川町 6616 ▲ 5 0
有田川町 2,5205 ▲ 23 0
日高郡 4,7964 ▲ 75 ▲ 16
美浜町 6838 ▲ 15 ▲ 1
日高町 7663 0 0
由良町 5140 ▲ 17 ▲ 8
印南町 7545 ▲ 12 ▲ 1
みなべ町 1,1608 ▲ 8 1
日高川町 9170 ▲ 23 ▲ 7
西牟婁郡 3,8681 ▲ 43 ▲ 14
白浜町 2,0017 ▲ 32 ▲ 11
上富田町 1,5072 ▲ 6 ▲ 4
すさみ町 3592 ▲ 5 1
東牟婁郡 3,4313 ▲ 60 ▲ 24
那智勝浦町1,3977▲ 39 ▲ 16
太地町 2792 ▲ 6 ▲ 1
古座川町 2464 ▲ 1 ▲ 1
北山村 409 ▲ 3 ▲ 1
串本町 1,4671 ▲ 11 ▲ 5
増えたのは岩出一つ。ここだけは減りそうにない。

2251

2251、
西條氏の専論として予定したのは、
国語と国文学・上代文学研究の展望、2007.11月特集号、の
定型の原理――詩学史とリズム論の現在――
というものであった。これはこの人の特徴なのだろうか、題名から期待すると肩すかしを食らう。これも、定型の原理というから、57577の和歌の定型を論じるのだろうと思ったが、副題のそれもそんな大げさなものでもない、いわば予備的な考察(原理的な考察という)が主で、定型の原理などというのは、その付け足したになっている。
和歌のリズムというよりも、日本語の詩の言葉のリズムといったようなもので、土居光知の2音を基本とする気力説などが紹介され、また時枝などの国語学的な理論も説明したあと、
すると、定型を成り立たせているのは、単独母音の脱落や融合を生じさせている声のレベルとみなければならない。これを音韻に対する用語でいえば、音声の次元ということになる。音声はそのつど発せられるなまの〔三字傍点〕声であり、意識されるものである音韻に対していえば、意識されないものである。この肉声が定型を生み出していることになる。そのばあいの定型は、丁寧に数えると六音八音になる音数を五音分もしくは七音分として発音するような定型である。それはどのようなものであろうか。言い換えれば、なまの肉声が生み出す定型、音数律ではない、しかも、結果として音数律になるような定型とは、いったいどのようなものであろうか。
と言う。ここで言う「音声の次元」というのが記紀歌謡などの「こえの歌」であり、音韻を意識した音数律の歌というのが万葉の「よむ歌」になるということだろう。
そのあと福士幸次郎の2音のリズム説(意味の切れ目が音声の切れ目ではなく、2音で切れるのが日本語の言語としてのリズム、例、絵葉書→エハ・ガキ)を援用して肉声(身体)のリズムということを考察し、結局、
万葉集長歌は <五音句+七音句>すなわち<四拍節+四拍節>(八拍節)を基本的な単位として、これを幾度か繰り返してから、七音句で収める形式になっている。終息の形は四拍節を三回繰り返すことになる。
という。これは奇しくも、前回私が、犬養孝氏の歌唱は、8音の繰り返しに聞こえるといったこととほぼ一致する。
その身体的な8音のリズムが、なぜ頭脳のリズムとしては、57になるのかは後日の課題というわけだ。ずいぶん荒っぽい要約だと言うことは自覚しているが、福士幸次郎の日本語2音基本説というのがかなり素朴な説なので、それを主要な根拠とする西條氏の主張も十分なものとは言えないように思う。
私も福士幸次郎著作集(津軽書房)を持っており、かなり読んだ。例の「絵葉書→エハ・ガキ」論ももちろん覚えている。しかしあまりに偏狭な国粋主義のうるさい言説にうんざりして、半分ぐらいで真面目に読むのをやめ、斜めに読んだ。詩人としてもあまり面白くない。

2250

2250、
更にそれて、
万葉集字余りの研究、山口佳紀、塙書房、362頁、2008.05.01
を読む。西郷、品田、西條、工藤、山口の順に新しい。工藤以前に比べて、非常に実証的で分かりやすいが、それだけに、理論的に進歩したという点が不十分だ。いかにも国語学的な研究だ。書名は字余りだが、わずかながら字足らずにも観察は及んでおり、5757の定型でよむことの万葉集の実態がよくわかる。宣長毛利正守氏の、研究で、句中に母音を含むときの字余り現象が詳細に研究されたが、それをさらに拡充させたと言えよう。ただし氏も言われるように、万葉集長歌短歌旋頭歌だけで、記紀歌謡や古今集以降には及ばない。特に破調の多い、不定形の記紀歌謡の長歌様のものに一言も言及されなかったのは、心残りだ。
この書では、今まで字余り字足らずとして読まれてきたものを定型(充足音句)に読むために訓詁を行ったものが多い。その結果今までなじんできた読み方が変えられたものが多く、いくら自信たっぷりに断定されてもにわかには信じがたい感じもする。
偶数句(7音句)は、原則2つの部分に分けて唱詠し、その後半に母音が来るものは、全体として不足音句ではなく、充足音句になるというのは、なるほどと思わせる。つまり句中の母音として6音相当になるのではなく、句頭に母音が来るのと同じ働きをするというのである。
句中母音を含まない字余りや、含んだ上での字足らずと純正の字足らずなどは破調というか例外として処理されるだけで、リズムの問題としては考察されない。記紀歌謡のような乱取り調からどうして、万葉のような定型になっていくのかが分からない。ただし、ごくまれだが、「長歌の結句は、5音句に比して、音数的な制約が厳しかったものと見える。」(207頁)といった指摘もある。つまり長歌の最後は、きちんと充足音句で閉じるという、リズム上の形式があるというわけだ。
それから、「本書のまとめとして」を読むと、本文中にはなかった、歌のリズムについての理論的な説明が出ている。
和歌については音楽的な「歌唱」と、音楽から離れた「律読」とがあるという。記紀歌謡で一句の音数が一定しないのは「歌唱」されたものが多いからだろう。万葉で定型化が著しいのは「律読」されたからだろう。これは一般に「ウタフ歌からヨム歌へ」と言われるものである。ただし万葉でも音楽的に「歌唱」されることはあったであろう。といっても、たとば、「わざみの」などは、4音分に発音されたのか、最後の「の」を延音して「わざみのお」として5音分に発音されたの、不明である。
と、このように言われると、それはその通りだと思うのだが、そこを知りたいわけである。そういう字足らず句というのはどういうリズムをもつのだろうか。そこを推測ではあっても、西郷信綱のように、歩くときのような肉体的なリズムであり、立体的にイメージが浮かんでくるといったすぐれた読み方をされる方がすっきりとするわけだ。そう言うのは批評であって、学問ではないのだろうか。といっても、なみの努力では西郷氏のような理解は出来ないのだ。
余談、犬養孝氏の「歌唱」はすべての万葉短歌を同じリズムで歌うのだから単調極まりない。といって歌によってメロディーを替えるのは、作曲家でもないかぎり無理だろう。また、よくきくと、57577のはずの歌が、延音が多いから、おおかた、8音の繰り返しに聞こえる。
いわーばしるー- たるみの-うえの さわらびの-- もえいずるはるに- なりに-けるかも  
本当に万葉の歌なんだろうか。

 

2249

2249、
西條氏の論文を読む前に、ちょっと寄り道して、西郷信綱氏の文を読んでみた。「神話と国家・古代論集」平凡社選書、1977年6月1日初版、所収の「古代詩歌の韻律」(初出1976年7月、原題「古代詩歌のリズム」)
題は大きいが、論じられていることはかなり狭く、記紀歌謡や万葉集のリズムのことが全面的に分かるとまではいかない。論題は57577の定型短歌がなぜ万葉集で圧倒的になり、古今集ではほぼすべてがそれになったのは何故かということである。記紀歌謡では、57をくり返す長歌よりも、346音などのまじる破調(2247で変調といったのは取り消す)が多い。それが万葉の人麻呂長歌では、575757…577という単調な形式になり、しかも記紀歌謡にはなかった反歌が付き、その反歌に名作があって、結局57577の定型短歌が圧倒した。初期万葉の短長歌記紀歌謡の名残だ。そう言った変遷は結局リズムの問題だというのである。
そこで要注意なのだが、西郷氏がいうリズムというのは、詩の言葉のリズムのことである。しかしそれだと、記紀歌謡など、声に出して歌われるのが原則のものの言葉のリズムとはなにかとういう疑問が生じる。歌謡の場合は音楽的なリズムが圧倒的だと思うのだがどうなのだろうか。
記紀歌謡は、すでに原始的なものではなく、大陸音楽の旋律にセットされた歌い方を示すという。楽器伴奏が入ると歌謡の詩としての自立性は失われるという。それは当然だろう。だいたい歌謡に詩を感じることが普通ではない。
それでも記紀歌謡のリズムは身体的な所作と結びついていて、二句ごとの休止は足取りのこだまにほかならないが、人麻呂の長歌はのべつ幕なし調になって休止がない。宮廷の儀式歌が高度の中国音楽の受容と共に、まだ立体的な喚起力を持ち身体的なリズムに裏打ちされていた記紀歌謡(初期万葉の長歌にもそれはある)らしさを失い、定型のリズムと技巧の多用によって荘厳な長歌形式を完成させていったが、しょせん単調な儀式歌になり、すぐれた歌とはならなかった。
このあたりは説得力がある。これだと天武の25番歌などは、記紀歌謡的な身体的なリズムで詠めば、「み吉野の耳が嶺」が鮮やかに浮かび上がるが、人麻呂長歌のように、のべつ幕なし調的に詠めば「み吉野の耳我の嶺」は地図上の眺めというか一点というか移動というか、ただの説明になってしまう。実体感が薄れる。
しかし、西郷氏の論考も西條氏と似ていて、さあこれからと言うところで終わってします。古今集以降の短歌のリズムは論じられない。人麻呂以外では憶良だけが論じられたが、それも中国文化の影響に散文化ということで、記紀歌謡との関係は論じられない。氏も言われるように、全体として古事記注釈の副産物といったものなのだろう。大陸音楽の影響と言うが、声に出して詠んだり歌ったりおどったりするのと、目で詠む長歌短歌の言葉のリズムとはどう関係するのか、ほとんどふれられない。ただ大陸音楽の影響があったというだけだ。

 

2248

2248、
工藤氏が二つ目に出された参考文献。
古代の読み方 神話と声/文字、西條勉、笠間書院、283頁、2800円、2003.5.31
これは未読なので最初からきちんと読んだ。ところがいけどもいけども出てこない。第二部の第二章「韻律と文字」(150~175頁)でようやく出た。これは品田氏と違って、主題として論じたものであり、頁数もかなりある。
五七五七七の定型は書くことで成立すると言われるが、それをあきらかにするための予備作業をするといっている。これは嫌な予感がする。入口だけで本論がないのではないだろうか(実際その通りだった)。歌謡というのは、本来、韻律(リズム)と歌舞による民間の言葉の音楽で、肉体性のリズムが言葉のリズムに置き換わったものが所謂古代歌謡である(このあたり西條氏が親炙された西郷氏の論説と似ている)。それが万葉になって五七五七七の和歌の定型になった。これはもう目で読む歌だが、人麻呂あたりでは、それが声に出して歌われることもあった。
ということで、それからいよいよ本格的に万葉の定型(長歌も含む)の成り立ちが詳しく論じられるのだろうと思ったが(字足らずの不定型も含めて)、ぷつんと切れていて、「土地の名と文字」、といった全然関係のない議論になる。第一部のほうも、テクスト論とかパラダイムの摩耗とか作家論の流行とか、読んで飽きないけれども、しょせん注釈や解釈を金科玉条とする万葉学会の人たちには通じない話だ。それに話題があまりにとびとびで、総体としてただの八百屋になっている。ちょっと言い過ぎたかな。個々の作品を論じるときに、万葉集全体というテクストの文脈を捉えて作品を読むことが大事だ、というのは納得した。茂吉ではないが、やはりどうしても柿本人麻呂の作品なら、そこに柿本人麻呂という作家の精神を読もうとしてしまう。万葉集という歌集のなかでどういう歌として読むかという視点が必要というのは、感心した。
それから西條氏は、専論のかたちで、和歌の定型の成立を論じておられる。次にはそれを読んでみよう。

2247

2247、
日本・神話と歌の国家、工藤隆、勉誠出版、2003.12
について、字足らずの不定型の長歌は、記紀歌謡などの万葉より一時代前の口誦歌謡の名残で、文字表記を通して読む長歌になった万葉集では消滅していくとされていることについて、中国少数民族の歌垣の例などから、口誦の歌謡にも定型はあると言っているが、十分には論じられていない、といったことを以前述べた。そこで、通説の例として、品田氏と西條氏との著書が引用されていた。そこで、まず、
万葉集の発明-国民国家と文化装置としての古典、品田悦一、新曜社、356頁、3200円、2001.2.15(2019.5.30.3p)
を読んだ。これは初版の時に読み、今回の新装版で二度目だ。最初は、明治、大正ごろのアララギ派を中心としたことばかりで、真面目に読まなかった。今回工藤氏の言及によって真面目に読んだ。しかし古代歌謡の形式のことなど無かったような記憶があって、「第三章 民族の原郷」から読みだしたが、「民謡の発明」をはじめどこにも出てこない。それで最初から読んだ。だいたい、明治の国民国家創出のために国民歌集としての万葉集が発明されたことの経路を論じているのだから、古代歌謡から万葉の定型へといった話は出てこないと思っていたが、「第一章 天皇から庶民まで」の「五 国民の全一性の表象」でついに出て来た。八二頁~八七頁である。
○今でも万葉集といえば、天皇から庶民までの歌があると思われているが、それは事実ではなく、造られた(発明された)言説である。
万葉集には、東歌や防人歌など、庶民の作や、民謡のようなものがあるというが、それはほぼすべて、五七五七七の定型になっており、口誦の民謡ではあり得ない。だいたい記紀歌謡などの口誦的な歌謡は定型が確立されていない。
○万葉にある、民謡(国民的な歌謡)のようなものは、実際の民謡ではなく、貴族によって意図的に作られ万葉集に入れられたものである(おそらく政治的な事情から)。万葉集は庶民の歌まである国民的な歌集だという考えは嘘であり、発明されたものである。
といったようなことが書かれている。これはもう全くその通りであり、万葉に記紀歌謡的な、五十嵐の言う乱取り調の長歌などはないのだが、しかし、字足らずをかなり含む、完全な定型とは言えない、長歌がかなりあったのは前述の通りだ。そこを品田氏は、宣長的な考えを受け継いで、伸ばしたり縮めたりして歌ったのだろうとも言われる(定型は文字文化の受容によって完成したのだが、同時に歌われもする)。万葉に民謡(フォルクスリ-ト)などはないというのは、その通りだとして、完全な定型になっていない長歌がかなりあることについて、民謡でないとしたら、どういうことなのか。五七調のなかのちょっとした変調だですますのだろうか(歌えば伸び縮み、矣で五七のリズムになるというふうに)。しかし、リズムやメロディーによる57調などというのは論証不十分だろう。そういうところは、品田氏は言及されないが、五十嵐力と同じである(つまり宣長以来の通説の受け売り)。そもそも歌の定型や形式の変遷を論じるのが主眼ではないから、五十嵐は全く引用されないし、論じた部分もわずか数頁で、民謡をながながと論じている(第三章)のから見ると簡単すぎる。しかし論点や主旨が違うのだからそれはそれでいいのだろう。こういうところに目を付けて、批判してくる工藤隆氏のほうがお門違いかも知れない。
ところで、五十嵐が国歌というのは異様な感じだと言ったが、品田氏の文章を読むと、明治時代には国詩といういいかたが多かったようだ(一度だけ国歌の例も出されていた)。内村鑑三が言っているように、ゲーテやダンテのような国民文学が渇望されていたのだろう(しかし鑑三もいうように、当時の薩長政治、金権政治のような社会のもとで、そんなものは出来るはずもなかった。)品田氏のいうようなことは、明治の同時代に内村鑑三が簡単ながらも見抜いていたわけだ。ただし鑑三はアメリカ中心だから、万葉などの国文学などでるはずもない。だからアララギへの言及もない
。鑑三のころは国民国家どころか、薩長土肥藩閥政治だったのだ。今は自民党独裁だが、それにしても、明治は遠くなりにけり、で、藩ごとの独立的な封建態勢の残滓が濃厚だった社会は想像しにくい。品田氏はそのことを土台にしているわけだが。